爪の先のように細く頼りない月が黒々とした空に浮かんでいる。
葬列にも似た重い足取りで進んでいた隊商は、やがて前方に現れた漆黒の森の直前で歩を止めた。両側は切り立ったような崖、夜空よりもなお色深く、道を塞ぐかのように鎮座するこの森には多くの魔が棲まうと言い伝えられ、旅行く者の恐怖と嫌悪の対象だった。
闇を裂いて鳴き濡れた獣の叫びが過ぎて行った。一陣の風に舞い上がった木の葉が掠れた音と共に周囲を飛び交う。死に絶えたような静寂と生き物の蠢きの共存する森、其処はいつからか『蒼き魔の森』と呼ばれていた。
隊商はその場に休息の場を設え始めた。てきぱきと作業を進めるどの顔にも、間近に広がる深淵なる森への畏怖が現れていた────。
「とうとう着いちまったな……」
隊商を指揮する男が独りごちた。
この経路は北へ向かう交易路では最短のものである。しかしながら、現在ここを使う商人は殆どない。何故なら、迷信深い草原の民は伝説にある魔への畏怖から他の経路を選ぶのが常となりつつあったからだ。
男も、常ならばもう少し東寄りにある道を利用する。だが、今回は急ぎの商いが待っており、迂回する余裕がなかったのだ。こちらのルートを選んだときから、男には一種の覚悟があった。魔の跋扈する森を突っ切る酔狂な旅人はいないが、すぐ脇に、馬一頭やっと通れるほどの細い路がある。其処を進むための手段は、近隣に生きる者ならば誰でも知っていた。彼は苦渋を噛み殺した表情で、仲間の一人に命じた。
「……あいつを連れてきな」
「お頭……」
命じられた男はほんの束の間眉を寄せたが、すぐに諦めたように首を振りながら踵を返した。
次に男が戻って来たとき、背後に一人の幼い少年を従えていた。柔らかな薄茶の髪、煌めく琥珀色の瞳。利発そうな眼差しは隊商の頭目にひたと当てられて動かない。輝く瞳の美しさから目を逸らしつつ、男は低く切り出した。
「……わかるな、俺だってこんな真似はしたくねえが……」
柄にもなく口篭もった男は、次に意を決したように淡々と告げた。
「おめえももう十歳、子供じゃねえ。俺たちが大事な商いを抱えてるってことはわかるだろう? そのためには最短でマチルダまで向かわにゃならん。他の連中を出し抜くには、この道を行くしかねえんだ」
それから卑屈そうに唇を歪め、自嘲気味に息を吐く。少年は答えなかった。ただ、小さく頷いただけである。
「おめえは器量がいい。拾ったのが俺たちでなけりゃ、金持ちのオヤジにでも売っ払われて玩具にされたのがオチだろうよ。それをこの歳まで養ってやった……恩義は感じているだろう?」
次第に小さくなる頭目の声に、少年は再び頷いた。
「────すまねえ」
最後に男はそう言って僅かに頭を垂れた。野卑で粗雑な商い人の、それが最大の誠意だったのだろう。敷物に胡座をかいて座る男の、膝の上に乗せた拳が震えていた。黙したままそれを見詰めていた少年は、柔らかな大人びた口調で言った。
「……お頭……長いこと、ありがとう」
びくりと震えた男は、仲間に目配せした。傍らから進み出た男が、少年にひとふりの剣を差し出す。
「今度の商いで一番の品だ。古い神様だか女神様だかの名前がついてるらしい……ユーライア、ってんだそうだ。持っていきな」
「いいの?」
「ガキに使えるかどうかわからねえが、お守り代わりにゃなるだろうよ」
言いさして、自分の台詞に欺瞞を感じたのだろう。男は痛ましく顔を歪め、プイとそっぽを向いた。少年が嬉しそうに成人用の剣を手にして鞘を撫でる様を横目で一瞥し、もう一度低く呟いた。
「……すまねえな、カミュー……」
少年は、だが穏やかに微笑むばかりだった。
「森の真ん中に一際大きな樹が見えるだろう。あの方向に真っ直ぐ進め。森ン中は道が枝分かれしてるらしいが、経路は比較的分かり易いと聞く。丁度、あの大樹のあたりに……『それ』がいるという話だ」
夜陰に目を細めて説明を聞いていた少年は、語る男の方が怯えている様子なのが可笑しかった。
「これも持っていけよ」
男は懐から数枚の札を出した。魔の力を封じ、紋章がなくとも魔法を扱えるようになる貴重な札だった。
「……ケチな魔物に殺られるんじゃねえぞ」
「わかってるよ、『それ』じゃなきゃ意味がないもんな」
「そんな言い方すんなよ……」
「ごめん」
少年は素直に詫びて目線を森に向けた。それから見送ってくれた男に微笑む。
「じゃあ、行くよ。みんなに元気で、って伝えて」
「……………………カミュー!」
男はたまらずと言った調子で呼び掛けた。
「俺たち……俺たちだって、本当はこんなこと……」
「いいんだよ」
カミューは歳に似合わぬ思慮深さで首を振る。
「オレは隊商に恩がある。この日のためにオレは居たんだ……それじゃ、さよなら!」
僅かに滲んだ涙を見られる前に、カミューは足早に歩き出した。振り返らず、だが見詰める眼差しを痛いほど感じながら。背後からの視線は自責と憐憫、そして微かな安堵を伝えていた。
カミューは、殆ど記憶さえ残っていない母と死に別れてから、ずっと面倒を見てくれた気のいい隊商のために役立てる自分を誇らしくも思った────それがたとえ生贄という名の役割であろうとも。
暗く深い森に足を踏み入れる少年を最後まで見送った男は、やがて肩を落としながら仲間の元へと戻っていった。出発は明朝になる。カミューが上手く役割を果たしてくれれば、隊商は無事に森の脇道を進める筈だ。そうなれば北の街での商いは成功する。そう自らを慰めつつ、やはり足取りは重かった。
手にした松明の所為か、間近に多くの息遣いは感じるものの魔物の襲来はない。カミューは慎重にあたりを窺いながら足を進めた。
恐怖がないと言えば嘘になる。どんなに大人びていても、類稀な聡明さと冷静さを持っているとしても、カミューはまだ十歳なのである。戯れのように学んだ剣技が抜群の冴えを見せるとはいっても、与えられた剣は重く、とても振り回せるようなものではない。よって、身を守る武器は懐に忍ばせたナイフと貰った札がすべてなのだ。
闇が支配する森、周囲に自分を観察する目を確かに感じる。竦む足を励ましつつ進む少年は、いつしか頬に伝う涙を止められなくなっていた。
────仕方の無いことなのだ。
気丈に笑みながら頭目の申し出を受けたときも、見送る男に別れを告げたときも、ずっとそう思っていた。今もそれは同じだ。彼らに恩義を感じているのも本当だし、彼らの苦悩も理解出来る。
それでも、贄として選ばれた身を泣くくらいは許されるだろう。戦って死ねと命じられたなら、最後の瞬間まで勇敢に振舞うことも可能だ。だが、カミューにはそれすらも許されない。死に行く自分への惨めさ、哀しさが涙となって溢れてくる。
微かな獣の気配がした。向かってくる気配はない。ただ息を詰めて、小路を進むカミューを窺っているようだ。『それ』に命じられているのだろうか、己の贄に手出しをするなと止められているのだろうか────そんな風にも思ってみる。
いずれにしても、無益な傷を増やさずに進めるのはありがたいことなのだろう。明日の朝、隊商が旅立つまでに目的を果たさねば意味がない。カミューは教えられた大樹を前方に見透かしながら唇を噛み締めた。
どれくらい歩いただろうか。
不意に視界が開け、こんな森には不似合いなほど美しく澄み切った泉が現れた。丁度そこだけ木々が途切れ、割れた葉陰から鈍い群青の空が覗いている。カミューは壊れそうな月を見上げてから、泉に歩み寄った。
ここまでの旅、そして歩み解かれていない森の路を進んだことで足がひどく痛んでいた。ほんの少しくらいの休息は許されるだろうか、そう考えて泉のほとりに腰を落とす。松明を大地に突き立てて、靴を脱いでみると、形良い白い足先は赤味を帯びて腫れていた。溜め息をついて泉に爪先を沈めると、冷えた清水が優しく疲れに染み渡っていった。
水面には脆い月とカミュー自身の貌が映っている。いつのまにか涙は枯れていたが、哀しげな瞳が見返していた。
「しょうがないよな……オレが一番適任だもの」
自らに言い聞かせるように呟いてみる。
「生贄を出さなきゃ通さないなんて、陰険だよなあ……」
実際に口にしてみると、初めて憤りが沸いてきた。我が身の悲運よりも、そうして綿々と継がれてきた犠牲者たちの歴史に胸が揺れる。
「お伽噺じゃ魔物は勇者が退治するものと決まってるのに……このあたりには腕自慢の剣士もいないのかな」
「────いなくもないだろうが、森に入ってくるものはない」
唐突に背後から掛かった声に、カミューは驚愕して振り向いた。あまり驚いたものだから、腰掛けていた泉の縁からずり落ちた。そのまま冷たい水の中に沈みかけ、恐怖の叫びをあげる。
乾いた草原育ちの少年は水慣れしていなかった。無論、泳ぎは不得手だ。突然全身を圧迫した冷水と、容赦なく呼吸を奪われる苦しさに激しくもがく。次第に意識が遠のきそうになる中で、縁に立った先程の声の主が泉の縁から自分を見下ろしているのに気付いた。
「……助けて!」
相手の素性など考える暇もない。カミューは必死に喉を絞った。大柄の人物は、しばし逡巡するように眉を寄せていたが、やがて深く豊かな口調で言った。
「……落ち着け。暴れずにちゃんと立ってみろ」
「────え……?」
苦しくてそれどころではなかったが、相手の口調があまりに静かだったので、言われるままにもがくのを放棄した。途端に沈みかける全身を強張らせ、それでもそろそろと足を伸ばしてみると。
泉の底に足がついた。途端に肩から上が水面に出る。息を切らせたカミューは呆然と顔を上げた。濡れた髪の滴らせる雫の向こうから自分を見詰めているのは、青い衣を纏った一人の男。彼はゆっくりと泉の縁に片膝をつき、躊躇いがちに呟いた。
「……水浴びには冷える季節だ。上がるなら手を貸すが」
蒼き森には魔が棲まう。
『それ』は夜の髪と瞳を持ち、蒼き衣に身を包む。
森の魔のすべてを従える、『それ』は王と呼ばれる闇の住人────
カミューは対峙する相手が目指す存在であることを知った。
自分を見据える男の貌は冷たく凍っていた。瞳は重く沈んだ夜空の色。魅入られたように差し伸べる少年の小さな手が震えたのは、寒さの所為ばかりではなかった。
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