目覚めたら、まず馬の様子を見る。
それから飼葉を足してやって、水汲みに出る────。
幼いながらに与えられた仕事は充分あった。カミューは目蓋をちりちりと焦がす光に小さく寝返りを打ち、のろのろと起き上がった。
霞む目を凝らして初めて、置かれた環境がこれまでと異なることに気づいた。身体を包んでいた青い上着を掴みながら周囲を窺うが、昨夜傍らに眠っていた魔物の姿はない。次に恐怖が迫った。
柔らかな草の寝床を跳ね飛んで、大樹の洞を転がり出る。
昨夜はあれだけ鬱蒼と暗かった森だったが、木陰を分け入る陽射しが満ちて、様相を一変させていた。大樹の周辺は茂みが途切れていて、言わば広場のように視界が開けていた。だが、男の姿はまったく見えない。
考えてみれば自分のような貧弱な子供一人を喰らうより、隊商を襲う方が遥かに利があることだろう。それに気付かず呑気に眠りこけてしまった我が身を責め、カミューは悲嘆に暮れた。
戻るにしろ進むにしろ、すでに方向感覚は皆無だ。大樹を中心に放射状に幾つか走っている小路のどれを辿ってきたのか、闇の中を男の背だけを頼りに歩いてきたカミューには判断出来なかった。
どうすればいいのだろう。
隊商の仲間たちは、カミューが首尾よくつとめを果たせなかったことをどう思うだろう────『思う』暇があれば、の話だが。
昨夜の魔物はカミューの言葉にひどく腹を立てているようだった。不可解ではあったが、彼の言葉にはカミューを気遣う気配さえ窺えたのだ。あのときの怒りのような口調が隊商に向けられたものだとしたら、彼らは無事ではないだろう。
ともかく、行ってみよう。
森を出て何とか一行を探してみる。手遅れだったとしても、ならばせめて亡骸を葬るなり、何らかの役割は残っているはずだ。それが物心ついたときから面倒見てくれた大人たちへの精一杯の感謝になるのだろうから。
カミューは洞に飛び込んで、頭がくれた剣を取り上げた。懐に忍ばせておいた札は水浴びで濡れてしまったけれど、使えないことはないようだ。ナイフは残念ながら見当たらなかった。泉で溺れたときに落としてしまったのかもしれない。
一応の現状を確かめた上で再び外に駆け出したとき。
「……どうした?」
横から太い声が呼んだ。ぎくりと強張って目を向けると、小路のひとつに男が立ち尽くしていた。闇の中では判然としなかった顔だちと初めてまともに相対したが、確かめるでもなく昨夜の魔物だった。
低い声はひどく穏やかだ。殺戮の後とは思えない。見遣った衣服の何処にも闘争の影はなく、零れる朝陽に曝される悠然とした姿はさながら王者の風格だった。
「何処へ行ってたんだよ?!」
少年の泣きそうな詰問に男は僅かに眉を潜めたが、無言で片手を揺らす。彼の左手には果物が握られていた。ゆっくりと歩き出した男は呆気に取られているカミューの正面で歩を止め、片頬で笑むと皮肉混じりの口調で言った。
「寂しかったのか?」
かっと紅潮したカミューだが、目の前に突き出された林檎に反論を忘れた。真っ赤に熟れた林檎に忘れていた空腹が蘇る。
「朝飯には悪くなかろう」
「これを……取ってきてくれたの?」
尋ねたが、答えは返らなかった。少年の手に果物を押し付けた男は、そのまま洞に入ると、上着を羽織りながら戻ってきて大石のひとつに腰を落とした。
「……隊商に手出ししてないよね……?」
恐る恐る確認してみると、彼はつまらなそうに息を吐いた。
「いいから、それを片付けるがいい。そうしたら送ってやる」
「え……?」
「森の北側に抜ければ、仲間と合流出来るだろう」
カミューは今度こそ呆然として、そろそろと男に近寄った。まじまじと見入る相手が思ったよりもずっと若く見えることに驚きながら。
「……オレを太らせて、美味そうになったら喰うんじゃないの?」
すると男は漆黒の瞳を伏せた。
「………………あれは冗談だ」
そんなむっとした顔で『冗談だ』などと言われても。
カミューはますます戸惑った。
「……どういうこと……?」
溜め息をついた男は苦々しげに呟いた。
「……『外』でどういう噂になっているか知らんが、おれは人を喰らったことなどない」
瞬いたカミューの目にも、相手が気分を害しているらしいことは明らかだった。男の足元にしゃがみ込み、見上げるようにして小首を傾げた。
「あんた……、『蒼き森の魔王』だよね? なのに人を喰ったことないの……?」
「……………………」
「だって……この森の脇道を通るためには生贄が必要で……『魔王』が喰うって……」
それは隊商の間ばかりでなく、周辺の住人すべてが知る伝説だ。実際、帰らぬ人間がいるからこそ変わらず伝えられてきた話なのだろう。
「……確かに、そうして森に踏み入った人間はいる」
低い声が肯定した。
「だが、手出しをしたことなどない。迷った者はちゃんと『外』まで送り届けてきた」
「じゃあ……何で……」
そんな噂が流れているのだろう。
生贄として送り込まれた人間が戻れば、忌まわしい伝説など消えるだろうに。少年の無垢な疑問を男は軽く一蹴した。
「……戻らなかったのだろう」
「え?」
「万一、自分が戻った後に誰かが襲われでもしたら……その人間の咎とされる。そう懸念して」
魔物の言うことだ。すべてを信じてはならないと本能が警戒を鳴らしていた。だが、カミューの瞳に映る男は疑うにはあまりに静かな目をしている。冷めきった感情が深い諦念から生まれるものだと知るには、カミューは幼すぎたのだけれども。
「それじゃ、あんたは最初からオレを食べるつもりなんてなかったんだね……」
「────『前任』はたいそう好物にしていたようだがな」
剣呑とした笑いは充分に少年を戦かせた。しかし、それを超える興味が再び口を開かせる。
「前任って、何?」
「おれの前に『魔王』と呼ばれていた魔物のことだ」
男は片膝を抱えた寛いだ格好で答えた。
「獰猛で残忍な……山狗だった」
「いぬ……?」
「そうだ」
いつの時代にも子供は寓話に飢えている。いつしかカミューは目の前の男が恐るるべき魔物と呼ばれていることを忘れて瞳を輝かせていた。それに気付いたのか、男は果物を食べるよう促しながら語り始めた。
「今からずっと昔の話だ。一人の男がここよりずっと北……ロックアックスという街に暮らしていた」
「知ってるよ、仲間が行こうとしていた騎士の街だね」
林檎を齧りながらカミューが呼応すると、そうかと男は薄く笑った。殆ど感情を匂わせない面が、何処か懐かしさを噛み締めているようだった。
「男は騎士だった。正義と信念のために剣を振るいたい、誇り高い戦士になりたいと日々腕を磨いていた」
カミューは男の腰にある大きな剣に視線を向けた。大柄な体躯に相応しい、立派な剣だった。
「騎士となった最初の年……男は商人から『蒼き森』の噂を聞いた。恐ろしい魔物が棲みついて、森の道を通る人間を片っ端から襲っているという話だ。仔牛ほどもある凶暴な山狗が、非道にも人を喰い殺していると」
カミューは光景を想像して微かに震えた。すると男は口元を緩めた。
「それは凄まじい化け物だった。眼は真紅に光り、焼けた鉄のような牙の間から飢えた涎を滴らせながら炎を吐く。立ち向かおうとする旅人を容赦なく引き千切り、血肉を啜り、骨を噛み砕き……」
一気に食事どころではなくなった。たまらず泣き出しそうに顔を歪めた少年の頭に大きな掌が降りてきた。びくりと竦んだカミューだったが、意外なほど優しいそれは柔らかく頭を撫でただけだった。
「男は休暇を利用して、噂の森に訪れた。旅人を脅かす魔物の存在を許せなかったからだ。功名に駆られた訳ではなかったが────」
「こうみょう、って……?」
「……魔物を退治して勇者と呼ばれることだ。男は名誉などどうでもよかった。ただ、人々の不安を取り除き、尚且つ自分の鍛錬の成果を試してみたかった。男はここで山狗と戦った────それは激しい戦いで、実に一昼夜を費やした」
夢のように語られる言葉。カミューは脳裏に恐ろしい魔物と闘う勇者の図を描いた。果敢に剣を振るう剣士は目の前の男の顔である。
「そのとき男は十五歳────若かった……己の腕に自信があった分、退くことを知らなかった。やがて力尽きた山狗は血反吐を吐きながら崩れ落ちた」
「勝ったんだね!」
弾む声でカミューは割り込んだが、男はゆっくりと首を振った。
「勝負には勝ったが……ある意味では男は負けた。本当の敵に気付かなかったのだから」
「本当の敵……?」
男の固い表情に自嘲めいたものが走る。
「山狗が息絶える瞬間、身体から紅蓮の炎の塊が飛び出して────勝利に酔い痴れていた男の身体に吸い込まれた。山狗は単なる形代だったのだ。獣を操っていた真の魔物は男に乗り移った」
ゆっくりとした動作で男の右手が上がった。カミューを外して宙を指した指先に茜色の小粒の火が灯る。呆然と見入る少年の横顔に視線を戻した男は疲れたように続けた。
「魔物は取り憑いた身体を支配しようとしたが、男は抗った。やがて諦めたのか、魔物は男と共存することを選んだらしい。森に棲む魔物たちはいつからか男に従うようになった……強大な魔の力を持った『それ』を王と仰ぎ、宿主となった男を同等と見なしたからだろう」
「……………………」
「魔物を宿した肉体は時を止めた。それ以上成長することもなく、老いることもなく……以来、森に閉じ込められ続けている」
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