ひっそりした沈黙が広がっていった。
カミューは愕然としたまま食い入るように男を見詰めていたが、ようやく洩れた声は掠れていた。
「……ぜんぜん年を取らなくなった……?」
「世に言う、『不老不死』といったものだろう」
ありがたくもないが、と短く付け加えた男だったが、カミューは更に困惑しきった口調で尋ねた。
「十五歳で魔物と戦って……そのまま……?」
思わず伸び上がって間近に顔を寄せた少年に、逆に男が身を引いた。
「……嘘だ」
「何だと?」
「だって、……ってことはつまり、あんたは十五歳ってことだよね?」
「……身体だけはな」
「だって…………だって」
カミューは幾度も躊躇しながら終に言った。
「……オレと五つしか変わらないなんて、嘘だ」
男はどうみても十代半ばなどという雰囲気ではなかった。昨夜の第一印象よりは若く見えたのは確かだが、納得出来るものではない。
男は失礼な奴だ、と小さく呟き憮然とした。その一瞬だけ、僅かに年齢の片鱗を垣間見せたが、暗い瞳の色は変わらなかった。
かといって、幾つならばすんなり腑に落ちるかと問われれば、カミューにもわからない。ただ、自分の知る十五歳の人間とは絶対に違うとしか言いようがないのだ。
「ごめん、ふ……老けてるとか、そういうんじゃないんだけど……」
説明しようにも言葉が見つからず、必死に陳謝する少年に向けられた眼差しは元に戻っていた。殆ど感情を感じさせない凍りついた瞳。闇に風が吹き抜けていくような侘しさを覚え、唐突にカミューは理解した。
男には、命の輝きがないのだ。
生あるものならば誰もが持つ未来への渇望が枯れている。
カミューは膝立ちになってそろそろと手を伸ばし、男の胸に掌を当ててみた。彼が魔を宿しているとしても、今は恐れを感じない。
「…………?」
不思議そうにされるがままになっている男の胸元には、確かに鼓動が刻まれていた。理屈では説明出来ないけれど、彼は生きながら死んでいるのだ。カミューは押し潰されそうな痛みを覚えた。
「魔物が取り憑いたと言っても、別に死んでいるわけではないぞ?」
静かに降ってきた言葉に幾度も首を振り、震える声で訊いた。
「……どうして森から出ないの……?」
「────出られない」
それは、だが無念すら感じさせなかった。
「この身に巣食う魔物の所為だろう。森の外に出ようとすると、全身に炎が広がるような痛みが走る。それでも進もうとすると……耐え難い苦しみで狂いそうになる。結界でも張られているのかもしれない」
カミューは炎を操る男の右手を盗み見た。昨夜の光景が過ぎる。煌々とした光は闇に美しかったけれど、それが自分の身体を包んだら。そう考えると恐ろしくて涙が出そうだった。
「……どのくらい……ここにいるの……?」
そうだな、と男は少し考えた。
「最初の十年は何としても森から出ようと努めた。次の十年は何故こんな魔物がこの世に在るのか考えた。更に次の十年は」
乾いた笑みが口元に浮かぶ。
「────慣れることに費やした。その後は……覚えていない。日を数えることにも飽きたからな」
絶句する少年に醒めた瞳が向けられた。カミューはやっと男をあらわす表現を見出した。
諦め。
突然降りかかった理不尽で残酷なさだめを、男なりに打破しようと苦心したに違いない。身を焼く痛みを堪えながら、幾度脱出を試みたことだろう。そのたびに男は拒まれ続け、打ちのめされてきたのだ。
魔が巣食う森にひとり、いつしか自身が『魔王』と称されるまで、孤独な苦闘に立ち向かい、そして敗れた。諦めが全身を包み心を凍らせるまでの日々、それは幼いカミューにも漠然とではあるが想像出来る。
苦悩や諦めは人を痛めつける。だから男は老成しているのだ。十五の肉体とは思えぬほどに。
沈黙してしまったカミューを気遣うように、男は殊更揶揄めいた口調で締め括った。
「物語ならば『勇者は人々の恐れた魔物を退治した』で終わるのだろうが、現実はそう目出度くいかないものだ」
「………………でも」
カミューは真摯に男を見上げた。
「あんたが人喰いの山狗を倒して、それからは誰も襲われてないんだよね? だったらやっぱり勇者だよ」
すると男は虚を突かれたように瞬いた。見返す瞳は優しげと言えるほどだった。
「……五つ違いと言ったな……大人びた口をきく」
ふっと力を抜いた調子で言うと男はゆらりと立ち上がった。
「早くしないと仲間に追いつけなくなるぞ。朝食は歩きながらにしろ」
片手に剣を抱いて、もう片手で芳醇な香り立つ果物を齧りながら、昨夜と同じように男の背を追い掛けて森の路を踏んだ。恐れと不安で見詰めた背中は、まったく違った表情を見せていた。今、その逞しい後ろ背に感じるのは孤独と寂寥だけだ。
「あっ……」
両手の塞がった少年は、またしても草に足を取られてよろめいた。男は即座に振り返り、苦笑いながら片手を差し伸べた。
「剣を寄越せ。おまえには余るだろう」
束の間躊躇したカミューだが、命じられるままユーライアを差し出した。言われたように成人用の剣は持ち運ぶだけでも相当な負担となっていたのだ。男は受け取った剣を握ると、もう片方の手を更に伸ばした。顔つきには相変わらず目立った感情は窺えない。それでも今のカミューには、男の眼差しに微かな温かさを認めることが出来た。
男は決して冷たい人間ではないのだ。魔を宿し、自ら魔王とまで呼ばれていても────森を通す代償に生贄を要求し、それを喰らうと恐れられていても、あくまで『外』の人間が真実を知らずに吹聴して回っているだけに過ぎない。
厳密に言えば、彼は『人』の範疇を超えてしまっているのだろう。時を止めた肉体、魔物を屈従させ、炎を操り、闇の中を自在に闊歩して。だが、カミューに手を差し出し、皮肉っぽくはあるが笑みを見せ、眠る彼に上着を掛け、食べ物を運んでくれたのも同じ男なのだ。
罪なく築き上げられた噂がどれだけ男を傷つけていることか。『外』で過ごした幾倍の歳月を、彼はここで過ごしたのだろう。それを思うとカミューは薄ら寒ささえ覚える。
魔性は甘言をもって人を誑かす、古くから言い伝えられる逸話は幾つも耳にしてきたが、握り返した手に感じるものはいたわりと慈しみ以外の何ものでもない。その優しさだけがすべてだった。昨夜は気付かなかったが、男が歩調を合わせて進んでくれていることも悟った。大きな掌に包まれている手から得も言われぬ安堵が滲み出る。
「ね、ねえ」
カミューは知らず呼び掛けていた。
「オレ、カミューっていうんだよ。グラスランドの生まれなんだ」
そうか、と短い応えが響く。そのまま黙するのに重ねて問うた。
「あんたは? 何て名前なの?」
「……訊いてどうする?」
今度はにこりともせずに男は眉を寄せた。
「え……あの────」
「おれは森に棲む魔物、おまえは森に紛れ込んだ子供。それ以上でも以下でもない」
「でも」
カミューは不満に思って足を止めた。自然、手を繋ぐ男も引き止められて立ち尽くすことになった。
「…………あんたのことを待ってる人はいないの?」
「ロックアックスでおれの縁者でも探してくれる気か?」
やや表情を緩めた男は目を細める。
「無駄だ。もともと両親は早世している。育ててくれた叔父夫婦も……もう、この世にはいない。あの街に、おれを知る者はない……誰も」
誰も、と呟いた刹那に浮かんだものは痛ましいばかりの切なさだった。カミューは露にならない男の機微に次第に敏感になっている自分に気付いた。
「忘れろ」
彼は優しく命じた。
「この森のことは忘れて……仲間のところへ戻って、元のように暮らすがいい」
その『仲間』を手酷く非難したくせに、とカミューは微かに思った。
それでも男は、子供がこの時代にひとりで生き抜くことの至難を知っているのだろう。再び前方を見据えて歩き出した足取りは力強く、一刻も早くカミューを『外』へ送り届けようとする意思が窺えた。
やがて視界が開けた。
茂みが断ち切れて、旅してきた道筋と似た光景が広がる。丁度前後して森の脇道を抜けたのか、見覚えのある隊商が視線の先をゆっくりと進んでいた。
「いい塩梅だったな。さあ、おれはここまでだ。後は一人で行けるな?」
引き寄せられて前方を行く隊列を指されたカミューは、改めて傍らの男を見上げた。穏やかな双眸が見下ろしている。そこにはやはり目立った変化は見えなかった。ただ、これまでで一番優しい目だ、そう思った。
「……どうしても出られないの?」
「いつかは出られる」
ひっそりした答え。
「おれが山狗をそうしたように……いつか誰かが殺してくれれば、おれは魔から解放される。森からも出られる」
少年は絶句し、小さな拳を握り締めて俯いた。
「寂しくはないの……?」
短い躊躇の後、男は微かな溜め息を洩らした。
「────そんな感情は忘れた。さあ、行くがいい」
差し出された剣を取ろうと伸ばした手は激しく震えた。カミューは半分ほど食べ終えた林檎と男の瞳を交互に見遣り、やがて掠れた声で言う。
「ねえ……もし……もし、だよ? オレがここに残るって言ったら……」
終いに聞き取り難いほど小さくなった声だった。が、不意にきつく突き飛ばされてよろめいた。手にした林檎が零れて足元に転がる。
「つまらないことを口にするな! 『外』の人間から見ればおれは魔物だろうが、子供に同情されるほど落ちてはいないぞ!」
「そんなんじゃない!」
カミューは突然投げつけられた荒々しい口調に僅かに怯んだが、次の瞬間、ぎくりと強張った。自分を見詰める男の瞳が真紅に燃え上がっていたのである。
「おまえに何がわかる?」
苛立ったように男は吐き捨てた。
「共存しているとは言っても、巣食った魔は常におれの中で荒れ狂っている。すべてを燃やし、破壊し尽くしたいと叫んでいる。人を喰った山狗のように……おれの中には獣が棲んでいるのだ。おれは戦い続けている。だが、いつ魔性に呑み込まれても不思議はないんだ」
煮え滾るような虹彩の紅にカミューは息を詰めた。人ならぬものの本性が初めて突出した姿を目の当たりにして、下肢は竦み、口の中が乾いた。仁王立ちになった男の全身から立ち昇る闘気は紅蓮の焔にも似て、幼いカミューを脅かす。
短い対峙の後、緩やかに男は息を吐き、紅く染まっていた瞳が漆黒に戻った。次いで彼を包んでいた怒りの奔流が薄らぎ、消えていった。静かな貌が恥じたように項垂れる。
「……あんな話をすべきではなかった。すまない、忘れてくれ」
「………………」
「おまえは優しい子供だな。その気持ちだけ貰っておくことにする。さあ……帰れ、おまえの在るべきところへ」
男はそれだけ言うと、踵を返し、大股で来た道を戻り始めた。
在るべきところ、と繰り返したカミューは次第に遠ざかる隊商を見遣った。そこに常と変わらぬ様子はない。自分の欠落を多少は悼んでくれている者もあるかもしれないが、それも長いことではないだろう。
共に暮らしてきたと言っても、所詮カミューは彼らにとって部外者なのだ。生贄を求める魔物に、真っ先に差し出されるだけの半端な存在。
いずれ彼らはカミューを忘れる。マチルダで大きな商いを成功させれば、影で犠牲になった子供のことなど苦き思い出として封印されていくだろう。
戻ったなら?
彼らの抱える自責は消え去り、これまでと変わらぬ日々を取り戻せるだろうか……?
「……あんただってわかってない」
ぽつりと呟いた弱い声に、枯草を踏み締める音が途切れた。
「言ったじゃないか……生贄に出された人間は戻らなかった、って。自分が助かって、他の誰かが死ぬのが怖かった……でも、そうじゃない人もいたかもしれないじゃないか」
カミューは隊商を見詰めながら続けた。
「いらない人間だから……だから生贄に選ばれたことが悲しくて……戻ったときに自分を見る人たちの顔を見たくなくて、帰らなかったのかもしれないじゃないか!」
カミューは視線を戻した。後ろを向いたまま立ち止まっている男の背中に向けて投げつけるように叫ぶ。
「頭は何度も謝ってくれた。でも……あの人たちにとってオレはもう死んでるんだ。魔物に喰い殺されちゃってるんだ! オレを待ってる人だって誰もいないよ、あんたと同じに!!」
それでも動かない男に、カミューは小走りに駆け寄った。剣を落としながら幅広い男の背中にしがみつく。ほんの僅かに強張った男の拳が、身体の両脇できつく握り締められていた。
「ここに居させて」
訳のわからない激情に駆られた少年は泣きながら懇願した。
「オレには行くところなんてない……だから、ここに置いて」
「言っただろう、おれは────」
「怖くない」
カミューは濡れた頬を男の青い上着に擦りつけた。
「あんたが魔物でも怖くない。友達になってよ、二人なら寂しくなんかない」
長い────長い沈黙の後。
男の背中から力が抜けた。
「…………カミュー」
初めて呼ばれた名前に少年は泣き濡れた顔を上げた。ゆっくりと向き直った男が視線を逸らせながら乱暴に頬を拭う。
「カミュー…………」
何を語ろうか迷っているように幾度も開きかける唇。カミューは深淵を湛えた黒い瞳に再度訊いた。
「あんたのこと……何て呼べばいいの?」
男は一瞬目を細め、それから何処とも分からぬ彼方に向けて低く答える。
「マイクロトフ」
そして今度は真っ直ぐに少年を見詰めた。
「マイクロトフ、だ……カミュー」
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押しかけ紫の上・赤。
勢いで青に勝つ日が来ようとは……(笑)
青の外見がヤングなのは
今後の展開に必需なのです。えへ(←…)
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