蒼き森の物語 11


木枝を掻き分けたとき、それを見つけた。
カミューは溜め息をついて目を細め、ゆっくりと歩み寄った。倒れた男の背中を爪跡が抉り、すでに乾いた血がどす黒く衣を汚している。アサシンの仕業に間違いなかった。
伝説が消えたわけでもなかろうに、数こそ多くはないが、不思議と森に踏み込む人間は後を絶たない。そのたびに彼らは魔物の餌食となって冷たい骸を曝すことになる。それほどまでに彼らを急がせる理由は何だったのかと、カミューはいつも哀しい思いで遺体を埋葬するのだった。
彼の後をついてきた小さな生き物がいた。ふわふわとした毛並み、可憐な姿をしたむささびだが、これでも一端の魔物である。
どうも体毛とカミューの髪の色が似ているあたりが原因か、むささびたちは昔からよくカミューの前に現れた。さして害のない相手とマイクロトフは放置を決め込んだが、空中から飛来して体当たりを仕掛ける攻撃に、幼いカミューは幾度も泣きながら逃げ回ったものだ。
そのうちに攻撃をかわすコツを会得して、すれ違い様にぽかりと殴ったり出来るようになった所為か、むささびはカミューを対等と認めたように悪さをしなくなった。もっとも、歩いているときに足元に絡みつかれて転び掛けるのも充分な悪さだったけれども。
「あ、こら……駄目だよ、悪戯を……」
その日も構って貰いたげについていたむささびが、死んだ男の荷を漁り始めている。其処から出てくる品々は、カミューにとっても貴重な物資となるのだ。慌てて荷を取り上げるとむささびを押し退けた。
「不用意に荒らしたらいけないよ、必要以外のものは一緒に埋めてあげるんだから……」
諌める言葉が分かろう筈のない魔物に語り掛け、カミューは慎重に荷を検め始めた。

 

身元が判別出来るようなものがあればいい。
それを墓の分かり易い場所に置けば────

 

そこでカミューは視線を落とした。
いつもそうしてきた。家族や友人が一見して墓地の主が誰であるかが分かるように。だが、それに何の意味があるだろう。ここで命を落とした人間を、迎えにくるものなどいないというのに。

 

 

思慮深い瞳、白皙の頬。
すんなりと伸びた手足に緋色の布が揺れる。
今年、カミューはマイクロトフの歳を越えた。たったひとつではあるけれど、彼の肉体の年齢を上回ったのである。
それは当初喜ばしいことに思えた。子供扱いばかりしてきた男より年上になったことで、自分がひどく成長した気がしたからだ。
だが、カミューには見え始めていた。
マイクロトフの時間は止まり、自分の時間は流れている。それが緩やかな離別の始まりに他ならないことが。
いずれ年の差は広がるばかりとなり、人である自分は老いて死ぬ。マイクロトフひとりを置き去りに、森の土となる日が来る。
それを知っているからマイクロトフは距離を取り始めたのかもしれない。成長し、今では殆ど変わらなくなった目線の高さを見詰めるごとに、魔性たる己との差異を痛感して目を逸らすようになったのかもしれなかった。
「……魔道書でも持っていてくれれば良かったんだけれどね……」
過ぎた望みを口にしながら、カミューは掘り終えた穴にそっと男を転がした。目指す先に子供でも待っていたのか、旅人の荷には寓話の本が幾つか入っていた。痛ましさと同時に失意も覚える。
マイクロトフに棲みついた魔物のことを調べられるような、そんな書物が欲しい。何とかして彼の体内から魔物を取り除くことは出来まいか。それがここ一年ばかりのカミューの葛藤だった。
考え込んだカミューだったが、気付けば再び傍らのむささびが悪戯をしている。
「駄目だと言っただろう、怒るよ? これは一緒に埋めてあげるのだから……」
頁を破って遊んでいるむささびを窘めながら書物を取り上げた。奪った書物を見て、口元が綻む。それは覚えのある童話だった。何年も前、眠れぬ彼にマイクロトフが語って聞かせてくれたお伽噺。
題だけで内容を思い出した彼は、懐かしさに座り込んでパラパラと頁を捲ってみた。むささびが強引に膝に上がってきて、一緒になって書面に見入る。
「何だ、おまえも読みたいのかい……?」
笑いながら揶揄したカミューだったが、ふと言葉が途切れた。
声を奪ったのは一枚の挿絵だ。呪われて眠りに囚われた姫君に、魔物を倒した若者がくちづけている。愛と勇気の力によって、姫君は呪いから解き放たれて目覚めるのだ。
カミューは己の唇に触れてみた。

 

────愛。

 

古より伝えられるどの物語でも、勇者は魔物を倒した。
命を賭して戦った者は、忌まわしき呪いを砕いて愛を手に入れた。
光は常に闇に打ち勝ち、至福の中で物語は終わる。
けれど────

 

 

「……現実はそう上手くいかない、か……」
自嘲して小さく呟いた彼を、膝に抱かれたむささびが不思議そうに見上げる。
「キスならば幾度もした」
祈りを込めて、願いを叫びながら。
「マイクロトフは姫君じゃないし」
言ってみて、少しだけ可笑しくなって笑う。
「わたしも物語に出てくるような勇者じゃない……」
挿絵に触発されたのか、膝の上から口を寄せてくるむささびに苦笑して、抱き下ろして横へ座らせた。
勇者と呼ぶにずっと相応しい男は、だが逆に魔に棲みつかれてしまった。魔物から解き放つには、以前彼が山狗にしたように、彼を打ち倒さねばならないのだろう。それは即ちマイクロトフの死を意味する。到底耐え難い結末だ。
だが、このままでは先に寿命が尽きるのは確実にカミューなのだ。人の生を終え、森の土と還っても、マイクロトフは残される。ただ独り、再び孤独の中に置き去りにされるのだ。なまじ感情を露にしないだけに、マイクロトフがどのようにときを過ごしていくのか想像はついた。

 

 

どうすればいいのだろう。
彼を救う道はないのだろうか。

 

 

悲嘆に喘いだカミューが両手で顔を覆ったときだった。
おとなしく横に座っていたむささびが、けたたましい鳴き声をあげて森の奥へ逃げ飛んでいった。はっとして振り返った瞳に、少し離れた木立の中に立ち尽くす男が映る。息を呑んで立ち上がるが、相手も殆ど同時に彼に気付いた。
それは森に棲んで初めて出会う『生きた人間』だった。だが、何よりカミューを竦ませたのは、相手に朧げな覚えがあることだった。
「カミュー……カミュー、なのか……?」
しばしの対峙の後、男が掠れた声で呼び掛けた。
「驚いた……生きていたのか……俺だ、覚えてないか? ギジムだよ」
忘れよう筈もない。森へ向かったカミューを最後まで見送った男。札をくれ、顔を歪めながら拳を震わせていたギジム。懐かしいという感慨どころか、思考が止まり、声も出ない。
「お頭が知ったら、どんなに喜ぶか……よかった、無事でよかった。ほら、こっちへ来な」
男は感極まったようにぐいと目元を拭ったが、それでも何の反応も出来なかった。相手が枝を払いながら近寄るのに、震える足が一歩後退する。カミューを怯えさせていることに気付いたのか、ギジムは歩調を緩めてやがて立ち止まった。距離を置いたところで宥めるように言い募る。
「ああ……すまねえ、俺たちを恨んでいるだろうな……。だがよ、おめえのことを忘れたことはなかった。本当だぜ?」
口調に嘘はなかった。昔から粗野な振る舞いの多い男だったが、人を偽るということがないのがギジムという男であった。
「まさか生きていてくれるとは思わなかったが……、せめておめえの供養に、ってお頭がな……」
そこでカミューはギジムの背後に別の人影を見つけた。大振りの剣、険しい顔立ち。一気に血が冷えるようだった。
「もう心配はいらねえ、助けてやるからな。ほら、名高い剣士の旦那が一緒なんだ、俺たちゃ忌まわしい人喰いの化け物を退治しにきたのよ」

 

 

 

刹那、カミューは声無き悲鳴を上げた。

 

 

血しぶくような心の声に、森は応えた。
何処からともなく現れた魔物の群れが、一斉にギジムらに襲い掛かる。それを見届けもせずに踵を返し、カミューは力の限りに地を蹴った。
「カミュー?! カミュー……おい、待て! どうしたんだ?! 待てったら……おい!!!」
驚愕の叫びが追い掛けてきたが、振り返らなかった。
木々が立てるざわめきと、獰猛な餓えた魔物の唸り声。真紅の衣を翻し、突き刺さるような呼び声を耳を塞いで退けながら、カミューは優しい森の腕に向けて全速力で逃げ込んでいった。

 

何故。
どうして、今になって────

 

悲痛な想いに濡れた瞳は殆ど視界を為さなかった。目に映るのは、ただ慕わしいばかりの黒い瞳だけだった。

 

 

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やっと年上になりましたな(身体)……くくく。

作中、赤と遊んでいるのはムクムクです。
名前を表記すると途端に力が抜けるので、
あえて記載せず。

 

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