西方グラスランド────
点在する幾つかの村々の中でも最もデュナン地方寄りに位置するその村には一際大きな屋敷が在った。商いで成功した成金と、普通なら眉を顰めるものもあろうが、家主は不思議とそうした非難とは無縁で、むしろ気風の良さや飾り気のない気質を好まれていた。
男の名はグスタフ、かつては自ら隊商を率いて方々を練り歩いたものだが、財を築いた今は配下の連中に商売を任せて屋敷に落ち着く日々を過ごしている。そんな男が朗報を得たのは胸に蟠る運命の日からおよそ六年弱が経とうとする日のことだった。
「お頭、大変ですぜ! 今度の御人はすげえ」
言いながら飛び込んできたのはギジムである。グスタフの右腕として、今は商売の殆どを委ねられて諸国を回っている男だ。
「何だ、騒々しいな」
愛娘の描いた絵をうっとりと眺め遣っていたグスタフは、ギジムの背後から部屋に入ってきた男を見るなりごくりと喉を鳴らした。
「ティント領で魔物に襲われたときに助太刀してくれたんだが……えらい強さだ、たいした剣士ですぜ、この御人は!!」
ゆったりとした歩みを止めた男は胡散臭そうに室内を眺め回してからグスタフを凝視した。鋭く光る瞳、無防備に曝されていながら欠片ほどの隙もない五体。厳つい顔立ちはしているが、何処か温厚なものも感じさせる。それは男が剣腕だけでなく、深い度量と経験に守られていることを示唆するようだった。
「おいでいただいて感謝する。俺の名はグスタフ」
「────ゲオルグ・プライムだ」
短い応えに仰天するグスタフを楽しそうに見遣ったギジムが胸を張った。
「どうだい、大物だろう?」
「ああ。どえらいことだ」
ゲオルグ・プライム。
それはこの地方に生きるものなら大抵耳にしたことのある名である。『二刀要らず』の異名、剣士の中の剣士。殆ど伝説に等しい男を目の当たりにしてグスタフは震え上がる愉悦を覚えた。
「待っていた……あんたみたいな剣士を待っていたんだ」
彼は机から跳ね飛ぶように立ち上がった。
「ギジム! てめえ、礼は取ったんだろうな。無理矢理引っ張ってきたんじゃあるまいな?」
「え、ええと……」
「酒はたっぷり振舞われた、村の女も美しかった。何より、剣腕を必要とされている……滞在の理由は十分だ」
不敵に笑う男に、グスタフは感極まって目を伏せた。
「……金は幾らでも払う用意がある」
「金などは────」
不満そうに遮ったゲオルグを更に押し止めて彼は搾り出すように言った。
「倒して欲しい魔物がいる。そのためだったら何でも差し出す。あの子の弔いに……忌まわしき呪われた化け物を殺してくれ」
酒の席が設けられた。素面ではとても語れなかったのだろう、立て続けにぐいぐいと杯を煽ったグスタフは、ぽつりぽつりと切り出した。
「ここよりずっと北東……デュナンの地にある『蒼き森』を知っているか?」
ゲオルグは少し考えて頷いた。
「旅暮らしが長くてな……この地方に戻ったのは何年ぶりか覚えていないが、少しだけ耳にしたことがある。何でも、多くの魔が棲まうとか」
そうだ、と溜め息を吐いて続ける。
「交易路の一つなんだが……切り立った崖の間に挟まれた森で、細い脇道だけが往来を可能にしている。だが、そこを通るものはない。無謀にも足を踏み入れれば、たちまち森の魔物たちに襲われ命を落とすからだ」
「それは何処の森でも同じだろう。昨今、魔物は何処にでも現れる」
「『蒼き森』は特別なんだ。魔物の王がいる」
「王……?」
「噂じゃ人の形をしているらしく、青い服を着た奴で……そいつは森中の魔物を従えて自由に動かすことが出来るという」
深々と考え込んだゲオルグを見ようともせず、グスタフは再度酒を流し込んだ。
「人を喰うんだ」
「何……?」
初めて剣士の表情に不快が走る。
「そんな魔物を野放しにしているのか?」
「忘れられた森でもあるからな……周囲に近寄りさえしなければ、さして問題はない。先を急ぐ馬鹿な人間だけが……命を落とすだけなのだから」
ふむ、と腕を組んだ男にようやくグスタフの視線が向く。
「だが……どうしても脇道を通らねばならないものもいる。そうしたとき、言い伝えられる手段がひとつだけある。魔王に生贄を差し出せば……残りの人間は手出しされずに脇道を進むことが可能となる」
ゲオルグは、唾棄するように言い捨てた。
「愚かなことを」
「────そうだ。馬鹿げている。人の命を犠牲にしてまで急ぐ必要が何処にある? だが……そうやって森を通り抜けた馬鹿がここにいる」
杯を卓に叩きつける男を呆然と見詰め、剣士は絶句した。
「俺は急いでいた……かつてないでかい商いだった。多くの競争相手に抜け駆けて、何としてもマチルダに辿り着かねばならなかった。他の隊商が迂回路を進んだのを知り……最も最短である道を選んだ。商いは成功し、俺は多くの財を得た。その後、恐ろしいほど順調に運が拓けて……押しも押されぬ大商人の名を手にした。だが……俺には忘れることが出来ない。そのために魔王に捧げた一人の子供を……」
「貴様は……!!!」
ゲオルグは激昂して椅子を倒して立ち上がった。
「子供を……子供をだと? 人喰いの魔物に与えたというのか!」
今にも剣を抜きそうな勢いに仰天したギジムが慌てて間に割り込んだ。
「旦那、聞いてくれ! お頭はずっと後悔してた。あのとき、みんなで仕方のないことだと諦めた。だが、後悔してたからこそ、こうやって俺が旅の合い間に剣士を探し続けていたんだ」
柄に掛かる手が葛藤していた。ゲオルグは屋敷の玄関で己を迎えた幼い少女を思う。彼女にとってグスタフは掛け替えのない父親なのだ。
「仲間の中で……ただ一人身寄りのない子供だった」
「……そんなことは言い訳にならん」
「あの子は黙って受け入れてくれた」
「……頑是無い子供に何が分かる」
「頭の良い子だった……俺たちのために……笑いながら森へ消えていった」
「どう言い繕おうと、おまえたちは子供を殺した! ちっぽけな財のため、己の野心のために小さな命を犠牲にしたことに変わりはない」
断罪した厳しい声にグスタフは杯を握り潰した。欠けた硝子が食い込んだ掌から鮮血が滴り落ちる。
「……その通りだ。マチルダでの商いを終えて、村に戻ってみたら……娘が生まれていた。愛しい、目の中に入れても痛くないほど可愛い娘だ。小さな赤ん坊が日に日に育って……腕に掛かる重みが増すほど、俺は打ちのめされた。あの子も生きていた。賢くて素直で……たいそう綺麗な子だった。そんな子供を魔物に喰わせた俺は、生涯拭えぬ罪を背負っている」
「……………………」
「死んで詫びてやることも出来ない。だから……俺は剣士を探した。何年も何年も……誰よりも強く、確実な腕を持つ剣士を。何の償いにもならんだろうが……せめてあの子を喰った魔物を倒し、森に捕らわれた魂を解放してやりたいと。そのためなら、今ある財のすべてを手放しても構わない。俺には他に何もしてやることが出来ないのだから」
嗚咽を洩らした男の姿。心底から後悔しても取り戻せない過去は確かにある。ゲオルグはゆっくりと息を吐き出し、荒ぶる心をおさめた。
「……案内が要る」
低い声にグスタフははっと顔を上げた。
「受けてくれるのか?」
「勘違いするな。あんたたちの良心とやらのためではないからな」
立ち上がった男の視線は窓の遠く、北東を指していた。
「暗く寂しい森で幼い命を散らした哀れな子供の魂のためだ。子供の名は?」
「────カミュー」
「カミュー……」
ゲオルグ・プライムは舌先に転がすように繰り返した。眼差しには決意が満ちていた。
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年齢だけじゃなく重量級な気も……(笑)
あと一人は後から合流。
予想通りのあの人です(苦笑)
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