蒼き森の物語 17


「すでにお聞き及びかもしれないが……おれが宿した魔物は形代から形代へと憑依を重ねます。おれが瀕死となれば、新たな肉体へ移ろうとする────どうかご注意を」
淡々と語るマイクロトフにゲオルグは拳を握り締めた。
聞いた話から相手が若者の姿であることは覚悟していたが、潔く身を曝すマイクロトフの姿勢に感じ入るものはあった。そんな相手を屠らねばならないことは、彼の長い剣士としての人生においても容易な決意ではない。
「炎に幻惑されますが、魔物には核があったようにも見えました。もっとも、古い記憶なので定かではないのですが」
やや苦笑じみた表情。
「おれは予測していなかったので、まんまと侵入を許したが……どうぞ確実に討っていただきたい」
「────おまえさんは」
語り続ける男の一本調子に気付いたゲオルグが静かに遮った。
「それでいいのか? おれが言う筋ではないだろうが……本当にいいのか」
冷め切った諦念を浮かべる若い顔、生真面目に意見を述べる真っ直ぐな視線。
彼が遠い日、どれほど将来を嘱望される男だったかが窺える。迷いなど無縁の筈である身が、今更のように他に手段はないものかと思案するゲオルグだった。
「おれは」
唄うような口調でマイクロトフは言った。
「長いこと、この日を待っていました。忘れたのは……この六年間だけです。あなたは躊躇うことなく、目的を果たしてくださればいい」
壊れたような笑み。
人は悲しみと孤独の中で感情を忘れるという。
マイクロトフは逆に通り越した痛みによって凍てついた感情が動き出したようだった。
───ぎくしゃくとした、ひどく歪んだ感情が。
浮かぶ笑みとは裏腹に、ゲオルグには彼が泣いているのが感じられた。人の枠を外れねばならなかった理不尽な運命への怒り、嘆き、そして哀しみが、朝の冷えた空気を通じて痛いほど伝わってくる。
「……一つだけ、聞きたい。おまえさんは……あの子を愛していたのか?」
刹那、マイクロトフは表情を失って虚空に視線をさ迷わせた。多くの想いが彼の中を荒れ狂っているようだったが、やがてもたらされた言葉は静かで小さかった。
「カミューは……素晴らしく成長したと思われませんか?」
唐突な問い返しに面食らいながら、ゲオルグはさっき別れたばかりの若者を思った。
容姿の美しさもさることながら、知性溢れる物言い、瞳の力強さ、ひとたび心許したものへの目映いばかりの信頼と情熱は心地良いばかりだ。
もっとも、散々憎まれ役に徹したゲオルグに向けられた視線は鋭いもので、相当な気の強さをも窺わせたが。
同意するように頷くと、マイクロトフは再び微笑んだ。
「こんな森ゆえ、風雅なたしなみは与えてやれなかったが……何処へ出ても恥ずかしくないだけの知識と教養は身につけている筈です。どうか……、カミューを頼みます」
そう言って丁寧に頭を下げる。押し殺した情念の行方を思い、ゲオルグは低く返した。
「あの子を抱いたのは────恐れさせて未練を断ち切るためか?」
「……それもあります」
知られていたことを恥じるでもなく、マイクロトフは認めた。それから深い溜め息を洩らして首を振る。
「綺麗事を口にしても仕方ありませんね……おれは限界だった」
自らにこそ言い聞かせるように彼は呟き、俯いて────自嘲した。
「……魔物が人を恋して何になるだろう……」

 

ゲオルグはすんでのところで言葉を飲み込んだ。
この哀れで切ない魔物の王に、せめて真実を告げたかった。
けれど、彼の言うように何になるだろう。
死を受け入れねば救われない、自らのさだめを享受しようとしている存在に。

 

マイクロトフはふと顔を上げ、殊更に朗らかな口調を取り繕った。
「ひとつだけ我侭が……。人であった頃、おれは騎士として腕を磨きました。正義と信念のために剣を振るおうと日々鍛錬を積み、強い剣士と一戦交えることに憧れて。出来ることなら魔物としてではなく、剣士として終わりたいのです」
ゲオルグはにやりとした。
「それに……自分にも敵わぬ相手に、あの子を任せられない……か?」
揶揄に、マイクロトフは笑って頷いた。
初めて目にした歳相応の貌は、ただ痛ましいばかりである。敢えて同情をかなぐり捨て、ゲオルグはゆっくりと柄を握った。
「本気で掛かって来い。悔いの残らぬよう……すべてを賭けて」

 

 

 

 

 

頬を撫でる風は馴染み深い緑の匂い。
カミューは軽やかに茂みを掻き分け、草を踏み締めながらひた走る。時折、呼応したような魔物の息遣いが間近に寄ったが、構う暇はなかった。
胸に呼び続ける名はひとつだけ。
彼の変貌に戸惑い、然の事態の流れに見失っていたものが突如として形を為した。
おそらくカーンは意図的に示唆してくれたのだろう。二人の想いの深さを知って。
酷い仕打ちのように見えることが、実は最たる思い遣りであり、情愛である────マイクロトフはカミューを『外』へ返すために冷徹な魔王を装った。残酷な言葉を浴びせて突き放し、怯えさせ、後ろを振り向かせないために暴力をも駆使した。
カーンの言葉が、そのままゲオルグの態度にも通ずると分かった途端、すべてが明らかになった。最初から酷薄な指摘ばかりしてカミューを苛立たせた男は、出来ることならカミューの未練を壊したかったのだ。
だとしたら、ゲオルグが放った言葉も表裏を為す。
マイクロトフが自分にもたらした行為の真なる意味────それは短い戸惑いの後、歓喜となってカミューを駆け巡った。
一刻も早く彼の元へ戻らねばならない。そう森へ踏み出したが、同時に胸を過ぎった暗雲。

────ゲオルグは何処へ行ったのか?

人と魔物が共存など出来ないというのは、ある意味正論だ。カーンに諭されたように、二人の日々は悲しき結末をもって終わるしかない。
カミューにだけではなく、マイクロトフに対しても同様の慈悲を抱いているなら、ゲオルグが取る行動はひとつだ。

 

死をもってマイクロトフを救うこと。

 

緩やかだったカミューの足は、そこで走り出した。
後はもう、枝葉が肌を裂くのも忘れ、我武者羅に進む。
目指すのは懐かしい住処だった。

 

 

 

 

 

『二刀要らず』の二つ名が今日ほど重かったことはない。
幾度目かの攻撃を受け止められ、ゲオルグは飛び退って間合いを取った。
互いに剣で身を立てようとした者同士、相手の力量は最初の一手で知れる。ゲオルグの場合、大抵の敵はそこで倒れ、二撃目が不要となる。よって、ついた字名なのだ。
してみると、マイクロトフはゲオルグが対した過去のどの敵よりも鋭く見事な剣腕を誇る相手といえた。彼の太刀筋は真っ直ぐで裏がない。まさに騎士たるものに相応しい、些かの迷いのない剣戟だ。重い攻撃を受けた剣が鳴き、両者の間に火花が散る。
次第に心地良い高揚が二人を包んでいた。
マイクロトフの頬にも微かに朱が昇り、常になく『人』である自分を実感する。
────こんな日を待っていた。何の躊躇いもなく、力の限りに戦う日を。
カミューが相手ではこうはいかない。
彼の才能は類稀なものであるし、騎士であった頃の記憶を探り出して同世代の人間と比較しても、敵無しであることは間違いなかった。けれど年季や実力以前に、互いを傷つけることを恐れて存分に打ち合うことなど出来よう筈もなかった。
マイクロトフが望むものは死を得るための戦いなのだ。カミューには到底出来ないことを、ゲオルグは果たしてくれる。
どれほど拮抗しているようでも、マイクロトフには相手の力量が上回ることがはっきりと感じられた。『魔王』を宿した山狗との戦いを最後に死闘から遠ざかっていた彼と、日々剣によって生き抜いてきたゲオルグの間には埋め難い実力の開きがある。
どんな境遇に陥ろうと精進を怠るまいと努めたが、そこに空虚があったことは否めない。かろうじて互角に剣を交えていられるのは、ゲオルグの中にある無意識の憐憫が働いているからかもしれなかった。
長く満ち足りた至福にも終わりは来る。
カミューと過ごした優しい日々と同様に。
精魂込めて打ち下ろした剣を、ゲオルグは横なぎの一閃で見事に跳ね飛ばした。緩やかな弧を描いてマイクロトフの愛剣は大地に突き刺さった。
肩で息をつきながらの対峙。勝ったゲオルグは万感の思いを込めた眼差しでマイクロトフを見詰め、やがて片頬で笑んだ。
「……実にたいした剣士だよ、おまえさんは」
「お褒めいただき嬉しく思います、ゲオルグ殿」
心から微笑んだマイクロトフは、ゆっくりと両腕を開いた。体躯を包む長い青き衣が風になびく。無防備に曝された胸元を睨みつけ、ゲオルグは長い息を吐いた。
「……剣を弾いたのは失態だった。丸腰相手に……」
「負けは負けです。気になさる必要はない」
「────言い残すことは?」
束の間、マイクロトフは沈黙した。
「カミューに……」
言いかけて、すぐに首を振る。
「いえ……何も。忌まわしい伝説を終わらせてくださることを感謝します」
ゆっくりと目を閉じた。それでも眼裏に艶やかな笑顔が見える気がした。

 

────幸せに。
もう伝えた。眠りに落ちた愛しきものに。
心残りはない。

 

ゲオルグは剣を握り直した。許せ、と低く呟いて歩み寄る。
そして再び真っ直ぐにマイクロトフを見たときには迷いは消えていた。
せめて苦しませまい────構えた剣を一気に振り下ろそうとしたとき。

 

 

 

「マイクロトフ!!」

 

 

大地に刺さった剣の向こう、やっと木に縋り付いて息を切らせる美貌が叫んだ。
ぎくりとして向き直ったゲオルグは驚きを浮かべ、マイクロトフは痛みを過ぎらせた。

 

 

カミュー。

 

 

殺した筈の情念が蘇る。
生への未練が込み上げてくる───。
次の瞬間、マイクロトフは四肢を貫く灼熱の奔流に呑み込まれ、為すすべもなくよろめき後退った。
驚愕するゲオルグとカミューの見守る前で、瞳が真紅に染まる。続いて身体から炎が吹き出し、瞬く間に全身に燃え広がった。
『蒼き森の魔王』と呼ばれた騎士は、紅蓮を纏う獣と化した。
業火の中でも一切の損傷も受けない衣が、紫の光となって揺らめいている。もはや知性の片鱗も欠いた紅の瞳が、憎々しげにゲオルグを一瞥した。唇には狂気の笑みが宿っている。

 

カミューは知った────マイクロトフが宿した魔性に支配されてしまったことを。
薄ら笑いと共にゆっくりとゲオルグへの距離を詰める見慣れた体躯を見詰めながら、彼は初めて自分が震えていることに気付いた。

 

 

 

 

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青が赤と本気で戦えなかったのは、
保護者モードだったから。

「痛いよ、マイクロトフ〜」
「ああっ、すまない……おれは、おれは……!!」

作中とカラーが違いすぎるので、思わず小文字。

 

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