蒼き森の物語 21


この屋敷に運ばれて以来────正確には森が消えた瞬間から、カミューは深き眠りに落ちた。
それはまるで寓話の出来事の如き安らかな眠りであった。
特に外傷もなく、それでも眠り続ける美貌の青年を哀れんで、騎士団長はそれこそロックアックス中の医師に働きかけて目覚めさせようと試みたのだ。
最後の医師が沈痛な面持ちで帰っていったとき、彼らは人知の限界を知った。医術の範疇では及ばない深淵に沈められた青年のこれからを思い、男たちは暗澹たる心地に苛まれた。
飲まず食わずでありながら、不思議と目立った窶れもなく。
ただカミューは眠り続ける。
身のうちに起きた異変の切れ端さえ窺わせぬまま、閉ざされた瞳は開こうとはしなかった。

 

「紋章使いとしての見解は?」
「わたしはそこまで魔道に精通しているわけではありませんよ」
切なげに苦笑してカーンは白い顔を見下ろす。
「ただ……『蒼き森の魔王』がこれまでと形を変えたのは確かでしょう。森は消え、結界も失われた……こうして彼を連れて来ることが出来たことからも明らかです」
カーンは腫れ物に触るようにカミューの髪を撫でた。
「御覧なさい、少し髪が伸びたように思われませんか?」
言われてみれば、確かに森で出会ったときとは異なっているように感じるゲオルグだ。
「爪も伸びている……つまり、彼の時間は止まっていないのです」
カーンは溜め息をついて首を振った。
ゲオルグが留守の間、彼なりに驚異を分析しようと努めたのだ。
そして導き出した結論は、こうだった────『魔物』はカミューとの『誓約』を遵守した。不老を導く魔の力は失われたマイクロトフの命を呼び戻すことに費やされ、そして魔物の存在自体はカミューの体内に入り込んだのだと。
結界を解いたのは、自ら宿主になることを約した器を捕らえ続ける理由が喪失したからであるのだろう。

 

 

「……右手に浮かぶものが見えますか?」
ゲオルグは示唆されたように投げ出された青年の右手に注目した。細い骨の浮いた甲に、微かな陰影が見える。
「炎のように見えるが……」
「────『烈火の紋章』」
カーンの低い声にゲオルグは目を見張った。
「『烈火』……? 『火の紋章』の上位魔法の……?」
「紋章師に確かめてきました。有り触れた紋章ではないので、わたしも幾度も目にしたわけではありませんでしたので……。あのとき、炎の魔物はマイクロトフの心臓目掛けて飛び込んだのだとばかり思いましたが、考えてみれば彼の右手に吸い込まれたようにも見えた……」
「待て、すると魔物の正体は紋章だったということか?」
眉を寄せて詰問する男に、カーンは静かに頷いた。
「摂理から逸れた紋章です。元来、紋章の持ち得る力は不安定で、封印球の形か、あるいは肉体に宿されて初めて固定されるべきもの。それが何らかの理由で宿るべき固体を失い……さ迷いながら暴走したのでしょう」
「暴走……」
「紋章の『魔』の本能は破壊を求め、同時に宿たる固体を求めた。強引に器をさだめながら、安住の住処を望んでいたのです。『魔物』は仲間をも欲した。その願いと魔力が『蒼き森』を形作り、各地からあらゆる魔物を呼び寄せた」
「………………」
「……そして『魔物』は真実求めていたものを得たのです。自ら宿主となることを誓約する誠実な肉体を。わたし個人の見解としては、『魔王』の脅威には終止符が打たれたと思います。悪しき伝説の魔物は『烈火の紋章』として、再び世の摂理に連なることが出来た────」

 

 

 

ゲオルグは絶句し、奇跡を起こした青年を見詰めた。青白く凍えた頬に小さく呟く。
「まるで死んでいるようだ……」
「触れて御覧なさい」
手を伸ばして細い指先に触れた途端、今度は驚きの声が洩れる。
「な……何だ、これは? 燃えるように熱いぞ」
「紋章の力が体内を巡っているのでしょう。正しい形で宿された魔力ではない……彼は『烈火の紋章』を受け入れるための試練を受けているのですよ」
カミューの寝顔は穏やかだ。だが、火傷しそうな熱に触れたゲオルグは険しい顔でカーンに向き直った。
「だが、これでは……体力が持つまい。このままでは死ぬぞ」
「……ええ」
カーンは目を閉じてゆっくりと同意した。
「それでも彼は……すべてを覚悟して『魔物』の宿主となることを選んだのです。たったひとり、心を分けた人間を救うために」

 

────それは唯一の真実だった。

 

 

 

 

「……そういえば、グスタフ殿から使いが来ましたよ」
客間に戻ると、カーンは未だ考え込んでいるゲオルグに告げた。
「ギジム殿が事情を説明してくれたようです。あなたに契約の残金を届けてきました」
室内に設えられた机に乗った大きな包みを指したが、ゲオルグはちらりと一瞥しただけで苦笑った。
「あいつらにくれてやれ、俺は何もしていない」
「しかし……」
「呪われた『蒼き森の魔王』の伝説を断ち切ったのは、あの二人だ。騎士団長が後見になるにしろ、いつまでもこの屋敷に厄介になるわけにもいかんだろう。家を買う足しにでもしろ、と伝えてくれ」
そこでカーンは瞬いた。
「……旅立たれるのですか?」
「もう……俺の為すべき役目は終わったからな。出来ることがあろうとも思えんし」
確固たる決意を認めて、残念そうにカーンは頷いた。
「そうですね……ゲオルグ殿ほどの剣士であれば、必要とする世界が幾らでもあるでしょう」
「あんたはどうするんだ?」
「もう少し付き合うことにしますよ」
彼は鷹揚に微笑んだ。
「乗り掛かった船です。それにここは騎士の街……魔道に関しては、まだわたしの方が知識に勝っているようですし」
「そうか」
不敵に笑み返した男にカーンは続ける。
「マイクロトフに会ってやって行ってください。騎士団長からでも聞き及んだのか……名高い剣士に救われたこと、謝辞を述べたいと常々口にしていましたからね」

 

 

 

 

 

ゲオルグ・プライムは熱心に鍛錬に勤しむ若者の背後から歩み寄った。足音に気づいて向き直る瞳は黒々と光り、若々しい額に汗が光っている。
そこに在るのは十五歳の若者でしかなかった────あのとき対峙した老成した気配は跡形もなく消え失せている。積年の苦しみから解き放たれたことも知らぬまま、マイクロトフは朗らかな笑みで彼を迎えた。
「ゲオルグ・プライム殿ですか?」
張りのある声が問う。笑って頷くと緊張と喜びにかちかちになった青年は丁寧に礼を取った。
「お礼を申し上げたいと切望しておりました。おれは……そのう、何があったのかよく分からないのですが……」
屋敷で目覚めた後、マイクロトフはカーンから事情を説明されていた。それは巧みに歪曲された事情ではあったが、魔物に襲われていたのを救われた、そう知らされた彼はゲオルグらを恩人として仰いでいるのだ。
記憶を失っても、騎士として育まれた礼節は身に染み込んでいるのだろう。丁重な感謝を込めた眼差しにゲオルグは目を細めた。
「不自由はないか? 昔を忘れて」
マイクロトフは苦笑した。
「不自由なのかどうかもわかりません。しかし……忘れてしまったものは惜しんでもどうなるものでもありませんし、これからのことを考えようと努めています」

 

強い男だ、ゲオルグはそう思った。
真っ直ぐに見返す瞳は強靱で豊かだ。記憶を失った上に近親者も喪失しており、故に遠縁にあたる騎士団長に迎えられたという事実を享受し、感謝をもって応えようとしている姿には驚嘆に値する心根の強さが見える。
それは剣を携えて向かい合ったあのときにも感じたものだ。
百数十年にも及ぶ魔物の支配にも歪められることなく生き抜いた、これがマイクロトフの本質なのに相違ない。
だとしたら、この先の人生に何の不安があるだろう。
マイクロトフは失われた日々を埋めて余りある第二の人生を送るだろう。その強さと意志の確かさをもって。

 

「……俺はそろそろ旅に出る」
え、とマイクロトフは目を見張った。
「一所に落ち着く柄ではないのでな。一目、顔を見てから行こうと思ったのだ。元気で過ごせよ」
「ゲオルグ殿……」
マイクロトフは困惑しながら一言だけ搾り出した。
「せめて一度、お手合わせ願いたかったのですが……」
苦笑が零れた。
もう充分に戦った───そう言ってやったらどんなに驚くだろう。
「おまえさんは見事な腕前だったとも」
「…………?」
「そのまま精進を重ねろ。剣の道に進むなら、いずれ会うこともあろう」
ポンと軽く肩を叩き、不可解そうな表情に笑い掛ける。それから笑みを納めて口を開いた。
「実はな……これまで言わなかったことがある」
不意に変えられた話題に戸惑いつつ、深い重みのある声に姿勢を正したマイクロトフは眉を寄せて真剣にゲオルグを見詰めた。
「俺たちは……おまえの他にもう一人、男をここへ連れてきた」
「えっ?」

それはカーンと二人で話し合って決めたことだった。
ロックアックスへ運んだとき、マイクロトフは魔物の力に生かされていたけれど、多量の失血に身体は痛めつけられ、医学的には重篤な状態にあった。若い肉体が目覚しい回復を見せ、意識を取り戻して初めて記憶の喪失が明らかになったのだ。
ゲオルグらの脳裏には、常に同じ屋根の下で昏睡を続けるカミューの姿があった。けれど、二人を引き合わせる是非には決意し難いものがあった。折角封印されたマイクロトフの忌まわしい過去を呼び戻すことになりはしないか、その一点が二人の口を閉ざしたのである。
彼らはこれまで頑なにカミューの存在を隠蔽した。ただ、マイクロトフの未来を守るために。
けれど今、若い剣士の真の力強さに触れたゲオルグはようやく意を決したのだ。万一すべてが明らかになったとしても、彼が運命を乗り越えていけるだけの精神を持っていると信じることが出来たから───

「おまえは一人ではなかったんだ」
困惑した表情でマイクロトフは問い返した。
「一緒に……魔物に襲われた仲間がいたのですか?」
仲間、と繰り返してゲオルグは遠くへ視線を送った。
「これまで隠していたのは、おまえのためだ。何故なら……彼はおまえの運命そのものだったからな」
不可思議な言葉に瞬いたマイクロトフは必死の眼差しでゲオルグを見遣る。真摯な顔に笑み掛けて、ゲオルグは穏やかに諭した。
「会いに行くがいい、若き剣士よ。だが……手を差し伸べるならば、後には退くな。それだけの覚悟をもって臨むがいい」
「ゲオルグ殿……?」
「ひとつだけ覚えておけ。彼を呼べる者も、彼に呼ばれる者も……この世でおまえ以外にないということを」

 

 

 

生きて目覚めるか否かも不確かな、魔性の宿主となった青年。
顔を合わせたときには惨い言葉ばかりを投げつけた。
聡明な彼がゲオルグの言葉の裏を読んだことは確かだけれど、胸に一抹の悔いは残る。
生きてくれ────どうか。
今のマイクロトフには、おまえの想いも、おまえへの想いも埋没した闇の中だ。
そんな哀しい結末はない。

 

 

 

歩み去るゲオルグはそれ以上を言わなかった。
遠ざかる逞しい後ろ姿を見送りながら、マイクロトフはいつまでもその場に立ち尽くした。

 

 

 

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パラレル終幕まで、あと2回。
青は赤を起こせるか?!<ヤ○ト風
起こさないと話は終わらない。

 

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