魔物から落とされた際に枝葉に引っ掛かったのか、緩やかに開いた上着の襟元。覗く白磁の肌に残された夥しい鬱血。
無言でカミューの半身を支え起こしたカーンは、腫れ物に触るようにしなやかな手を取った。注視に曝された細い手首には、くっきりと指の跡が刻まれている。それが間違いなく人の手形であることに愕然とする一同であった。
「畜生……『魔王』め、こんなことのためにカミューを生かしておいたのか……!!」
なおも憤慨して拳を震わせたギジムだったが、カーンは慎重に口を開いた。
「……どうも腑に落ちません」
「あんたもか」
ゲオルグが複雑な顔で溜め息をつく。彼らの反応を怪訝に思い、ギジムは何とか怒りを納めて二人を見詰めた。
「彼は森を自由にうろつくことを許されていた。健康状態も悪くなさそうです。まあ……確かに性的な行為を受けたようには見受けられますが、その……」
そこで言い難そうに口篭もったカーンの後を継いで剣士が憮然と付け加えた。
「……強引ではあったらしいが、暴力とは断定出来ない」
「だ、旦那!」
仰天して不満げに顔をしかめる男にカーンがやんわりと告げる。
「御覧なさい、彼の装束を。物資に不自由するであろう森で、人並みな格好をしています。服も靴も……素人のわざでしょうが、手作りです。これは『魔王』のはからい、あるいは彼自身が自由を許されていた証でしょう」
頷いてゲオルグが補足する。
「帯刀もしている人間だ。本気で抗うつもりなら、それに見合う暴力の痕跡があってもおかしくない。このぼうずは手負いとは言い難い」
「そ、それはカミューが『魔王』を恐れて抵抗出来なかったから……」
ゲオルグはきっぱりと首を振った。
「おまえさんが『助ける』と言ったのを聞きながら逃げた。つまりは『外』の人間よりも『魔王』を取ったわけだ。よしんば接触を禁じられていたのだとしても……ならば何故、魔物がぼうずを連れてきた? 『魔王』とやらが見逃すとは思えん」
「『魔王』が自らの意志で魔物に命じ、彼をわたしたちに渡そうとした、そうとしか思えないのですよ、ギジムさん」
「だ、だけどよ……」
それでも納得いかないといった風情の男に、ゲオルグは同情的な目を向けた。
「残った疑問は本人に直接確かめたらどうだ?」
続いて向かった視線の先では、カーンの腕に抱き起こされたカミューの瞳がゆっくりと開いていくところだった。
一瞬カミューは何も考えられなかった。
我が身に起きたこと、そして現状。突然襲った嵐のような変動が思考を凍りつかせていたのだ。
この六年、開いた目が最初に探すのは、厳しく、そして穏やかで優しい男の顔だった。自らが意識を失っていたことを思い出せず、ただカミューは無意識に男の姿を求めて視線をさ迷わせた。
だが、目に映ったのはギジム、更に見知らぬ男が二人。
恐慌に陥った彼は身を硬くして支える腕から逃れ出ようともがいた。刹那、身のうちに走った鈍痛に顔を歪める。一気に記憶が押し寄せてきて、全身が戦慄いた。気配に気づいたのか、抱き支える男がゆっくりとカミューを解放する。
「カミュー……大丈夫か? おれが分かるだろう、ギジムだ」
先刻のこともある。努めて冷静に、そっと語り掛けた昔馴染みの声に、カミューは怯えながら返した。
「ギジム……」
「声が!」
男は感激したように笑った。
「良かった……声、出るんだな。てっきりしゃべれないのかと思ったぜ」
カミューは素早く周囲を窺った。すでに熟知した森である。ここが洞から遠く離れた場所であることは瞭然だった。
「どうしてわたしはここに……」
独言のように呟くと、間近の男が穏やかに口を開いた。
「魔物が運んできたのですよ。わたしはカーン、こちらがゲオルグ殿。共に『蒼き森の魔王』を討ち果たすためにやってきました」
即座に思考が回転し始めた。
カミューは三人を交互に見遣り、やや距離を取ろうと後退りながら鋭く睨みつける。その様は人馴れしていない野性の生き物のようで、見返す男たちの胸に突き刺さった。
「あなたたちは誤解をしている」
カミューは凛として言い放つ。
「彼は……彼は決して忌まわしき人喰いの魔物などではない。そう呼ばれたのは彼が倒した山狗だ」
「い……ぬ?」
澄み渡る声の色、見詰める瞳の艶やかさ。意志の強そうな唇から洩れた言葉に男たちは眉を寄せる。
「お話しましょう、すべてを。彼が打ち倒されるべき存在などではないという真実を────」
カミューは語った。
憑かれたように、必死で言葉を搾り出した。
真なる魔が肉体から肉体を渡り歩く存在であること、異質を宿した山狗が人喰いと化し、それを倒した男が不遇にも『魔王』の名を継承させられてしまったこと。
彼がどれだけ長い時間、勇敢にも魔物を体内に封じ続けたか、誤解から生じた逸話のもとに送り込まれる贄に対し、どれだけ誠実に振舞ってきたか───そして、魔を宿したがために森から出られず時を過ごしていることも。
「彼の名は?」
「マイクロトフ」
問われて躊躇しつつも答えると、カーンが痛ましげに表情を固くした。
「……間違いありません、ロックアックスで行方を絶った騎士の名です」
ゲオルグらに語るのを受けて、カミューはやや戸惑った。
「彼を……ご存知なのですか?」
「少しだけ、ね」
カーンは柔らかく微笑む。だが、瞳は切なげだった。
「正確に……彼が何年森に居るか、聞きましたか?」
カミューは弱く首を振った。
「もう覚えていないと……」
「────135年を数えます」
絶句する白い顔にゲオルグが陰鬱に割り込んだ。
「それで……ぼうず、おまえはどうしたいんだ?」
一同に緊張が走る。カミューは少し考えて決然と望みを口にした。
「お帰りください、彼は『外』に何ら害悪をもたらすことはない。出来得ることなら、歪曲された悪しき伝説に終わりを」
僅かに目を細めた剣士が探るように問う。
「おまえはどうする?」
「残ります」
迷いなくカミューは言った。しかし、それを聞くなりゲオルグは溜め息混じりに首を振る。
「……残念ながら、希望を聞き届けてやるわけにはいかん」
冷たく払い除けるような声だった。考えの読めない厳しい顔で焚き火に薪を放り込むゲオルグに、瞬きながらカミューは詰め寄った。
「何故です? 言ったでしょう、マイクロトフは人に手出しなどしない。倒す必要が何処にあるのです?」
「この森は妙だ。魔物の生態系が滅茶苦茶になっている。ここにはテリトリーというものがない……これが『魔王』の支配によるものなら、やはり見過ごせない異常な魔力だ」
「森には森なりの秩序が出来上がっています、それは『外』の理屈でしょう」
「かもしれん。だが……さっきおまえは墓を掘っていたな。現実に、魔物に襲われて命を落とす人間はいる」
「森の魔を統べるとされていても、すべての魔物が自在になるわけではないのです。何処にでも順応出来ない存在はある。それすらマイクロトフの咎とされるおつもりか!」
終に高ぶる感情のまま声を荒げたカミューだったが、ふと、ギジムが口を開いた。
「カミュー……さっきから気になってたんだがよ、おまえ……その言葉遣いはどうしたんだ? まるで、どっかの貴族様の令息みたいだぜ」
虚を突かれて怒気が揺らぐ。ただ一人、見知った相手であることの気安さも手伝って、カミューは問われるまま答えた。
「これは……マイクロトフが……、この話し方がわたしに合っていると……」
するとカーンが静かに目を細めた。
「ええ……、そうですね。わたしもそう思いますよ……」
ゲオルグは苦虫を噛み殺したような顔で彼らの遣り取りを聞いていたが、視線を落としながら話を元に戻した。
「ぼうず、おまえはグスタフ殿らの一行に見捨てられたと思い、同じように一人だった『魔王』に同情した。違うか?」
不意に会話に引き戻されたが、カミューはすぐに否定する。
「いいえ、わたしは自分の意志で森に残ったのです。彼と一緒に居たかったから……」
「一緒に居たいだと? 確かにかつては人間だったかもしれないが、今は不老となった魔物とか?」
カミューは決め付ける男の口調に苛立った。
「あなたは知らない! 泉で溺れたわたしに伸ばされた彼の手も、怯えるわたしを抱き締めて眠ってくれた彼も、わたしのために林檎をもいできてくれた彼も……マイクロトフはわたしにとって魔物であったことなどない! たったひとりの────」
「……たった一人の支配者、か」
言いさしてゲオルグはカミューの胸倉を掴んだ。途端に身体に走った重い痛みにカミューは青ざめた顔を歪めた。
「常套手段だ……そうやって篭絡されたおまえに、奴は何をした? そうやって夜毎魔物に抱かれていたのか」
はらはらと見守っていたギジムが仰天する。
「だ、旦那……!」
束の間、言われた意味を思案して瞬いたが、カミューはすぐに頬を朱に染めた。
「……わたしにもわからない……何故、あんな……慕い合う者同士で交わされる行為であるのに……」
独言のように心情が零れる。『外』での感覚を持たぬ彼は、秘め事を暴かれた羞恥には無頓着であった。むしろ、マイクロトフを詰られたことへの憤りが勝る。
「突然あのような振る舞いに出るには理由があった筈です。わたしが……『外』に未練があると誤解させてしまったのかもしれない……」
ふん、とゲオルグは鼻先で笑った。強い眼光がカミューを射抜く。
「おめでたいぼうずだ。いいか、教えてやる。身体の欲望を解消するのに感情など必要ない」
「え……?」
「愛してなどいなくとも抱き合えるということだ」
たまらずギジムが割り込もうとしたが、それより早くゲオルグは畳み掛けた。
「魔物がおまえを育てたのは、都合の良い暇潰しの玩具だったからだ。身奇麗にさせ、好みの話術を仕込み……そうやって弄ぶには絶好の獲物だった。おまえが自分を慕う様を、さぞ面白おかしく思ったことだろう」
────玩具。
マイクロトフの唇からも洩れた同じ言葉に、カミューは呆然とした。
「……所詮、魔物と人は共存など出来ん。たとえどう思おうと、おまえは人の側の存在だ。まんまとほだされて……愚かにも程がある」
言い捨てた彼はゆらりと立ち上がった。ゲオルグの瞳に燃える決意を認めたカーンは何事か言おうと口を開きかけたが、そのまま黙して目を伏せた。
「旦那、何処へ……?」
木立の中へ進み始めるゲオルグにギジムが訊いた。振り返りもせず、剣士は剣の鞘を握り締めて答えた。
「……用足しだ。ぼうずを見張っていろ、『魔王』が気紛れに取り戻しに来るかもしれん」
悠然とした後ろ姿が闇に呑みこまれていくのを見送ってから、二人は俯く若者に案じる眼差しを向けた。
カミューはただ虚空を見詰めるばかりだった。
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ゲオルグ氏 憎まれ役も 似合うかな
本日の一句。
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