蒼き森の物語 14


それは温かな夢の終わり。
泣き濡れた頬、そして柔らかな薄茶の髪をゆっくりと撫で上げて。
すべらかな額に小さなくちづけが一つ落とされた。
力の抜け落ちた身体を解放し、繋げた我が身を取り戻す。象牙のような下肢を汚した欲望を虚ろに見遣り、マイクロトフは髪を掻き毟って息を吐いた。
出来得る限り慎重に後始末を施し、乱れた衣服を整えたが、意識なき細身の肢体は身じろぎもしなかった。
身に与えられた行為のすべてを理解出来なくとも、それが意志を問わぬ容赦ない暴力であったことだけはカミューにも伝わることだろう。
信ずるに足る優しい保護者から冷酷な暴行者へ────裏切りの記憶はカミューの未練を断ち切る筈だ。
柔軟な彼のこと、『外』にもすぐに順応するだろう。ここで過ごした六年を一刻も早く捨て去ることがカミューの未来には必要なのだ。
眠る端正な美貌を見下ろしながら、マイクロトフは幾度も唇を噛んだ。

 

幼子のあどけなさが歳と共に薄れ、たとえようもない魅惑の輝きが今のカミューを包んでいる。
その成長を間近で見守り続けた目が、いつしか庇護する対象として彼を見詰められなくなったこと、それが終わりの予兆だったのかもしれない。
真っ直ぐに向けられる琥珀を見詰め返すのが苦痛となり、温かな体温に触れることを恐れた。
カミューの抱く無上の信頼を、己の想いで汚したくない一念で。

 

 

錯覚なのかと幾度も思った。
暗い森に二人だけ、寄り添うように在ったことが強いた幻影なのかと。互いしかない孤独の中で、手に届く相手を求めただけなのではないか、情を履き違えているのではあるまいか────けれど。

 

衝動に襲われてくちづけた日から、葛藤と道連れに時を過ごした。
極力距離を取ろうと試みては、邪気無いカミューによって挫折する連続だった。無防備に踏み込んでくる素直な感情によって凍てついた心が溶け、やがてそこに業火がうねるようになっても、マイクロトフはひたすら己が感情を殺してきた。
彼にとって情感を露にせぬことは容易いことだった。それはただ、独りであった昔をなぞれば良いだけのことだったから。
カミューの曇りの無い瞳に薄い不安が漂うのを、敢えて退けた最後の一年あまり。ゆっくりと忍び寄る最後の日だけを、恐れながら待ち続けた気がする。
花開くように歳を重ねたカミューはマイクロトフの肉体の歳を超えた。
決して交わることのない二人の命、永劫に取り残される我が身の惨めさ、人ならぬものの哀しみに苛まれる日々。
いずれ避けられぬ別れであるなら、カミューを在るべき世界へ返すのが最良ではないか。
否────マイクロトフは唐突に襲った激情に拳を握り、洞の壁を殴りつけた。

 

幼い誓いを、今は疑うべくもない。
カミューは生涯、傍を離れようとはするまい。
そしてカミューの死をもって夢は終わる。
寿命にしろ、マイクロトフの宿す魔性の台頭によってにしろ、目前に突きつけられる彼の喪失に耐えることなど出来ないのだ。

 

 

 

マイクロトフはカミューの半身を抱え上げ、一度だけ強く抱き締めた。
それから両腕に抱いて立ち上がる。昔は片腕に乗せることも出来た身は、痩身ではあるが今はしっかりとした重みを持っている。
洞から出たマイクロトフは、静かに一体の魔を呼び寄せた。
請われて現れたのはイーグルマン、強い翼と鋭い爪を持った魔物である。魔物は両足でカミューを掴もうとした。
「駄目だ、そうではない……傷つけるな」
言いさすと、魔物の腕は不器用にマイクロトフからカミューを受け取った。そのまま一旦洞に戻り、ユーライアを手にした。イーグルマンの腕に抱かれたカミューの懐に差し込むように剣を乗せ、穏やかに目を細める。
最後に触れた頬には未だ涙の跡が残っていた。苦しげに寄せられた眉も、ひっそりした吐息を零す唇も、裏切りを責めるような切なさに満ちている。
イーグルマンの問い掛けの視線に応えるように、彼は静かに頷いた。
「……幸せになれ、カミュー……」
羽ばたきが胸苦しい別れの声を消した。
木立の中を遠ざかっていく魔物の腕から零れる緋色の布地が鮮やかな残像となってマイクロトフの脳裏に翻る。
彼らの姿が完全に見えなくなったとき、険しい頬に熱が走った。
────それはとうに忘れていた筈の、人として流す涙だった。

 

 

 

 

闇を飛翔するイーグルマンはヒトが大嫌いであった。
ヒトの型をした主たる『王』に干渉を禁じられているけれど、でなければ即座に侵入者を引き裂きたい願望に駆られる。
ある日突然領域を侵害してきて、仲間を狩り立てる残忍さ、種の頂点を宣言するような傲慢さ。ヒトと見れば魔性の血が沸き立つのは彼らにとって当然の理由であり、本能なのだ。
そんな魔物にとって『蒼き森』は楽園と言えた。滅多にヒトの踏み込まない聖地、ときに退屈が支配するほどの平安。
そこに突如侵入した小さなヒトの存在は、だが瞬きのうちに森に棲まう魔物たちに浸透していった。
魔物は腕に抱いたヒトを見下ろす。
ヒトと魔と、どちらかの枠に放るなら、間違いなくこれはヒトの範疇だった────憎み、殺すべき魔物の敵。
だが、これはあまりヒトらしくない。何より、あの憎々しい匂いがしない。ぐったりとした身体から薫るのは、緑の風の涼やかな匂い、そして春に零れる白い花のような甘い匂い。
これはヒトでありながら、魔物の王に心を寄せる風変わりな幼体なのだ。
普段ならば鉤爪にかけて力任せに運ぶところだが、『王』の命は絶対である。そして魔物自身も、柔らかく頼りないヒトの幼体に多少の親しみを持っていないわけではないので、頑強な腕に細心の注意を払いながら森を進んだ。
やがて、闇を映す獣の視界に仄明るい光が飛び込み、嫌悪する匂いが漂ってきた。目前に三人の侵入者を認めた魔物は、突如として身を駆け抜ける本能に支配され、『王』に与えられた任を忘れる。

────アレハ敵。

一気に魔性の血が騒いだ。

 

 

 

「装備は?」
「魔物相手ということで、ガードリングと金のエンブレムを持たされた」
「敵さんは炎を吐くってんで、おれは炎のエンブレムも持ってるぜ」
カーンは満足げに頷く。彼も魔守に関しては出来得る限りの備えを心掛けていた。
「じき夜が明ける。そうしたらあの大樹まで出掛けて行って、伝説の魔王とご対面といこうじゃないか」
不敵に笑むゲオルグの表情には気負ったものがなく、二人の仲間は男の潜り抜けてきた修羅なる人生の片鱗を垣間見た気がした。どこまでも静かな横顔には張り詰めたなめし皮の厳しさがあり、共闘だけが男と胸襟を割って接するための手段であるかのようだった。
そのときである。ゲオルグの研ぎ澄まされた感覚の隅に、過ぎる敵意が感じられたのは。
剣の鞘を握り直して勢いよく振り向いた彼は、木立の奥を睨めつける。風のざわめき、静まり返った森から向けられる凄まじい闘気がゲオルグを立ち上がらた。
「旦那……?」
怪訝な顔で男と男の視線の先を交互に見遣っていたギジムだが、次の瞬間ぎょっとして息を呑んだ。木々が揺れ、上空から飛来する巨大な翼を持った影に気づいたのだ。
「……イーグルマン!」
カーンは直ちに破魔の呪文朗唱に入ろうとしたが、ゲオルグが鋭く制止した。
「この程度の魔物に大技を使うことはない」
言いさして、すらりと大剣を抜いて構えに入ったが────

 

「だ、旦那! ありゃあ……」
ギジムが叫ぶよりも先にゲオルグは呆然とした。
魔物の腕に眠る端正な若者、少し前に目にしたばかりの印象的な紅の衣は見紛うべくもない。振り上げようとした剣先は鈍り、一同はイーグルマンの最初の突進を飛び退って避けた。
「カミュー! カミューじゃねえか……畜生、何だってんだ?!」
悲鳴のような声にカーンもぎょっとして、行き過ぎて方向転換している魔物を睨み据える。それは『魔王』のもとから奪還せねばならないものの名であった。
「くっ……」
身に宿す紋章から出せるすべての魔法を一瞬で脳裏に描き、若者を傷つけることなく魔物だけを屠れるものを模索するが、効果的な手段がない。歯噛みするカーンの横でゲオルグが不敵に笑った。
「……盾のつもりだというなら、気が効いている」
そのまま飛来するイーグルマンの攻撃を素早く交わし、目にも止まらぬ速さで魔物の背を切り裂く。けたたましい苦悶を撒きながら、魔物は腕から若者を取り落とした。かなりの高さから落下する細身の肢体に、驚愕したギジムが大地を蹴る。危ういところで滑り込んだ腕に温かな重みがかかり、同時にギジムは鈍い痛みを覚えた。
イーグルマンは手負いのまま森の奥へ逃げていく。鮮やかな一閃にカーンは息を呑んでいた。あれならば、魔物は長くはないだろう。
「旦那……ちょっとばかし強引だったんじゃ……? 奴がカミューを落とすとわかったろうに……」
息を切らせて身を起こしたギジムがぼやくと、ゲオルグはやや表情を緩めて肩を竦めた。
「だが、おまえさんが何とかすると思った。どうだ、無事か?」
「無事……、と言いてえところだが」
ギジムは唸りながら腕を擦る。
「腕、捻っちまったぜ」
カミューを受け止めたときに受け身を取り切れなかったのだ。カーンが回復の術をかけたが、状態はあまり良くなかった。
「これでは得体の知れない『魔王』とやらと対するには……ギジムさん、あなたは残った方がいい」
カーンが心から案じて言うが、ギジムは険しい顔で首を振った。
「いや、行く。絶対に行くぜ、おれは」
「……無理をするな」
ゲオルグが片膝をついて穏やかに宥める。
「もともとこれはおれに与えられた仕事だ。万一、という場合もある。誰かが森の外で待つ必要があるだろう」
この剣腕を持ってして何を、とギジムは自嘲した。『二刀要らず』の字名は伊達ではない。ゲオルグに限ってしくじりは無縁だろう。それが彼なりの詫びと思い遣りなのだと察したが、ギジムはきつく唇を噛みながら首を振った。
「……許せねえ」
視線の先にはぐったりと横たわるカミューがいる。怪訝に思いつつ顔を見合わせた二人だが、更なる呪詛の響きに眉を寄せた。
「絶対に許せねえ、『魔王』の野郎……」
「ギジム……?」
「カミューは……カミューは」
彼は握り締めた拳を座り込んだ足元の土に叩き込んだ。
「────凌辱されてる」

 

 

← BEFORE               NEXT →


ギジムに座布団一枚。

 

寛容の間に戻る / TOPへ戻る