触れ合った白刃が耳に心地良い軽やかな音を立てた。
乾いた音色が尾を引くように薄れ、やがて残るのは互いの弾んだ息遣いのみとなる。
マイクロトフは愛剣を鞘に戻し、朗らかに賛辞を述べた。
「おまえは本当に凄いな、カミュー。身のこなしの素早さには太刀打ち出来ない」
対する美貌の青年も呼気を整えながら細身の剣を納める。
マイクロトフの剣技へ向ける打ち込みのひたむきさを知った、庇護者でもある青騎士団長は、先日来より自宅に数人の部下を招き、彼の剣の指導をするよう命じていた。
招かれた騎士のいずれもが稀有な才能を持つ若者に心から感嘆を示したものだ。だが、彼らは知らなかった。騎士団長の屋敷に在るもう一人の、マイクロトフと並ぶ剣才を持つ青年の存在を。
「これでも将来有望と褒められているのだが……おまえを相手にしていると、自分がひどく凡庸に思えてしまう」
笑って地面に腰を落としたマイクロトフにカミューも笑顔で倣った。
騎士団長の屋敷の広大な庭の一角。そこで二人が剣を交えるようになって数週間が経つ。
屋敷の部屋で初めて顔を合わせたときには風にも耐えぬ病人に見えたカミューだったが、目覚めてからの彼の回復ぶりには医師も驚嘆するばかりだった。
「……カーン殿が……屋敷を出られるそうだ」
ポツリとマイクロトフが口を開いた。
恩人であった男は二人の完治を見届け、更には騎士団長という揺るぎない庇護者を確かめた上で、昨夜、旅立ちを告げてきたのだ。ロックアックスにおいて知己のないマイクロトフにとってカーンの喪失は愕然とするほどの衝撃であった。
「仕方がないな……カーン殿はヴァンパイア・ハンターとしての使命を果たそうとしておられるのだし。別れは残念に思うが……」
それでも自らを励ますように言い掛けたマイクロトフだったが、カミューは穏やかに首を振る。
「旅立ちは……別れとは少し違うよ、マイクロトフ」
「……?」
「わたしたちはカーン殿を忘れない。カーン殿も覚えていてくださるだろう。身は離れてしまっても、そこに思いは残る。だとしたら、本当の意味での離別とは違う」
最近よく見せるようになった華やかな笑顔に見惚れるマイクロトフだ。
「本当の別れとは……相手を忘れてしまうことだ。わたしたちがカーン殿を大切に思い、覚えている限り……いつか何処かで巡り合うこともあるだろう。だから……これは別れとは異なると思う」
そうか、とマイクロトフは頷いた。
そう言えばゲオルグ・プライムも同様のことを言った。剣の道に進むならば、いずれ会えると。
剣技に秀でるばかりではなく、思慮深く聡明なカミュー。彼の言うことならば道理なのだろうと納得し、助力し続けてくれた恩人に向けて胸のうちで謝辞を紡ぐ。
「……わたしもそろそろ身の振り方を考えないといけないな」
ふともたらされた言葉に驚いて顔を向けると、透き通るような白い頬に零れ落ちた薄茶の髪が風に揺れていた。
「身の振り方……って?」
「青騎士団長殿はおまえの縁戚だろうけれど……わたしは赤の他人だからね。いつまでもご厄介になっているわけにもいかないよ」
自分でも思いがけないほど衝撃を受けて、一瞬マイクロトフは言葉が出なかった。
「ここを出て……何処かへ行こうというのか?」
まあね、とカミューは曖昧に頷いた。
「わたしはグラスランドの民らしいし……戻ろうかと思っている」
「馬鹿な」
憤慨して全身で向き直り、カミューの薄い肩を掴み締めた。
「何も覚えていないのに……戻ってどうしようというんだ?」
「でも、他にすることもないし」
マイクロトフの勢いに困ったように苦笑するカミュー。つと、ここしばらく胸にあった願望が零れ出た。
「カミュー……騎士にならないか?」
おれと一緒に、と低く付け加えながら生真面目な視線で青年を窺う。戸惑って見開かれる琥珀に、更に言い募った。
「本来、騎士は従者から始まって見習い、従騎士……と位階を経て叙位されるものだが……実は、特別枠の騎士試験が予定されているらしい」
「特別枠……?」
「このところハイランド王国との国境紛争が重なったらしくてな、騎士の数が不足しているのだそうだ。そこで一足飛びに騎士に叙位されるための特別試験が行われるらしい。騎士団は即戦力を求めているんだ、カミュー」
マイクロトフは不敵に微笑んだ。
「おれは……それを受けてみようと思う。無論、難度は高い。剣技だけではなく、礼節や教養……騎士として相応しいだけの実力を要求される。一従者から進むのも吝かではないが……おれは少しでも早く騎士になりたいんだ」
無意識に掴んだ肩を揺らしていた。精神の高揚は抑え難いほど膨らんでいる。
「騎士は素晴らしいぞ、カミュー。己の誇りと信念に基づいて戦う……揺らがぬ正義と共に生涯を剣に捧げるんだ。礼節を守り、忠誠の誓いを遵守し……弱きものを守る。その証が騎士に叙位されたときに賜るエンブレムなんだ」
一気に言い放ったマイクロトフをカミューは目を細めて見詰めていた。ひとつ年下の男の激情を、時折彼はこうして困ったように、だが微笑んで見守るのだ。
「……おまえは騎士になるべく生まれたような男だな……」
感想めいたものを述べられてマイクロトフは破顔した。
「おれもそう思う。だが、カミュー……」
そこで彼は急速に勢いを失った。幾度も逡巡しながらとつとつと口にする。
「おまえに……傍に居て欲しい……」
緩やかな風が流れていった。
カミューは小さく返した。
「……わたしは素性も知れぬ異国の人間だ、マチルダ騎士にはなれないよ」
「そんなことはない!」
マイクロトフは険しく顔を歪めて否定した。
「特別枠の試験だと言っただろう? 出自も経験も問われない、実力だけがすべてだ。カミュー、おまえなら確実に叙位される」
彼らには青騎士団長という立派な後ろ盾もある。恩恵に頼るのは心苦しく、口にするには憚られるが、カミューとて何ら問題なく騎士を目指すことは出来る筈だとマイクロトフは思う。
「……どうして?」
カミューは幼げに問い掛けた。
「記憶がないことが不安かい? おまえなら一人でも充分……」
「そういうことではない」
ぴしゃりと言い切って、マイクロトフは拳を握った。
「…………離れたく……ない」
不器用な男には精一杯の思いだったのだけれど。
カミューはくすくすと笑い出した。
「似合わないよ、それじゃまるで────」
────恋の告白みたいだ。
二人の胸に、その意識は同時に落ちてきた。
マイクロトフは長いこと躊躇っていたが、ようやく意を決して口を開いた。
「カミュー……聞いてくれ。あのとき……おまえが目を覚ましたとき、おれは思った。おれはおまえを知っていた……どうしても思い出すことが出来ないけれど、確かにおまえの瞳を知っていたんだ」
それは確信だった。
記憶の中に埋没しながら、それでも次第に身を侵食し、終には溢れんばかりとなった切ない情動。
「おまえは強い。剣の腕だけじゃない、知識も教養も……おまえは誰頼ることなく生きていけるだけの強い男だと思う」
だが、とマイクロトフは瞳を巡らせ、間近の美貌を見据えた。
「……気を悪くしたら許してくれ。おれは────おまえを守りたいと思ったんだ。可笑しいな……おまえは小さな子供でもなければ、か弱い女性でもないというのに。だが、おれは……」
守りたいと心から思った。
彼の優しい笑顔を、琥珀の瞳の輝きを。
それは理屈ではない、直情が導く唯一の真実。
いつまでも無言である人の心情を傷つけたのかと案じて、マイクロトフはそろそろと隣を窺う。同性の、それも年下の人間に守りたいなどと口にされて面白かろう筈もない。だが、それは嘘偽りないマイクロトフの思いであり、差し出すべき理由でもあった。
カミューは────
端正な面差しに表情もなく、ただマイクロトフを見返していた。驚きや不快、そうした負の感情は見えず、ただ静かな瞳だけが美しく瞬いていた。
「……偶然だね、マイクロトフ」
やがてカミューは微かに目を伏せ呟いた。
「わたしは……おまえといると安らぐ。まるで守られているかのように……とても安らいだ気持ちになる……」
呆然としていると、カミューの口元に綺麗な笑みが零れ落ちていった。泣き出しそうな、けれど幸福そうな顔で彼は言う。
「騎士か……それも悪くないかもしれないね」
同意を得て感激した勢いで、マイクロトフは思わず細い身体を抱き締めていた。
腕に馴染む温かな感触に酔い、抵抗がないのに唆され、次第に拘束する腕に力がこもる。目前に曝された白い首筋を、ほんの僅かに唇が掠めた。
やがて間近の唇が苦しげな吐息を洩らすに至って、ようやくはっとして身を離す。己の行動に自身こそが困惑し果てて、マイクロトフは頬を染めた。
「す、すまない……おれは……」
だが、カミューは微笑むばかりだ。
「嫌だったら、殺してでも逃げているよ」
何のために帯刀しているんだと思う、と柔らかに続く言葉に更に動揺する。
「おれが……こんなことを求めても許すというのか……?」
しなやかな腕が伸びてマイクロトフを引き寄せた。
「わたしも……多分、同じことを求めているから」
指先がそっと男の唇をなぞる。見上げる琥珀は何処までも安らいでいた。
漂う赦しに促され、カミューの目覚めに立ち会ったときからずっと心を占めてきた思いの封印を解く。
「言ってもいいか、カミュー……? おれは……おまえが好きなんだ」
「……知っていたよ」
伸びて目元に垂れた髪を掻き上げる剣士の指に、カミューは心地良さそうに瞳を閉じる。
躊躇いがちな男の唇が重なろうとする刹那、幻のような声が呟いていた。
「……いつまでもおまえと一緒にいるよ、マイクロトフ───」
魔王が支配した『蒼き森』
悪しき伝説は終わりを告げ
人々の記憶から遠ざかる
けれどそこを通る旅人は
時折幻を見るという
蒼き衣を纏う異質なる剣士と
寄り添い無邪気に笑う少年を
奇跡が残した幸福の記憶
それは慈悲深き森が沈めた永遠の
無垢なる恋の物語────
← BEFORE
END
ハートフルに終幕を迎えたでしょうか??
長期に渡っておつきあいをありがとうございましたv
お暇な方は、恒例の長々後記をどうぞ〜(笑) →■
寛容の間に戻る / TOPへ戻る