蒼き森の物語 19


自刃して呪わしき生に終止符を打つ。
魔の侵入を受けた日より、それを思わない日はなかった。
けれど果たせなかったのは、ただ一点の懸念が邪魔したからに過ぎない。マイクロトフという器を失った魔物が取るべき手段。森を徘徊する魔物のどれに憑依したとしても、山狗の惨劇の繰り返しになる。
人であり、強靱な精神力を持ったマイクロトフであったから、魔物の力を捩じ伏せて己の意識下に沈めることも出来た。それでも時折魔力に圧倒されて、幾度も危険な状態に陥りもしたのだ。
理性なき器を得た瞬間から、『それ』は力を解放させるだろう。周囲を飲み込み荒れ狂う焔の本性剥き出しに、再び人に禍を為す。なまじ押さえつけられていた魔力の反動は想像するだに恐ろしいものだった。
だからこそ、マイクロトフは時を待った。
己もろとも魔物自体を葬り去ることの出来る力を。
それは我が身に枷を強いて人の則を守ろうとする騎士たる意志の現れであり、誇りと正義が導いた唯一の道であったのだ。
────今こそが『そのとき』だった。
何ものにも揺るがぬ強き剣士、カミューを託すべき信頼出来る存在の訪れ。
思い残すことなどあろう筈がなかったのに。
なのに、自分はこんなにも弱い。
我が身を見詰める琥珀に向けて、マイクロトフは思った。
幾年月を過ごそうと、人である限り心は懊悩を繰り返す。捨てきれぬ未練と執着が頭をもたげ、業深き魔性と化し────愛しきものの瞳を曇らせ、怯えさせている。
それでも逸らされぬ眼差しを、どれだけ愛していたことか。
終わらねばならない命なら、せめて人として終わらせよう。
遠い日に、自分と出会うために森に踏み込んだカミューが身を守るために握り締めていた輝きを泉から拾い上げたのはいつのことだったか。
こんな使い途を予期していたわけではないけれど────

 

小さなナイフの切っ先は温かく感じられることだろう。
それはカミューの体温にも似て、慈悲深く呪われた身を包んでくれる筈だ。

 

 

マイクロトフは殆ど痛みを感じなかった。
ただ、端正な顔を歪めた慕わしい存在を認めた胸だけが焼けるようだった。

 

 

 

 

 

ゆっくりと長躯が傾ぎ、大地に崩れ行こうとするに至って、ようやくカミューの時間が動いた。声にならない悲鳴を上げて、倒れ落ちた男に駆け寄りながら与えられた札を発動させる。
呆然としていたゲオルグとカーンだったが、思いもかけぬ結末に驚愕する暇はなかった。血反吐を吐きながら倒れたマイクロトフの全身を包んでいた炎が凝縮するように引き始め、やがてそれは血を噴く心臓の一点に集まったのだ。
そこから飛び出し、一同の上空にて制止したものは肉眼では炎の玉にしか見えない。これこそ、目指した魔物の本体であることは明らかであった。
「気をつけて下さい! 侵入を許してはなりません!」
カーンは叫びながらゲオルグ、そしてマイクロトフに取り縋ったカミューに向けて『守りの天がい』を放った。魔法攻撃を防ぐ力にどれだけの効力があるかはともかく、万全を期する必要があった。カーン自身は代々伝わる魔除けの護符を身につけているが、それとて有効な防御手段であるか不安が残る。
終に真の姿を現した炎の魔物は、あたかも差し出された供物を吟味するかの如く、一切の攻撃を繰り出すこともせずに一同を見下ろしていた。剣戟の届かぬ虚空に嘲笑うように漂いながら、確実な侵入の機会を窺っているかのようでもあった。
実体があるのかすら定かではない敵であるけれど、計り知れない魔力の膨大な圧力は確かに感じられ、あたりに緊迫した空気が流れている。
そんな中、ただひとりカミューだけが一切を放棄していた。彼は仰向けに倒れた男に覆い被さるようにして、両手で裂けた胸の傷を押さえ込んだ。
「……マイクロトフ」
そっと呼び掛ける。声は痛々しく掠れて震えていた。

 

またしても間違ったのか。
覚醒したマイクロトフは、取るべき行動を決していた。
決意の大きさは躊躇なき形で現れ、ナイフの抉った傷は命を流れさせようとしている。回復魔法でも塞ぎきれなかった深い傷から途切れることなく溢れる血を、カミューは両手で塞いでとどめようと虚しく努めた。

 

「マイクロトフ、わたしだ……目を開けてくれ」
うっすらと開いた瞳は慕わしい夜の色。そこにはすべてを為し終えた安らぎのようなものがある。
「何故……戻った……」
切れ切れの問い。それでも悲嘆や苦悶ではなく、幼子を窘めるような響きが返ったことにカミューは笑んだ。
「忘れたのかい……? ずっと離れないと誓った。今度はわたしがおまえを守る」
『おまえ』と呼んだことに気付いたのだろう。マイクロトフは淡く目を細めて苦笑した。
「……子供のくせに……」
「言っただろう? わたしはもう……子供ではない」
素早く身を伏せて、カミューは男の唇にキスを落とした。そのまま振り仰いで上空に止まったままの魔物を見遣る。
炎は未だ『人』を吟味するかのようにチロチロと紅い触手を伸ばしながら揺れていた。ゲオルグもカーンも息を潜めて、攻撃に転じる瞬間を見定めている。
重苦しい緊張の狭間をぬって響いた声は、凛然と冷えた空気を駆け抜けていった。
「蒼き森を統べる、真なる魔物の王に誓約する!」
カミューは真っ直ぐに炎を見上げながら言い放った。
「我が身をもって住処と為せ────この身を汝の器とせよ!」

 

 

 

いけない。
何故、その可能性に思い至らなかったのか。
カーンは叫び掛けようとして、だが言葉を飲み込んだ。マイクロトフの傍らに身を屈めたほっそりした若者、彼から放たれる痛々しいまでの意志の色に圧倒されたからだ。
穏やかな双眸に情熱を孕んだカミューは、何ものにも踏み込まれぬ深い決意の底にあった。
戸惑いは、魔物にも同様だったらしい。
炎の塊は考え込んでいるかのように見えた。ゲオルグとカーンは目を見開いたまま悲壮な誓いを捧げた青年を、それから炎の魔物を窺う。

 

そして同じことが繰り返されるのか。
魔物が『誓約』を受け入れたなら、今度はカミューを魔性の宿主として屠らねばならないのか。
だとしたら、人は何と無力な存在なのだろう────

 

彼らの葛藤をよそに、カミューは再び唇を開いた。『誓約』の正式な型は知らずとも、書物から得た知識を掻き集めて畳み掛ける。
「悪しき伝説も、呪わしき力も……何もかも余さず受け入れよう。わたしを永劫の住処と為せ、これは命に賭けた約定となる」
掌の下で、すでに微弱な鼓動さえ感じられなくなりつつあるマイクロトフ。焦りは悲痛な叫びとなって迸った。
「わたしのすべてをやる! 代わりに……代わりにマイクロトフを生かしてくれ!」
血の気の失せた男の顔。
閉ざされてしまった瞳に再び光を戻すために、今ならば何を差し出しても惜しくはない。
泉に沈んだ身に伸ばされた大きな手の強さ、草の寝床で回された腕の優しさ。
与えられた林檎の艶やかな紅い輝き、翻る青い衣に包まれた長身の雄々しさ。
そして────見詰める黒き眼差しのために。

 

 

「不老を操る魔物ならば出来る筈────わたしの代わりにマイクロトフを『人として』生かせ……!!」

 

 

 

 

 

さざめく一陣の風が沈黙の森を抜けていった。
刹那、周囲が真紅の光に包まれた。

 

 

────誓約ノ誠ヲ得タリ。汝ヲ終ノ住処ト為ス────

 

 

脳裏に直接響いた応え、それは初めて聞く魔物の『声』だった。
一同は目も眩む光に魔物を見続けることは出来なくなった。次第にあたりを侵食して、朝陽さえも超える輝きを放つ存在に圧倒されて目を伏せる。
カミューはゆっくりとマイクロトフに視線を戻した。彼の心臓はもはや微動だにせず、失われた鼓動の上に重ねた掌だけが互いを繋ぐ唯一の絆だった。
「……子供ではないよ、マイクロトフ」
カミューは微笑みながらそう告げた。
「愛を知ったときから……人は子供ではなくなる」

 

自分よりも重い存在を見つけた瞬間から。
すべてを投げ出しても守りたいものを得たときから────

 

 

 

「誓っただろう、マイクロトフ」
白磁の頬に一筋の涙が伝った。
「たとえ身は離れても……心はおまえと共に在る」

 

 

 

炎の魔物は輝く閃光となった。
白刃に似た光が、当てられたカミューの両手もろともマイクロトフの心臓を貫いた。
広がる光の波が蒼き森を呑み込み、荒れ狂い────

 

 

 

 

『おまえが望む限り……おれは変わらずに在る』

『わたしは……いつまでもマイクロトフと一緒に居るよ』

 

 

 

 

 

────そして静寂が訪れた。

 

 

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以上をもって救済編は終了です。
救済されてない??
───気の所為ですよう(笑)

次回より終章、あと少しだけお付き合いをv

 

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