デュナン北方に位置する騎士の街、ロックアックス。
荘厳なる街の一角にその屋敷はあった。青騎士団を率いる男の持ち家である。
彼は居城に住居に足る部屋を与えられえている。そのため留守がちとなる屋敷には現在、数人の客人が迎えられていた。
使用人たちは彼らの素性を詳細には明かされていなかったが、いずれも主人たる騎士団長にとって大切な客人であるとだけ伝えられていたようだ。客間を用意された一行はあらゆる干渉から切り離され、穏やかな休息を満喫する日々だった。
勝手知ったる他人の家とばかりに廊下を抜けて扉を開けた男を見るなり、迎えた人物は相好を緩める。
「お帰りなさい、ゲオルグ殿。随分と時間が掛かりましたね」
呼び掛けたのはカーン・マリィである。二週間ぶりに帰還した男は、どっかりと長椅子に腰を下ろした。
「泣かれるわ、卒倒されるわで散々だった」
憮然と呟く。
「それはそうでしょう。夫の死を前に平静でいられるご婦人はないでしょうからね」
「それがそうでもない」
ゲオルグ・プライムはうんざりしたように説明し始めた。
「あの男……実はクロムに妻子を持っていてな、このロックアックスは第二の家……つまり妾宅だったというわけだ。愛人親子を訪ねようとした際、森で命を落とした。夫を案じて探しに来た正妻と墓前でばったり……あの場を訪ねあてるとは、まったく女の勘には驚かされる。酷い目に遭った」
「……それは災難でしたね」
心底気の毒そうにカーンは慰撫した。
『蒼き森』で初めてカミューと出会ったとき、彼が葬ろうとしていた亡骸の主。目指していたのはここ、ロックアックスであろうとあたりをつけ、遺品から探索したところ遺族らしきものを見つけた。親切心から遺族を男の墓前に案内したゲオルグだったが、とんだ落ちがついていたという訳である。
「……人は様々ですね……あの森に沈んだ多くの命も、今頃は何処へ戻っていることか……」
しんみりと呟いたカーンにゲオルグは頷き、窓の外に視線を投げた。
身元が確認出来たのは、その男ひとりだった。
数多あった筈の墓陵はすべて、森に殉じて土に還ってしまったのだから。
あのときの出来事を反芻するには勇気がいった────比類なき屈強の武人であるゲオルグでさえも。
『蒼き森』は死んだのだ。
目を開いていられないほどの光の渦に呑み込まれ、これまでかと覚悟もした。周囲を狂ったように駆け巡る数多の魔物の存在に意識を払うことも出来ぬほど、崩壊の衝撃は凄まじかった。
それは夢見るような光景であった。
青々と茂っていた木々が崩れるように枯れ落ちていく。
その間を逃げ惑う魔物の群れ。魔力によって守られていた森は封印を解いたのだ。時間が押し流され、一瞬のうちに数百という歳月を駆け抜けていくように、森は枯渇し、命を終えた。
それまで強大な魔力によって集められていたのであろうか、魔物たちは四方へと散り去っていった。おのずとさだめられた縄張りの地へ向けて、『魔王』の庇護を失った彼らは帰っていった。
気を失わなかったのは僥倖だろう。倒れていたら逃げ去る魔物の爪に裂かれていたかも知れない。
人心地ついたときには何もかも終わっていた。
そこは交易路だった────森によって塞がれていた視界が広く開けた、一本の通路に過ぎない荒廃した大地。
呆然と座り込んでいたゲオルグらは、異変から馬を守りながら駆け寄ってきたギジムが呼ぶまで思考を働かせることさえ出来なかった。
よろめくようにロックアックスまで辿り着いた一行は、かつてカーンが懇意にしてもらったというマチルダの騎士団長を頼った。
悪しき噂の付き纏う森へ向かったカーンを案じていた騎士団長は心から一同の帰還を喜び、丁重に迎え入れてくれた。
騎士団長の鷹揚な人柄を再確認したカーンは、己の知り得るすべてを物語った。連れ帰った若者こそが、ロックアックス滞在中に騎士団長の口から語られた行方不明の『祖先』に他ならぬ事実。彼が負ったさだめの重さ、あくまでも誇りを貫き通そうとした潔さ、そうしたものを余さず明らかにしたのである。
騎士団長に迷いはなかった。
百年以上も昔に行方を断った人物が、若者の姿のままで帰還したことは確かに彼を驚かせただろうが、真摯に頷いた男の表情には欠片の疑念もなかった。
騎士団長は言った────世に不思議はあれど、失われた祖先が戻ったのであれば、それも運命。素直に喜び、祝福したいと。
それは即ちカーンらへの信頼の証でもあったのだろうが、あまりに容易く不可解を受け入れる姿勢にかえって戸惑ったほどだった。
だが、やがて一同は気付いた。
連れ帰った若き騎士、マイクロトフと呼ばれる男が騎士団長に酷似していることに。
それは理屈などを超越した血脈の直感に等しかったのだと。
連なる血が呼び合うのだろう、騎士団長は今後マイクロトフの後見として立つことを約束し、一行の無期限の滞在を許したのである。
「それで……奴はどうしている?」
ゲオルグの問いにカーンは微笑んだ。
「もう完全に体力は取り戻したようで……元気に剣の稽古に励んでいますよ」
長い長い刻を経て故郷の街に戻ったマイクロトフは、だが一切の記憶を失っていた。己がロックアックスの出身であること、騎士を志した過去さえも意識には残ってはいなかった。
一般的な常識こそ欠け落ちてはいなかったが、あくまでそれも森に囚われる以前、十五歳で止まった当時のものでしかない。
あのとき、マイクロトフは確かに一度死んだのだ。
自らと魔物を分けようと心臓を貫いた刃。失血は回復魔法を凌駕し、彼を死に至らしめた。
奇跡は────それを奇跡と言うのなら、魔物は『誓約』を果たしたのだ。彼は『人として』生きた時間へと遡り、蘇ったのだから。
カーンが指し示す窓辺に向かってゲオルグは立ち上がった。見下ろす屋敷の庭に、剣を振るう若々しい姿がある。
記憶の欠落は、むしろ慈悲深い仕儀だと言えたかもしれない。百年を超える日々を魔物と共存し、絶望と孤独に苛まれた過去など、これからの彼には必要ないだろう。
マイクロトフには未来がある。騎士団長の後見を得て、望むならば再び騎士の道を進める輝かしい未来が。
「……いい腕だった。あいつは良い騎士になるだろう」
仄かな苦さを込めてゲオルグは言う。
見守る剣先には、あのときほどの鋭さはない。マイクロトフの時間が完全に肉体年齢に戻ったことの現われだろう、未熟な面が見え隠れする。
けれど、剣を交えたゲオルグには分かっていた。このまま彼が精進を続け、己を磨き続ければあのときより更に強靱な剣士と成り得るだろうということが。
「……片割れはどうなった……?」
途端にカーンの顔が曇る。答えを聞く前に沈痛な空気が支配した。
「お会いになりますか?」
言いながら足を踏み出した男にゲオルグは従った。与えられた客間をひとたび出て、長い廊下を進む。目指すのは屋敷の中で最も奥まった一室である。
辿り着いた扉は繊細で重厚な彫刻を施され、他の部屋とは一線を画していた。カーンが開いた扉の内部に足を進めたゲオルグは、初めて入室したときにも洩らした感嘆の溜め息を吐いた。
輝くばかりの陽光を溢れさせる室内、所々に飾られた生花の芳しい香り。落ち着いた色合いのカーテンが薄く開かれた窓の風に穏やかに揺れ、時折聞こえる鳥の囀りが甘い音曲のように耳を撫でる。
屋敷には想像もつかないほどの部屋数があったが、ここは一番日当たりがよく、静かで心地良い部屋なのだ。
騎士団長自らが口にしたのだから事実だろう。彼は運び込まれた二人の若者のうち、片方を紛れもない縁者として遇したが、もう一人にも同様、あるいはそれ以上の礼を払った────そうせずにはいられなかったのだろう。
ゲオルグは部屋の一番奥に設えられたベッドに向かった。サイドテーブルに飾られた真紅のバラの鮮やかさが目に痛いほどだ。
それから彼は横たわる細身の肢体を見遣って痛ましげに顔を歪めた。
枕の上に薄茶の髪を乱し、清潔な寝具に両腕を投げ出した力ない肉体。間近に寄るまで、それが美しく整った人形であるが如き儚い印象を醸す若き青年────
二人の男は添えられた花よりも艶やかに輝いていた青年の姿を思い返し、言葉もなく目を伏せた。
屋敷に運び込まれておよそ一月、それは死したように眠り続けるカミューだった。
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自分でも「合わねー」と思っていた
肉体年齢15歳の魔物青。
すべて第二の人生のためだったのでしたv
次回は
『カーン氏の 良くわからない魔物講座』
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