蒼き森の物語 22


『名はカミュー……出自はグラスランド、今のあなたより一つ年上の十六歳になる青年です』

 

ゲオルグと別れて後、マイクロトフは息せき切ってカーンを訪ねた。
カーンはゲオルグの決定を尊重し、これまで伏せていたカミューの存在を明かした。二人が共にこの屋敷に運ばれた『魔物に襲われた被害者』であること、マイクロトフの体調が万全となるまで混乱させまいと隠してきたこと────カーンが口に出来るのは、ほんの事実の上っ面でしかなかったが。
マイクロトフは生真面目に講釈に聞き入り、それからおずおずと尋ねた。
「ゲオルグ殿は不思議なことばかり仰っておられたが……その、カミューという男に会うのに覚悟を決めよとは如何なる意味でしょうか?」
カーンは複雑な思いで目を細めた。
マイクロトフはその名を耳にしても記憶を揺らされることはないのだ。あれほど切ない声で、迸る情熱のままに叫んだ名を口の端に昇らせても今のマイクロトフには何ら変化は見られない。
マイクロトフの将来を思えば忌まわしい記憶の封印が揺らがぬことを喜ぶべきなのだろうが、屋敷の奥深くに在る青年を思うと胸は痛んだ。
「……ゲオルグ殿は他に何と?」
尋ねたカーンにマイクロトフはゆるゆると首を振った。
「……彼を呼べる者も、彼に呼ばれる者も……この世でおれだけだ、と」
「その通りです」
微笑んで、彼は客間の扉を開いた。
「呼んでおやりなさい────彼を。未だ暗い蒼い森の底に漂っている、あなたの魂の半身を……」

 

 

 

 

 

誘われた部屋の前でカーンは踵を返した。扉を開くも、このまま戻るも自由だと言い残して。
マイクロトフは長いこと廊下に立ち尽くしたまま考え続けた。
ゲオルグとカーン、更には屋敷の主である騎士団長までが隠し続けていたからには、カミューという人物の存在が自分にとって負にはたらく可能性をも秘めているということなのだろう。
だが、彼らの瞳は語っていた。
受け入れよとの無言の祈りが聞こえてくるようだった。
決定を一任されたのは、彼らなりの誠意であり、思い遣りであり、信頼でもあるのだろう。マイクロトフはそう考えた。
ゆっくりと扉に手を当て、押し開く。
翳り始めた太陽の紅い光が壁に反射して視界を射抜いた。
室内には殊更ゆったりと時間が流れているようだった。視線を巡らせ、これまで入室したどの部屋よりも居心地良く整えられている様に戸惑う。
マイクロトフは静かに足を進めた。向かう先は奥まった一角、そよぐ風が揺らす天蓋の布に守られるベッドである。

 

昏睡が続いているのだと聞かされた。
運び込まれて以来、一度も目覚めていないのだと。

 

───彼はどんな人間だったのだろう?
たまたま同じ場所に居合わせて、魔物に襲撃を受けた不運な『仲間』なのか。
ロックアックス出身であるという自分とグラスランドの民である人と。
何ら共通点は見出せない。
あるいは思い出せない過去の中に、その人との親交があったのだろうか───

 

 

 

マイクロトフは息を詰めて歩を進め、やがて立ち止まった。
見下ろす敷布の上、瞳を閉ざして深い眠りの淵にある仄白い顔。
昏睡から一月になるという。
細身ではあるけれど目立った窶れの影さえ見せずに横たわる人。
人形のように整った造形は、だが緩やかに上下する胸元によってだけ命を窺わせる。
────何と美しいことだろう。
柔らかな薄茶の髪、それよりも僅かに色濃い長い睫毛。
細くすんなりとした鼻梁の線も、陶器のような貌に色を添えるやや薄めの唇も。
最初はただ、妙なる美貌に驚嘆が洩れるばかりのマイクロトフだったのだが。

 

 

「カミュー……」
教えられた名を無意識に呟いた刹那、彼は崩れるように膝を折った。
自分でも何が起きたのか分からなかった。ただ、その人の名を口にし、その響きが耳を打った途端に心臓を鷲掴まれるような痛みが駆け抜けたのだ。
決して不快な痛みではなかった。
けれど、耐え難い痛みでもあった。
ゲオルグらはおそらく、これを恐れたのだろう。『カミュー』の存在が失われた記憶の台頭を招くのではないか、と。
しかし、マイクロトフが覚悟したような事態は起きなかった。相変わらず何も思い出せぬまま、ただ狂おしいほどの切なさが身を切り刻む。
それは不可思議な感覚だった。
自らを通り抜けていく様々な情感、そして衝動。
唯一掴み取れたものは懐かしさとでも言うべき感情だった。
マイクロトフは確信した。
自分はこの青年を知っている────深い、とても深い思いの中で。

 

 

「カミュー……」
呼びながら、上掛けに力なく投げ出された青年の手を取ってみる。常人よりも遥かに熱い体温が返ってくるのに驚いて、なおいっそう強く握り締めた。
目を覚ましてくれ────心から祈った。
何処の誰かも知れぬ人。
けれど心が呼んでいる。
失いたくない、離れたくないと魂が叫び泣いている。

何を忘れても良かった。
過去などなくとも生きていけると自らを鼓舞した。
この街に誰一人知る者がなくとも、耐えられると信じた。
だが、彼は。
彼だけは────

 

 

「頼む、目を開けてくれ……」
何故これほどに苦しいのか。
マイクロトフには分からなかった。
心が捩じ切られるほどの切なさはいったい何処からくるのか。
彼は握った手を額に押し当て、ただ祈り続けた。

 

 

 

 

 

 

どれくらいの時が経っただろうか、ベッドの脇に跪いた姿勢のまま目を上げると、あたりに薄闇が忍んでいた。
窓から吹き込む風も冷え始めている。サイドテーブルの紅バラの花弁が心許なく揺れていた。
眠る人を気遣って、窓を閉めようと思ったマイクロトフは両手に包んでいた細い指先をベッドの上に戻そうとした。
そのとき────
微かな身じろぎが間近に起きて、立ち上がりかけたマイクロトフを竦ませた。見れば、白い顔に僅かな表情のようなものが浮かんでいる。それは苦しげにも見える覚醒の足音であった。
「カミュー……?」
低く呼び掛けてみる。
寄せられた形良い眉が開き、穏やかな表情が戻り、そして────閉ざされた目蓋がゆっくりと開かれていった。
現れた琥珀を、マイクロトフは知っていた。
何一つ覚えていないというのに、確かにこの色を知っていた気がした。
甘く溶けた蜜のような、柔らかで穏やかな色合い。濡れた宝玉のような清らかな瞳の輝きを、マイクロトフは目にする前から予期していたのだ。
淡い花のような唇がゆっくりと開く。
「何故……泣いているんだい……?」
やや掠れた、弱い響き。
もたらされた声の優しさを、再び握り直した掌の熱と共に噛み締める。問われて初めて自らが涙していることに気付いた。
「あ……」
真っ直ぐに見詰める静かな瞳に照れ恥じて、握った拳で頬を拭う。それでも当てられて動かぬ視線に回答を求められた気がして、マイクロトフは真摯に答えた。
「……わからない」
流れた涙は迫上がった感情が零れ落ちたもの。だが、その理由など分かろう筈もない。
正直に告げた男に、琥珀は薄く微笑んだ。
「分からないが、……多分……」
「多分……?」
「────そうやっておれを見返して欲しかったのだと思う……」

 

 

生真面目な答えに青年は目を細め、密やかに頷いた。
「ここは……?」
「ロックアックスだ。マチルダ騎士団領の居城のある……デュナン北方の街。おまえは覚えているか? おれたちは魔物とやらに襲われたところを助けられ、ここへ運ばれたらしいのだが」
無言のままの怪訝な瞳に苦笑した。
「……実は、おれには記憶がないんだ。そのときのことも……自分の名前すら、助けてくれた方々に教えられたという有り様で。おまえはどうだ? 覚えているか、カミュー……?」
白皙の青年は考え込むように沈黙した。やがて、そろそろと振られた首にマイクロトフは嘆息する。
「そうか……すると記憶操作に関わる特殊攻撃でも受けたのかもしれないな。後でカーン殿を呼んでくる。おれたちの恩人で……魔道にもたいそうお詳しいんだ。きっと力になってくださる」
明るく笑った彼を、青年は眩しげに見上げていた。何を考えているのか量りかねる深淵の眼差しに、マイクロトフは訳もなく狼狽した。
「カミュー……それがわたしの名前かい……?」
「あ、ああ……そうだ。おれもつい先程カーン殿に教えられたばかりだけれどな」
「では」
カミューは夢見るように問い掛けた。
「おまえのことは……何と呼べばいいのだろう?」
一方的に話を進めていたことを些か自戒し、マイクロトフは答えた。その遣り取りが、何故かひどく胸を熱くするのに戸惑いながら。
「マイクロトフ」
そうして交わった瞳の奥に向けてもう一度。
「マイクロトフ、だ……カミュー」
カミューは静かに目を閉じた。噛み締めるように唇がマイクロトフ、と呟く。
「おまえは一月もの間、ずっと意識がなかったのだそうだ。無理をするな、時間は幾らでもある。まず身体を治して、それから先のことを考えよう」
自らが目覚めたときにカーンに言われた言葉をそのまま伝え、改めて微笑み掛けたときに握り締めたままだった手に気付いた。
最初に触れたときよりは随分熱は引いている。だが、相変わらず常人よりは高熱であることに変わりはない。カミューの体調を気遣うのと同時に、同性の手をしっかと握っている己の心情に困惑した。慌てて細い腕を元に戻し、喉元まで上掛けを手繰り上げた。接触を解いても、掌にカミューの熱が残っているようだった。
「そ、そうだ。腹は空いていないか? 喉を通りそうなものがあるなら、持ってくるが」
「そうだね……」
カミューは枕の上でゆっくりと目を開いた。
「……真っ赤に熟した……林檎がいいな」

 

 

それはひどく懐かしげな声であった。

 

 

← BEFORE               NEXT →


次回、最終回。
ハートフル、ハートフル……(呪文)

 

寛容の間に戻る / TOPへ戻る