『王』たるものが呼び寄せたのか、茂みの至るところから魔物が繰り出してきた。
その夥しい数に眉を寄せ、だが二刀要らずの男は笑む。
理不尽なさだめに翻弄される不運な若者と対峙するよりは、いっそ魔に支配された姿の方が望ましいと思っているのだ。
彼は飛び掛る無尽の魔物を容赦なく両断しながら、僅かずつマイクロトフとの距離を詰めようと試みた。配下の魔物に守られるように仁王立ちになった体躯は、泰然と薄笑いを浮かべながらヒトの抗いを見守っている。
一方、喧騒の坩堝と化した広場を望む茂みの向こうから窺うカミューは、ようやく最初の動揺から立ち直り、けれど息を呑んだままゲオルグが魔物と戦う様を見詰めていた。
巡らせた視線に映る姿は見慣れた男の体躯だったが、業火に焼かれた厳つい表情に浮かぶものは未だかつて目にしたことのない不気味な満悦だった。
魔物の爪によって裂かれたゲオルグの頬に伝う鮮血、また、剣が魔物を切り裂いて飛び交う血潮に陶酔したように眺め入る真紅の瞳には、カミューの知る一切が失われていた。
ずっと昔、魔に支配されかかったマイクロトフに組み敷かれたときには彼の瞳に葛藤があった。肉体を操られても、最後の一線で踏み止まろうとする痛ましき努力が。
今のマイクロトフにはそれがない。
身のうちに巣食った魔にすべてを明け渡し、侵入者を屠ろうとする冷たい森の支配者と成り果ててしまっている。
それが自らの引き起こした現実であることを、カミューは漠然と察した。
マイクロトフは己の命と引き替えに悪しき伝説に終止符を打とうとしていた。
ゲオルグの剣先に無防備に身を曝し、呪われた生に別れを告げようとしていた彼を、引き止めたのは他でもないカミュー自身だ。
振り返った眼差しが一瞬でそれを伝えた。
マイクロトフは生に執着したのだ。おそらくはカミューのために。
そして魔物はそれに応えた────
ゲオルグは果敢に攻撃を繰り出していたが、いったいこれほどの数の魔物が森の何処に潜んでいたのか、反撃は凄まじい。
カミューはユーライアを鞘から抜いた。
彼自身、もう自分が『どちら』に属するべきであるのか、分かりようがなかった。ただ、今のマイクロトフを認めることだけは出来ない。殺戮に酔い痴れるように目を細め、ゲオルグを嬲り殺しにすることを望む彼だけは。
そのとき横にカーンが並んだ。相当急いできたのか、息を弾ませる男は思慮深い瞳でカミューを射抜く。
「これは……いったいどうしたことです? あれがマイクロトフという騎士なのですか?」
続いて見遣った目が炎の中に佇む長躯を睨み据える。カミューの答えを待たず、彼は悟った。
「どうやら……魔に取り込まれてしまったようですね……」
言いながら紋章の力を放出する。ゲオルグの防御力を高める援護をしたらしい。剣戟の合い間にちらりと向けられた感謝の目が、再びマイクロトフに向けられる。
彼を守り立つように対峙する魔物たち───その統制は固く、異質なる炎に怯むことなくマイクロトフに付随している。
魔性の紅蓮の虹彩が、ゆらりとカミューらの方を見た。正確には、彼らの寸前の大地に突き刺さった大剣を。
はっとする間もなく一体のホークマンが飛来してきて、鋭い鉤爪に剣の柄を握った。羽ばたいて戻った魔物は恭しいとさえ言える振舞いでマイクロトフに剣を差し出す。受け取って握り直した剣の柄から白刃を舐めるように炎が燃え広がった。
「カーン殿、ずっとわからないことがありました」
カミューは必死に男を見上げた。
「あの炎の魔物は取り憑いたマイクロトフの時間を止め、斯くも長きに渡って生き長らえさせてきた……それはおそらく、山狗においても同じことだったのでしょう。なのに何故、魔物は不死を約束しないのですか?」
カーンは虚を突かれて間近の美貌を見返した。
「不老と不死……それは一対のものではないのでしょうか? 何故、器となった形代が瀕死に陥ったとき、魔物は次の形代を求めるのです? 不老を為す力があるならば、どうして……」
宿とした肉体を見捨てるのか。
カーンは慎重に考えてから答えた。
「……それは『誓約』の有無でしょう」
「誓約?」
頷いて痛ましげにマイクロトフを見遣る。
「古来より知性無きものと思われがちの魔物ですが……中には人の幾倍も歴史を重ねた生がある。そうした魔物には人と同じ、あるいはそれ以上の知性が備わっているものです。魔物には人のようなしがらみも損得もない。ただ、本能の導く誓約のみが彼らを縛る意識となる……」
ゲオルグの稀有な武力に押されたのか、魔物たちは王たる存在の背後に退き始めた。
代わって進み出た『マイクロトフであったもの』が炎に包まれた剣を構える。
「……己が身を宿として与えることを『誓約』したならば、魔物は最後まで彼を守ろうとするでしょう。それは山狗であってもしかり。けれど、彼らの間に約束は交わされなかった───よって、魔物には彼らの肉体を守り抜く義理がない……というわけです。より強靱な肉体を持つものに移ることは、魔物にとって永らえるための保身の本能。そうやってあの魔物は永劫を生きようとしているのです」
カミューはマイクロトフを───彼の中に棲む魔性を見据えた。
「……誓約……」
喉の奥深く呟いた彼に、カーンは懐から出した品を差し出した。怪訝そうに眉を寄せるカミューに向けて柔和な笑みが浮かぶ。
「……『優しさの流れ』の札ですよ、回復魔法です。あなたが持っていなさい」
「カーン殿……?」
「ゲオルグ殿が首尾よく彼と魔物を分離出来たら……そのときにお使いなさい。運が良ければ彼を救うことが出来る」
カミューの胸に僅かに温みが灯った。
見詰めるカーンの瞳は穏やかで優しい。魔物としてのマイクロトフを忌んでいても、人としての彼を救いたいという心が雄弁に溢れている。
だが。
救えるだろうか。
そのとき────マイクロトフは瀕死の手傷を負っていることになる。魔物と切り離された彼がどういう状態になるのか、それは恐ろしい想像だ。
魔物の庇護を失って、『人』と還った瀕死のマイクロトフを果たして救うことが可能なのか。
悲痛な想いを打ち破ったのは、剣の交わる鈍く重い音だった。ゲオルグがマイクロトフの打ち下ろした剣を受け止め、じりじりと後退っている。勇猛なる武人にあっても、焔を纏った剣の攻撃は対処し難いようであった。
まして、完全に人の則を越えた男の力は先程までの交戦時とは比較にならないもののようで、肉体を凌駕した魔性の力が徐々にゲオルグを押している。
「まずいですね……援護せねば」
カーンは立て続けに魔法を放った。ゲオルグの周囲に『守りの天がい』を敷き、『ふくしゅうの大地』で反撃力を高める。更には隙を突いて攻撃に転じようと距離を詰めている魔物の群れに『破魔』を注ぐ。それはゲオルグにマイクロトフとの対戦に集中させるための援護であったが、代わりに魔物の群れは別なる敵の存在を知って、こちらににじり寄ってきた。
「酷だけれど……やはりあなたは人なのです。心をお決めなさい、我らと共に『魔王』を打ち破り、人としての彼を救うことに賭けると」
はい、と細く答えて剣を握る。
同じ森で過ごしたもの同士であっても、向かってくる以上は敵として認識する他ない。
カーンと並んで茂みから抜け、広場に立つ。途端に雲霞の如き数の魔物が彼らに飛び掛ってきた────が。
攻撃はすべてカーンに向けられた。
彼の暗器はすかさず第一陣の牙を退けたものの、呆然としながら次なる敵に身構える。
「これは……?」
魔物の敵意は完全にカーン独りに向かっているのだ。ほんの僅かに距離を取ったカミューは意識にさえ過ぎらないらしく、ほとんど放置といった有り様で戦いの混乱から取り残されている。
続く攻撃も、更に重なる攻撃からもカミューは隔絶された。さすがに囲まれるカーンを見かねて繰り出した剣に、魔物は無抵抗に斬り倒され、砂塵と還っていった。
カーンは反撃の合い間にマイクロトフを一瞥した。
炎の魔物と化した男はこちらの戦いには見向きもせず、ゲオルグを追い詰めることだけに集中している。炎に邪魔されて間合いに入れず、ゲオルグは苦戦を強いられているが、彼の双眸には気負いはない。
拮抗した力のぶつかり合いに息を飲みつつ、カーンはある可能性に思い至った。
今現在もなお、森の魔物は『魔王』に服従しているのだろう。
『魔王』の意志に従ってカーンを葬るために向かってくる魔物たち、その攻撃から隔てられたカミュー。
それは、『魔王』の中にマイクロトフの意志が澱んでいるからではないのか。
カミューを守ろうとする男の願いに『魔王』が呼応している証拠ではないのか。
だとしたら────
「カミューさん、彼を呼びなさい!」
カーンは命じた。戸惑って瞬く青年に、戦いの合い間に鋭く続ける。
「彼を呼び戻せるとしたら、あなたしかいない。彼の意識を蘇らせるのです────早く!」
否はなかった。
自分が魔物の台頭を促してしまったのなら、マイクロトフを呼び覚ますのも自分しかいない。それを失念するほど動転していた己を責めながら、彼は叫んだ。
心からの祈りを込めて。
「────マイクロトフ!」
刹那、ゲオルグに向けて翳されていた大剣が止まった。
ゆらゆらと燃え盛る炎の中で、ゆっくりと顔が巡らされる。表情の失われた男の瞳、真紅の虹彩が叫んだカミューを凝視した。
魔物たちは一斉に攻撃の手を止め、主の反応を窺うようにその場に縫い付けられて動かなくなった。
一同にははっきりと見えた────マイクロトフの紅い瞳が、漆黒へ、更に再び真紅へと刻々と色を変える様が。
それは内なる葛藤を物語り、さしものゲオルグも距離を取って剣戟の手を休めた。
「カ、ミュ……」
魔王の唇が狂おしげに名を紡ぐ。それは次には切ない絶叫となって森を木霊した。
「カミュー……!!」
剣を持っていない左手が顔を覆う。よろめくように後退り、マイクロトフは大地に剣を突き刺した。
明らかな異変を見取ったカミューは、すかさず駆け寄ろうとした。だが、足は鋭い声に遮られた。
「来るな、カミュー!」
なおも炎に包まれる男が顔を上げたとき、その瞳は懐かしい漆黒に戻っていた。穏やかで優しかった庇護者のそれは、だが今は灼熱の情念をも孕んでいる。
マイクロトフの眼差しに射竦められて足を止めたカミューは、緩やかに動いた彼の左手が懐から抜いたものが何であるのか、一瞬判別出来なかった。
男の手には妙に小振りな煌めき────幼き日、森に足を踏み入れた自分が手にしていたナイフだと分かっても、それが意味するところを掴みかねて反応出来ない。
あのナイフ、あれは確か泉の底に沈んだ筈。
そんな思考が脳裏を掠めたとき、白刃が朝陽を煌めかせた。
小振りではあるけれど、十分に殺傷能力を持つ刃が真っ直ぐに男の胸に吸い込まれていくのを、為すすべもなくカミューは見詰めていた。
悲鳴さえ喉に絡みつき、間髪入れずに引き抜かれたナイフが噴き出す鮮血に塗れる様を、ただ琥珀は映すばかりだった。
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次回、救済編のラスト。
自害を目論んだ青に、赤は往復ビンタを……
───見舞いません、ハートフルだから。
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