蒼き森の物語 2


「あんた……『蒼き森の魔王』……?」
ずぶ濡れになりながら引き上げられたカミューは、震える声も隠せぬままに呼び掛けた。少年が飛び散らした水滴で濡れた衣服を払っていた相手は胡乱な眼差しを返しながら片頬を歪める。
「そう呼ぶ者もいるらしいな」
だが、とカミューは怪訝に思う。
どう見ても人間にしか見えない。衣服や腰に携えた大きな剣は何処かの立派な剣士のようだ。物腰は隙がなく、後ろを向いていても張り詰めた緊張が窺える。
「……本当に魔物なの?」
恐る恐る尋ねると、男は苦笑混じりの顔を見せた。
「何をもって『魔』と呼ぶか────炎を操り、風を読む。森の魔物を従える……そうした意味では『人』とは言えないかもしれない」
「あんた────あんたが『魔王』なら」
カミューは決意が鈍らぬよう性急に言葉を吐き出した。
「オレを喰って」
「…………何?」
「そのために来たんだよ、オレを喰って。代わりに森の外にいる隊商に脇道を通らせて!」
カミューは全身から水を垂らしながら俯いた。次第にかたかたと歯が鳴るのを、怯えと見取られたくなかった。これは寒さだ、そう自身に言い聞かせて唇を噛む。
しばらく無言で見詰めていた男は、低い息を吐いた。
「────脱げ」
「えっ?」
「……服を脱ぐがいい、早く」
カミューは震えながら命じられたように濡れた衣服を脱ぎ落とし始めた。手足が強張って思うように動かない。男は目を細めて現れていく少年の肢体を眺めていた。肌に張り付く布と必死に格闘し、終に夜風が裸体を撫でる頃には悔し涙が滲んでいた。

 

魔物のくせに。
どうせ喰うなら頭からバリバリ喰えばいいんだ。
ご丁寧に裸にするなんて、相当口が肥えた奴に違いない。

 

だが────
次の瞬間、肩からすっぽりと身を包んだ乾いた布の温み。目を上げた少年の前で、上着を脱いだ男が困惑したように瞬いていた。
「……風邪をひく」
無愛想に呟くなり、男はくるりと背を向けて歩き出した。
カミューは束の間呆けたが、男が濡れた衣服の代わりに自分の衣を与えてくれたのだと悟るなり、悲痛な声を上げた。
「どういうことだよ、オレじゃ駄目なの? 確かにオレ、そんなに肉もついてないし、骨ばってて固いかもしれないけど……覚悟して来たのに、し……失礼じゃないか!」
すると意外なことに男は低く笑い出した。ほんの僅かに傾けた顔が可笑しそうに少年を一瞥する。
「それほど喰われたいなら考えてやってもいい。ついて来い」
途端に竦む身体を励まして、カミューは濡れた衣服と剣を抱え上げた。泉の脇に揃えておいた靴に足を突っ込み、先に立った男の広い背中を慌てて追い掛ける。
大柄な男が少年の歩調に合わせてゆっくりと進んでいることに気付くほどの余裕はなかった。今はただ、自分の役割を果たすことにだけ意識を向けるのがカミューに出来る精一杯だったのだ。

 

 

男が踏み均した草や枝葉の道を歩くのは、これまでとは比較にならないほど楽なことだった。
松明にも頼らず、暗闇に流れ込む心ばかりの月明りの中を悠然と進む魔性の後ろ背。カミューは相変わらず怯えてはいたけれど、次第に感慨も覚えた。森の気配が変わっている。それまでは微かな敵意をもってカミューを窺っていた生き物の視線が、今は穏やかなものとなっているのだ。それは森に君臨する魔王に対する敬意にも似て、後について歩くカミューをも黙認する意思表示のようであった。
「ねえ……何処まで行くの?」
呼び掛けても応えはない。ほんの一瞬だけ様子を窺うように冷えた視線が振り返るだけだ。
「あっ、痛…………」
だが、無意識の小さな声を上げた途端、男は歩を止めて向き直った。
「どうした」
伸びていた枝を掻き分けたときに手を弾かれた。傷から流れる血を見た男は、大股で歩み寄るなりカミューの細い手首を取った。恐怖は確実に伝わっただろう。男は無表情のまま溢れた鮮血に唇を寄せた。意外に温かな舌先がゆっくりと血を舐め取る。
「う、美味い……?」
泣き笑いの表情でカミューが問うと、男はにんまりと笑った。
「……悪くない」
「じゃあ、森を通してくれる?」
すると男は一瞬目を見開き、楽しげといった口調で返した。
「望んで喰われに来る贄など初めてだからな、勿体無いではないか」
そこでカミューの緊張は切れた。乱暴に男から手をもぎ取り、身を退いて鋭く叫ぶ。
「望んで死にたい奴なんているかよ! オレだって……好きで喰われたいもんか! でも、しょうがないじゃないか」
ほろほろと溢れた涙がとめどなく頬を落ちていく。拭いもせずに肩を震わせた。
「身寄りが無いのはオレだけだし、ガキだし……拾われた恩がある。あんたと闘って倒せるなら、そうする。それが出来ないなら、喰われるしかないじゃないか」
「────そうだ」
男は揶揄の気配を消して静かに呟いた。
「己の力が相手に劣れば……後は運命を受け入れるしかない。それがこの世の摂理というものだ」
何故かひどく切なげに聞こえて、カミューは荒ぶる心を押さえ込んで男を見上げた。すでに少年から視線を外した男は、何処を見ているのか乾いた表情で暗い闇の先に目を向けている。黙して見詰め続けるカミューにようやく意識を戻したとき、男は穏やかな眼差しをしていた。
「……止まったな」
「え?」
「────気をつけろ、血の匂いは魔物を刺激する」
言い捨てて再び歩き出した男を呆然と見遣る。止血されたのだとようやく気付いた。だが、次には大きな困惑が押し寄せてきた。

 

────あんたは?
血に刺激されないの……?

 

問い掛けは喉の奥で凝り固まった。訊くのが恐ろしかったのだ。
カミューはやや離れた距離を埋めるために、衣服を抱え直して小走りに進み出した。

 

 

 

 

男が足を止めたのは、おそらく教えられた目標と思われる大樹の根元だった。驚くほどの直径を持つそれは、根元部分が大きくくり抜かれていて、カミューの目にも住処らしく見えた。
「こ……ここで暮らしてるの?」
「暮らす、という表現が妥当か否か分からんが」
男は立ち竦んだ少年を促すように洞の中に招き入れた。
「寝起きするには充分だ」
それからカミューの手から濡れた衣服を取り上げ、自分だけ外に出る。不審に思ったカミューが見守っていると、男はふと瞑目した。見る間に彼の右手の周囲から鮮烈な紅い炎が燃え上がる。
暗闇に明るく輝く炎がこれほど美しいと思ったことはなかった。カミューは息を呑んで光景を見詰めた。
男は濡れた衣服を炎に翳し、しばらくすると満足げな顔でそれをカミューに放った。慌てて受け止めてみると、服はすっかり乾いて温まっていた。
「こんな使い方をしたのは初めてだ」
自嘲気味に唸るのに、カミューは目を丸くしたまま尋ねた。
「火の紋章……?」
「……どうだろうな」
男は炎をおさめた。頼もしい明かりが失われたことにがっかりしている少年に気付いたように、薄く目を細める。周囲に落ちている木切れを手早く集めて、再度炎を呼び出して洞の入り口に小さな焚き火を起こした。
「着替えたらどうだ?」
困惑したカミューだが、おとなしく従うことにした。男に与えられた上着はぶかぶかと身体の周りで揺らついて、何とも心許なかったからだ。ただ、その青い衣を脱ぎ落としたときに感じた寒さは生理的なものばかりではなく、不可思議な情感をもってカミューを包んだ。幼い少年には、それがどういうものなのか量ることなど出来ず、炎によって温められた自分の服を纏い直した安堵によってすぐに混濁した想いであったのだけれども。
もぞもぞと着替えを終えた少年は、改めて目前の男を凝視した。
短い黒髪、同じ色の瞳。精悍といえる顔立ちは、だが深い森の闇以上に冷たく凝り、感情が窺えない。乾いた草を集めて寝床を設えているらしい男の手元を見遣りながら、カミューは何故この魔物はこんなにも静かなのだろうと訝しんだ。
自らの力を誇示することもない。これほど理性的な魔物に対峙するのも初めてだ。物心ついてから、ずっと隊商の旅に従ってきたカミューは、幾度か魔物に遭遇したことがある。それらはおよそ知性といったものとは無縁で、会話はおろか、まともに向かい合うことさえなかった。
魔物にとって人は敵で、屠るためだけの存在であり、逆もしかりなのだ。それがカミューの────否、カミューだけではなく世の人々の認識であろう。
そんな相手の傍に居ること。そしてどうも男が悪意を感じさせないことがカミューを戸惑わせ、悩ませていた。
「ねえ……あんた、本当に魔物なの? どう見ても普通の人に見えるけど……」
男はどちらでも構わないが、と嘯いてから彼を見た。
「森中の魔物を呼び集めてみせるか?」
慌てて首を振ったカミューは再びきりりと唇を噛んだ。
「オレ、本気だよ。喰われる覚悟は出来てる。そりゃあ死ぬのは嫌だけど……代わりに仲間には手出ししないでくれるんだよね?」
「仲間、か」
今度は侮蔑めいた表情を浮かべた男が真っ直ぐにカミューを見据えた。
「おまえのような子供ひとり差し出すような連中が仲間か? 子供を贄にして保身に走るものを仲間と呼ぶのか?」
それは殆ど義憤に駆られたといった口調だった。
「そんな連中のためにのこのこと……もし欠片でも害意を持っていたなら、森の魔物が総出でおまえを引き裂いたことだろう」
すると、生贄の立場を諦めていたことが幸いしたのかと今更のように震え上がるカミューである。そして何より、自分を喰らう筈の魔物が、さながら自分を案じるような弁を振るっていることに眉を寄せる。
黙してしまった少年に、ふと男は視線を投げた。幽鬼のように冷たかった黒曜の瞳に、今はほんのささやかな感情の波が揺れているようだった。
「……ここへ来るがいい」
枯草を集めた場所を軽く指す。命じられるまま近寄ると、軽く肩先を押されて転がされた。カミューを迎え入れた草の寝床は驚くほど柔らかく、心地良かった。
「あの……」
続いて傍らに横たわる男に息を殺しながらおずおずと訊く。
「……食べないの?」
「────もう少し美味そうになってからだ」
揶揄混じりに返した男は、そのまま広い胸にカミューを抱き込んで上着を手繰り寄せた。上掛け代わりの上着と男の体躯にすっぽりと包まれたカミューは、夜風の寒さをまったく感じなくなった。
「もう眠れ。子供の起きている時間ではない」
耳元に呟いた男は、ゆっくりと目を閉じた。

 

布越しに感じる男の体温は恐ろしく低く、決して暖を取れるようなものではなかったにもかかわらず────
カミューには、それは泣きたくなるほど優しい温もりに思えた。

 

 

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手を出しそうで出さない青。
書いておいて何だが……苛々するな、もー(笑)
でも犯罪だし……
人生なんて、ららら〜〜(意味不明)

 

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