「カミュー……気にすんな、おまえが悪いわけじゃねえよ」
長い長い沈黙の後、気を引き立てるように殊更優しくギジムが言った。それから憤慨したようにゲオルグの消えた闇の先を睨みつける。
「何もあんな言い方するこた、ねえよな……」
「カミューさん」
苦笑混じりにギジムを一瞥してから、改めてカーンが口を開いた。
「あなたは……もし、わたしたちが納得して森を去ったら、ずっと『魔王』と暮らすつもりだったのですか?」
虚ろに顔を上げたカミューは茫として男を見、のろのろと頷いた。
「……『魔王』にそんな仕打ちを受けても? それでも構わないと?」
カミューは再び俯き、唇を噛み締めた。
「恐ろしくはないのですか?」
重ねて問う声に、ゆっくりと自問する。
────怖かった。
突然、マイクロトフが知らないものになってしまったようで。
抱き締める腕は恐ろしく強く、貪る唇は荒々しかった。
けれど行為への恐れよりも何よりも、彼の心変わりが信じられなかった。
かつて彼はカミューが望む限り変わらず在る、そう口にしたのだ。その一切を忘れ果てたように投げつけられた言葉のひとつひとつは、カミューを切り裂く刃のようだった。
「……彼の……変わりようは怖かった」
ぽつりと洩らし、幼げに首を振る。
「でも……、それでもわたしは────」
「……一緒に居たかった……?」
忍び込むようなカーンの追求にこくりと頷く。
「ずっと? いつまでも……?」
確かめる響きに顔を上げ、真っ直ぐに男を見詰める。瞳の強さに目を細め、カーンは静かに言った。
「あなたも『魔王』も独りだった……互いの孤独を埋めようとする行為の是非を問うつもりはありません」
「わたしたちは……」
反論しようとした彼を遮り、カーンは続ける。
「一緒に……それはいつまで、ですか?」
びくりとカミューは戦いた。
「『魔王』の肉体は時を止めている。片やあなたは人……永遠に一緒に居られるわけではない」
「それは……わかっています、でも……」
苦しげに零す表情を痛ましげに見詰める瞳は穏やかだった。
「いずれ来るあなたの寿命と共に、『魔王』は再び孤独に戻るのです。それは『魔王』にとって、どれほど残酷な未来であることか」
わかっている、カミューは心中で叫んだ。
「ずっと探してきました。マイクロトフが魔物から解放され、森を出ることが出来る手段を……でも……」
「魔物の呪縛を解き放つには、肉体の死が必要になる……そういうことですね?」
もたらされたのは冷たい真実。『外』の知識でも打破出来ないさだめに打ち震えるカミューを静かな眼差しが見詰め続けていた。
「彼は……救われるべきなのですよ、カミューさん」
物憂げに上げた視線に真摯な表情が映る。
「長い────長い時間を彼は独り耐えてきました。再び孤独に戻らせぬためにも……呪われた輪は断ち切る必要があるのです。それが彼にとって最良の道だとは思いませんか?」
男の言わんとすることを漠然と察し、呆然とした。背筋を冷たいものが駆け上がる。
「マイクロトフを殺すと?! ただ魔物が棲まうという理由で……殺すのが最良の手段だと仰るのですか!」
納得出来よう筈もない。きつくカーンを睨み据える琥珀の輝き。鮮やかで美しいばかりの若者に、カーンは呑み込み続けた言葉を洩らした。
「……殺すのではなく、救うのです。酷い仕打ちのように見えることが、実は最たる思い遣りであり、情愛であることを……あなたは知らねばならない」
殆ど掠れて聞き取り難かった語尾。
刹那、カミューは雷鳴に打たれたように強張った。
────そうか。
そうだったのか。
息を詰め、美しき彫像の如く身じろぎもせぬ若者に、ギジムがおずおずと声を掛ける。
「カミュー……? どうしたよ、おい」
それまで夜露に濡れた白い花のように打ちひしがれていた彼に、燃え上がる何かがある。ゆっくりと男たちに向けられた琥珀は何処までも澄んでいて、頬はばら色に輝いていた。薄く笑みを湛えた唇が柔らかに紡ぐ甘い響き。
「やっと……わかった」
うっとりと呟くなり、カミューはすらりと立ち上がる。もう身体に残る痛みも感じない。それを上回る高揚と至福が彼を包んでいる。
「わたしは……行きます」
丁寧に礼を取って、次第に白々とし始めた木立に向けて足を踏み出す彼を、ギジムが慌てて引き止める。
「行くって……おい、待て! カミュー、冗談じゃねえぞ。『魔王』のとこへ戻るってのか?」
肩を掴んで引き戻そうとしたギジムだったが、一瞬早く閃光が走り、それが抜き身の剣の輝きであることを知って愕然とした。
「……あなた方と戦ってでも行きます。誰にもわたしを止めることは出来ない」
ユーライアを構えたカミューの目は、未だ幸福そうに笑んでいる。だが、剣先を向けられた二人は彼の決意が本物であることを本能で感じ取っていた。
「ギジム」
カミューは穏やかに呼び掛けて懐に手を入れた。差し出されたのが六年前に渡した札であることに気付いたギジムは、厳つい顔を歪めた。皺になり、色褪せても手放さずにいたものを、今ここで返そうとするカミューの意志は明らかである。
過去と『外』、それらへの一切の決別が彼の選んだ答えなのだ。
「……『蒼き森の魔王』に捧げられたことは、オレの運命だったんだ。オレは誰も恨んじゃいないし、あんたらが重荷に思う必要もない」
ギジムにとって耳慣れた響きで与えられる赦し────
「……忘れないでいてくれて嬉しかった。ありがとう……さよなら」
最後ににっこり微笑んで、カミューはくるりと踵を返した。
しなやかな肢体が木立に紛れるなりギジムは我に返った。慌ててカーンを振り向き、必死に怒鳴る。
「カーンさんよ、手伝ってくれ! あいつは本気だ……痛めた腕じゃどうにもならねえ、一緒にカミューを捕まえてくれ!」
だが、カーンはゆっくり首を振る。激昂して詰め寄るギジムに切ない笑みが向けられた。
「誰に止められます?」
森に消えた若者へ語り掛けるように彼は続けた。
「彼はかつて『魔王』の元へ残ることを選んだ。それは殆ど選択肢のない状況での決意だったでしょう。けれど……今度は違う。彼は理解してしまった」
「な、何を?」
「ギジムさん、わたしは後を追います。あなたはゲオルグ殿が指示されたように森の外で待っていてください」
「おい、ちょっと待てよ! カミューが何を理解したって?!」
カーンは深い息を吐き出した。
「────互いの想いを……ですよ」
最悪の気分だった。
ゲオルグ・プライムは足早に木々を抜けて、目標である大樹を目にした。巨大な直径を持つそれは、根元に大きな洞を空けてそびえ立っている。広場のように木立の切れた地面に無造作に積まれたものを見たとき、胸の潰れる思いがした。
小さな衣服は何年前のものであるのか。
様々な大きさの弓は、子供の成長に合わせてこしらえたものなのか。
大きな板に刻まれた文字、それは子供に勉学を教えた名残か。
ふと顔を巡らせると、木と木の間に設えられた網が見えた。ハンモックのように見えるそれが、明けかけた夜に寂しげに揺れている。
足を進めたゲオルグは、山と積まれた物品の中に屈んで板切れを手に取った。拙い文字で『マイクロトフ』『カミュー』の名が並んでいる。手習いに励む少年の笑い声が聞こえたような気がした。
微かではあったが、目蓋が焼けるようだった。
────ここは夢の城だ。
魔物と子供が作り上げた、儚く哀しい幻の城。
孤独な魂が寄り添って築き上げた、隔絶された夢の住処────
ゲオルグは板を捨てた。
わかっていたのだ。
『魔王』にとってカミューがどれほどの存在であったかは。
色白な若者に鮮やかな真紅を与えた。
マチルダでは白・赤・青の騎士団があるという。かつて青騎士と称され、今も青き衣を纏うと伝えられる『魔王』がカミューに赤を選んだのは、決して意味のない行為ではなかったのだろう。
『魔王』は失われた人としての日々を愛し、そして少年を愛していた。
だからこそ、カミューを『人』の輪に返す日のために流暢な話術を与え、知識を与え、武力をも与えたのだろう。
────玩具などであろう筈がない。
愛おしむが故に、己の願望よりもカミューの未来を選び、魔物に命じて彼らの元へ寄越したのだ。
重い足音がした。
顔を上げたゲオルグは、両腕に数々の品を抱いて洞から出てくる男と目があった。相手が十五歳で人の営みから外れたことを目の当たりにして、改めて呆然とする。
若さと雄々しさに漲る肉体の中で、老いて疲れ果てた瞳が彼を一瞥した。然したる驚きも見せずにゆっくりと歩み寄った魔物は、最後の荷を山に加えた。
「……危険です、離れられよ」
低く豊かなバリトンが言う。立ち上がったゲオルグが数歩下がると、男はゆらりと手を上げた。そこから突如として紅蓮が広がり、積まれた荷を燃やしていく。白く立ち込める朝靄を焦がして天を染める炎は、禍々しくも美しかった。
男はしばし焼け落ちる品々を見詰めていた。表情にこそ露にならないが、思い出を燃やす男の心情は痛いほど理解出来る。ゲオルグは無言で待ち続けた。
やがて男は向き直った。
「名のある剣士と見受けます。ギジム殿か?」
ゲオルグはマチルダ騎士に出会ったことはなかったが、噂通り厳粛に通された礼に倣って会釈した。
「ゲオルグ・プライム。名に興味はないが、世間では『二刀要らず』などと呼ばれている」
すると男は微かに笑った。凍りついた頬に無理矢理命じたような笑みだった。
「おれは……マイクロトフと申します。『蒼き森の魔王』などとも称されていますが、かつては騎士と名乗ったこともありました。最後に誉れある剣士と出会えて光栄です」
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ご対面シーンは結構気に入ってます。
次回、バトル開始。
メロス赤は間に合うか?
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