森が鳴いていた。
カミューの叫びに応えて猛り狂っている。
こんなことは初めてだった。人であるものの声に蒼き森が応ずるなど。
冷たい泉の前に立ち尽くし、マイクロトフは蒼ざめた風に耳を澄ませていた。
魔物がざわめき、侵入者の訪れを伝える。それが単なる旅人ではないことは明らかで、屠られた魔物の怨嗟が周囲を木霊していた。
ゆっくりと目を閉じて、腰に携えた愛剣の鞘を握る。
終にやってきたのだろうか────かつては待ち侘び、今は恐れるようになった終末のときが。
彼は自らの右手を翳して息を吐いた。
魔を宿して幾年月、解放は自らの終焉の日と諦めもしてきた。
感情など、とうに投げ捨てた筈だった。
あの日、ここで一人の少年と出会うまでは。
カミュー。
利発な眼差しと意志の強さを湛えた唇。
幼さの中に眩暈するほどの輝きを放っていた生贄の少年。
小さな手、細い首、震える頬。
懐に抱いて眠った最初の夜、怯えを残したまま、それでも満ち足りた寝息を零したカミュー。
子供の体温を間近に感じ、覚えたのは切なさだった。
炎の魔を宿しながら凍れる肌と変質した己が、あるいは子供を害しはせぬかと案じつつ、抱き寄せずにはいられなかったのは人恋しさではなかったか。
そして今────
あの夜よりもはるかに強く、己を支配する意識。
時を経て、いとけないばかりの少年が咲き誇る華と化す様を、彼は見てきた。見守り続けてきた。
そこにある想いが失った筈の熱を帯び、終には胸苦しい、血を吐くような痛みを伴うようになっても、決して踏み出すことは許されぬ道であることはわかっていたのに。
マイクロトフは暗い瞳を泉に投げ、住処に戻るべく踵を返した。
洞の中、寝床に身を投げたカミューはおさまらぬ息を殺そうと苦慮していた。制しようにもままならぬ感情の揺らぎは凄まじく、カミューを打ちのめし、引き裂いた。
十の歳、隊商でもっとも価値なきものと烙印を押されて、送り出された。それは仕方ないことだと諦めていたし、とうに忘れ去られただろうと思えばこそ、過去を振り返らずにいられたのだ。
覚えていてくれたことを嬉しく思うのが本当なのだろう。
だが、到底容易く割り切れない痛みがある。
まして────
カミューは半身を起こして我が身を抱き締めて微かに震えた。
ギジムは何と言った?
助けにきた────人喰いの化け物を……
人喰い。
それは────
カミューは腰から抜いたユーライアを鞘ごとしっかと胸に抱え、戦慄く身体を鎮めようと足掻く。
ギジムの背後に垣間見えた存在。未だ剣士として未熟ではあるが、カミューの目にも男の力量は察せられた。携えた剣で人生を開いてきたものだけが持つ独特の闘気は、一瞥しただけで十分にカミューを脅かした。
「……どうした」
不意に洞の入り口に声が響く。見慣れた大柄な体躯に目を向けた途端、胸に切ない安堵が込み上げてくる。
今では然程背丈も変わらない。ただ骨格的な相違なのか、肉体的な年齢で上回ってもカミューには細身のたおやかさがあり、男には屈強の雄々しさがあった。
日頃知るマイクロトフの剣腕は凄まじい。だが、森で見た男は更に完成された肉体を持ち、二人の与り知らぬ『外』の知識を持ち得る相手なのだ。
「人が」
カミューは喘ぎながら搾り出した。
「ギジムが……昔の隊商に居た男が来たんだ」
振り仰いだマイクロトフの目が微かに色を増す。
「ずっと忘れたことはなかったと……今頃になって何故……」
「……そうか」
ふとマイクロトフは静かに頷いた。
「良かったではないか、これでおまえには戻る場所が出来た」
口調があまりに突き放したものだったので、カミューは驚いて瞬いた。見遣る男の貌には何ら感情は浮かんでいない。もともと表情の変化に乏しい男だが、共に暮らした六年間で僅かな機微を読めるようになっていたカミューである。だが、そんな彼にもまったく窺い知れぬほどマイクロトフの目は冷たかった。
「マイクロトフ……何を……?」
「捨てたものを拾いに来るとは……結構な御人好しではないか。丁度いい、面倒は御免だ。そいつと一緒に出て行くがいい」
突然の言葉にカミューは束の間反応出来なかった。ただ呆然と見詰める瞳に、マイクロトフは更に言い募る。
「聞こえなかったか? 森を出ろと言ったのだ」
「何を言っているんだ……?」
やっとのことで吐き出した声は舌先で乾いて貼り付くようだ。
「わたしは……ずっとここにいると……」
「────そうだな」
マイクロトフは薄い笑みを浮かべて頷いた。
「おまえは充分に暇潰しの役に立った。感謝しているぞ、カミュー」
「暇潰し……?」
未だ見たことのない酷薄な表情にカミューは微かな不安を覚え始めた。
「有り余る時間……退屈を紛らわすには、おまえは実に新鮮な玩具だった。面白いほどに懐いて纏わりついて……知性なき魔物ではこうはいかない」
くす、と逞しい肩が震える。陰湿な笑いを押し殺しているのだと気付くなり、カミューは凍りつくような寒さを覚えた。肌にではなく、胸のうちに流れる冷気────
「だが、もう飽いた。潮時だ、おまえは『外』へ帰るがいい」
「信じない」
カミューは凛然と言い放つ。
「わたしが望む限り、変わらず共に在ると言った……どうして突然そんなことを言うんだ? たとえ『外』に迎えてくれる者があろうと、わたしの在るべき場所はマイクロトフの傍だ。昔も、今も……これからも」
刹那、マイクロトフの漆黒の瞳が燃え上がった。大股で歩み寄るなり寝床に片膝を折り、カミューの顎を掴み締める。
「傍に居てどうなる? 一人では生き抜けない子供だったから面倒を見てやることも吝かではなかった。だが、今は違う。おまえは『外』の干渉を引き寄せた。もはやおれにとっては疫病神でしかない」
傷ついて揺れる琥珀の瞳。それでもカミューは頑なに首を振った。
「退ける」
「何?」
「マイクロトフには指一本触れさせはしない。説いて必ず理解って貰う……だから」
だから、そんなことを言わないでくれ。
あの優しかった日々を戯れなどと言わないで。
ずっと一緒にいると誓った────幼く純粋だった約束を、価値ないものと振り払わないでくれ。
「……『外』で平穏に人生をまっとうしろ」
呟いて、捉えていた顎を離して立ち上がる男にカミューは必死に叫んだ。
「わたしは残る、何があっても離れたりしない!」
伸びた影が揺らめいた。ゆっくりと向き直る眼差しが鋭くカミューを射抜く。引き攣れた笑みが口元に浮かび、男は低く言った。
「昔から……つくづく同情癖が強いと見える。だがな、カミュー。おれはもう……子供と遊ぶのは飽きたんだ」
「子供ではない!」
そうか、と呟いたマイクロトフは屈み込んで彼の首筋を掴んだ。これまでの男からは信じられない手荒な所作だった。
「ならば……大人として遊んでやろう」
唐突に与えられたくちづけは、常の温かなものとはどこかが違った。
その行為に何の意味があるのか常に不思議に思っていたカミューだ。家族の情愛、恋人の情愛、親愛など、様々な想いを伝える手段なのだと知識としては知っている。
けれどマイクロトフと交わすそれに当てはまる想いが何であるのか、ずっとカミューには分からなかった。ただ、甘く切ない情感を震わせるばかりの不可思議な儀式であったのだ────これまでは。
喉元へ這い下りた唇がきつく肌を吸い上げる。全身を弄られながら柔らかな草の寝床に押し倒されたとき、カミューにも朧げながらマイクロトフの意図が見えてきた。
呆然とするばかりの事態だった。何故なら、その行為は愛し合う男女が交わすものである筈だったからである。
「マイクロトフ……な、何を……」
怯えながら呼び掛けた唇は再度塞がれ、荒々しく貪られた。息苦しさに顔を背けると、髪を掴んで引き戻される。そうする間に上着が開かれ、胸元が外気に触れて粟立った。
「嫌だ!」
本能的な拒絶が起きた。何が起きるのかはっきりは分からずとも、切羽詰った危機感は確かなものだった。困惑と焦燥に忙しなく上下する胸を撫でる掌には普段のような慈しみの気配はなく、首筋を噛む歯の感触は強張りを呼び寄せた。
「……おれが怖いか」
言いながら見下ろしたマイクロトフの瞳。凍えるばかりの夜の色にこそ、カミューは戦いた。
突然の行為が魔物の為せるものならば、彼が悪しき支配を打破するのを信じて待てばよかった。
だが、彼はマイクロトフだ。瞳の色がそれを教える、カミューが信じ続けていた男なのだ。声もなく唇を震わせる供物を観察し続ける冷酷な眼差し。その静けさにこそカミューは戦いた。
膠着は一瞬だった。次の瞬間、荒れ狂う侵略が開始された。
足掻くカミューを力任せに押さえ込み、マイクロトフは強引に下衣を引き剥ぎ始めた。半ば反射のように抗うカミューだが、力では到底マイクロトフの相手ではない。魔を棲まわせる頑強な肉体が容赦なく覆い被さり、カミューを捩じ伏せていく。
「嫌だ、マイクロトフ!」
両手首を片手で頭上に戒められ、下肢を割って忍び込む快楽の焔に仰け反る。他者から施される未知なる刺激は、無防備な身体に絶え間ない荒波を掻き立てた。
「あ……、ああ……」
奪われるばかりの呼気に開かれたままの桜色の唇を割って男の指が押し込まれる。息苦しさに生理的な涙が滲む頃、引き抜かれた指が下肢を探った。
「っ……────」
押し込まれた異物にカミューは全身を竦ませた。爪先が草に被せた敷布に食い込み、マイクロトフの肩に掛かった指は青い上着を握り締めて甲に筋を浮かべる。
自分の身体がどうなっているのかも理解出来ず、カミューはただ与えられる痛みから逃れようと弱い抵抗を繰り返した。
ふと、圧迫が失われて安堵の息を吐いたが、次には更に凄まじい力がカミューを抉じ開けた。
今度は悲鳴すら上げられず、見開いた瞳から涙が溢れ出た。
生きながら下肢を裂かれるような激痛も耐え難かったが、同時にカミューを引き裂いたのはマイクロトフの豹変でもあった。
獣のように圧し掛かり、言葉ひとつ洩らさずに冷酷に行為を続ける男。常に無骨な優しさでカミューを慈しんできた面影の片鱗さえ見せず、苦痛と悲しみだけを肌に塗り付けるマイクロトフ。
何故と問うことさえ許されず、身のうちを突き上げられ、ずり上がる肩を掴んで引き戻され────
カミューは泣いた。
肉体の痛みを凌駕する心の痛みが涙となって溢れ続けた。
「……カミュー」
やがて霞んでいく意識の片隅に、初めて低く呼び掛ける声を聞く。
「────……ている……」
だがそれは、言葉として理解される前に闇に溶けた。
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