騎士団にて西南第五地区と称される区域に足を踏み入れると同時に上官から洩れたのは小さな呟きだった。
「人がいないな……」
通りがやけに薄暗いのは、施された街灯の幾つかが破損しているからだろう。未だ夜半と呼ぶには早い刻限であるというのに、道行く影はない。進む騎士たちの足音だけが冷たく石造りの建物に反射するばかりだ。
マイクロトフはメルヴィルが口にした諸々を反芻しているようだった。夜間における騎士の巡回が、街にどれほどの重きを為しているかを噛み締めているようでもあった。
「ここより東、二本先の大通りの向こうは赤騎士団の管轄地域です。比べてみると面白いかもしれませんな」
静かに言うと、青騎士団長は厳しく眉を寄せたまま睨み付けてきた。
「この辺りはもともと飲食店が多い地区です。活気があって当たり前───の筈が、今はこうまで寂れている。夜間、近隣の住民は往来に出ようとはしない。何故だか、お分かりになりますか?」
「……酔漢か」
呻くようないらえにメルヴィルは頷いた。
「家族の団欒に食事に出掛け、結果、酔いどれに殴られてはたまらぬでしょうからな。自然、夜の間は外出を控えるようになったというところでしょう」
視線を戻せば、通りに面した家々の窓は固く閉ざされている。中には割れた窓を内側から板切れで修繕している家もあった。改めて不快げに顔を歪め、マイクロトフは首を振った。
「住人は陳情をしていないのだろうか」
「さあ、どうでしょう。巡回を求める陳情を出したところで、当の管轄部隊が怠慢を改めぬ限り、意味がない。民は存外、『無駄』という感触に敏感なものですからな」
「何ということだ……知らなかった。このロックアックスで、こんな事態が起きていようとは……」
憤慨して吐き捨てるなり、今度は不可解に唸るマイクロトフだ。
「おまえは? 何故、青騎士団の管轄でもない地区の事情にそうも詳しい?」
もっともな疑問だ、そう内心で同意しながらメルヴィルは微笑む。
「団長の御父上は騎士でおられましたな」
最終位階は青騎士団・第四部隊長、息子に大剣ダンスニーを残して戦没した勇士の話は、かつて同じ部隊に所属したときにマイクロトフ自身から聞いていた。唐突な切り返しに戸惑いがちに頷く上官の瞳には、今は亡き父への尊崇と懐かしさが浮かんでいる。
「順当、且つ血統の良いあなたとは違って、わたしは野良犬ですからな。ゴミを嗅ぎ付けるのは得意なのです」
束の間、マイクロトフは何とも言えぬ複雑な表情を見せた。どう応じようか悩んでいたらしい男は、やがて小さく返してきた。
「それは……おれがものを知らないという意味か?」
「とんでもない」
即座に否定し、そんな結論に行き着いた上官を可笑しく思う。
「汚れた世界を知らずに済むなら、それに越したことはないでしょう。美しいもの、正しいものだけを見詰める生き方が似合う人間も確かにいる。けれど生憎、わたしにはそうした生き方は出来ない。人には相応の役割というものがあり、わたしはそれに従っているだけです」
「だが、知らぬことが罪となるときもあるだろう。現に、こうして街人が不自由しているというのに」
ただ城に座して安穏とするために位階を極めた訳ではない───そんな抗議を滲ませたような口調であった。
「おれは綺麗な世界だけを見たいとは思わない。マチルダの民のため、出来る限りを尽くしたいと思うし、そうする覚悟もある」
ええ、と苦笑混じりに首肯する。
「では団長。気高き志を果たされるためにも、取り敢えずはお気を付けなさい」
街路が交差する前方を見据えて囁くと、マイクロトフの四肢が緊張するのが分かった。反射的に動いた利き手が、しかし愛剣を置いてきたのを思い出したかのように宙をさ迷う。程無くして、地に伸びた影を追うように数人の男が視界に現れた。
いずれもしたたかに酔った風体だ。宵の口から足下が覚束ないあたり、礼節で知られるロックアックスの住人とも思えない。大声で喚き立てている発音からは東方の訛りが聞き取れた。
泥酔した一行が、ちらとこちらに目を向けてくる。数に頼んで難癖をつけてくる様子が窺えたが、ついとマイクロトフの前に進み出たメルヴィルと目が合った途端、勢いは失せた。
数言の捨て台詞を残して男たちが去った後、マイクロトフは顔をしかめて嘆息した。
「あんな連中が闊歩していては民が不安がるのも道理だ。呂律が回っていないから、何を怒鳴っていたのかも分からん」
「要約すれば、『何を見ている』『痛い目に遇いたいか』といったところです。酔漢の絡み台詞は型通りですな、面白味がない」
「街の人間ではないようだった」
「大方、流れ者でしょう。ああした者たちの間における噂は早い。無法者に居着かれてからでは掃除も大仕事になりますからな、巡回部隊の体質改善が間に合えば良いのですが」
暗い面持ちで頷いたマイクロトフを見遣り、メルヴィルは口調を変えた。
「さて、それはさて置き……当初の目的に戻りましょう。その店です、団長」
屋号と店構えを確認し、更に上官の気鬱は高まったようだ。赤騎士らが零していた通り、店は如何にも場末の安酒場といった様相である。
「ここにカミューが通っていると……?」
マイクロトフのことだ。決して蔑視めいた意識を抱いているのではないだろう。ただ、あの優美なる赤騎士団長と結び付けるにはあまりにも困難を要する店なのだ。薄汚れた壁、ろくに磨かれていない窓。それはメルヴィルの目から見ても、周囲の店にも増して荒んだ印象の酒場だった。
「軒先で考えているより、入ってみたら如何です」
「あ、ああ。そうだな……」
未だ困惑を消せず、けれど意を決したように深呼吸するマイクロトフの背に急いで言い添える。
「そうそう、失念しておりました。つまらぬ騒ぎにならぬよう、身元は隠しておく方が無難ですな。こう言っては何だが、カミュー団長が御身分を明かして通われる店とは思えません」
マイクロトフは瞬いて、まじまじと凝視してきた。
「騒ぎになるのか? おれが青騎士団長と知れると?」
「少なくとも、白騎士団の縄張りに踏み込んだと知れ渡るのは避けたいところです。もっとも、あなたは顔を知られている可能性がある。わたしが適当に誤魔化しますから、団長は無口で陰気な男で通してください」
「陰気……」
呆然といった調子で繰り返す男の横を抜け、メルヴィルは店の扉を押した。
酔漢で溢れているかと思われた店内は、外からの一望よりも遥かに広々としていたが、思惑を外して閑散を極めている。勘定台の向こう、胡乱に顔を上げた店主と思しき男が無感動に見詰めてきた。
「何だね、あんたら」
客商売とも思えぬ横柄な物言いに目を丸くするマイクロトフを促しながら、メルヴィルは奥のテーブルを目指した。
「店は開けてないんだよ、帰ってくれ」
言い募った店主を一瞥して、ぞんざいに肩を竦める。
「そんな表示は見なかったな。不親切じゃないか」
「そ、そうは言われても、だな……」
そこで店主は目を見張った。視線は真っ直ぐにマイクロトフに当てられている。
「ま、まさか。あなた様は……?」
早くも見顕されたらしい。
騎士団長就任から一年にも満たない。住民に広く顔を見せる式典を経た訳でもないが、このロックアックスでマイクロトフという男はある種の有名人なのである。
無骨ながら情愛深く、一団の頂点に立つ以前から民に愛されていた青騎士。つとめの中で、ふとした日常で、彼はどうあっても目立つ存在だった。それは華やかなる親友同様、選ばれた者が持つ宿命であるのかもしれない。
諜報には使えぬ人だ、そんな可笑しさを噛み殺しながらメルヴィルは飄々と切り出した。
「そんなに似ているか?
この街に着いてから早くも三度目だぞ、何とかって騎士と間違われたのは」
マイクロトフは暫し呆気に取られていたが、先程の打ち合わせを思い出したのだろう、むっつりと頷いてみせた。
「似ているも何も……生き写しだ。御本人かとばかり思ったよ」
惜しそうに店主は首を振った。よほど衝撃が勝ったのか、追い出そうとしていたのも忘れたように続けている。
「もっとも、わしがお顔を拝見したのは騎士隊長でおられた頃のマイクロトフ様だが。そうだな、そんな筈はないな」
するとカミューも、やはり身上を伏せているのか。あれだけの容貌だ、店主当人が知らずとも、出入りの誰かが訝しまぬ訳がない。
あるいはカミュー自らが今のように先んじて出自の詮索を断ち切ったか、はたまた身分を明かした上で沈黙を強いたのか。何れにしても、一筋縄では行かなそうである。
一方マイクロトフも、相変わらず釈然としない心地が続いているらしい。店主に配慮してか、そうあからさまではないが好奇と困惑の瞳で店内を窺っている。十ばかりあるテーブルのうちにカミューの姿があったなら、さぞ面白いことになっていただろうとメルヴィルは思った。
「それにしても、騎士団のお偉いさんにそんなに似ているのか。良いことを聞いたな、金儲けの好機かもしれない」
何気なさを装って空いた椅子に上着を脱ぎ捨て、腰を落ち着けてから水を向けると、期待通り店主は小首を傾げて乗り出してきた。
「どういう意味だね?」
だから、とメルヴィルは向かいの椅子を引いている上官を親指で指しながら笑んだ。
こんな無作法も、身上を隠した今ならである。この際だから後輩騎士として顎で使っていた頃に倣わせて貰うつもりだった。肝心なマイクロトフは、しかしそれを不敬とは認識していないようで、ちらと窺った視線の先で店主にも負けず劣らずぽかんとしている。
「……よくあるだろう? お偉いさんが自分と瓜二つの者を側に置いて、危ないときの身代わりなんかに使う、ってアレだ。騎士団で雇って貰えば、良い金になりそうじゃないか」
すると店主は豪快に笑い出した。あまりにも愉快そうで、マイクロトフは無論、メルヴィルまでもが言葉を失うほどだった。
「そいつは無理だよ。あんたら、ロックアックスに着いたばかりみたいなことを言ってたが……本当に何も知らないんだな」
ひとしきり笑った後で、店主は胸を反らせた。
「青騎士団長マイクロトフ様ってのはな、マチルダ騎士の中でも飛びっきりの武勇で知られる立派な方だ。あの御人に怖いものなどありゃせんよ。身代わりを使って危険を逃れようなんざ、考えたりなさらんさ」
面と向かって絶賛されては堪らなかったようだ。マイクロトフは僅かに紅潮して、テーブルに乗せた拳を震わせている。さながら我が子を自慢するかの如き店主の興奮を微笑ましく思いながら、メルヴィルは小さく『それは残念』と返した。
「そいつはともかく、いい加減何か食わせてくれないか?」
たちまち店主の顔が曇る。短い遣り取りで幾分打ち解けたふうだった彼は、頭ごなしの拒絶を躊躇い始めたようだ。店の隅にある柱時計を一瞥し、少し考えてから弱い口調で切り出す。
「店を開けていないってのは嘘だ。悪かった。だが……半時ばかししたら、貸切になる予定なんだよ。これは嘘じゃない」
「なら、それまでに食い終わるさ。酒と……料理は任せる、出来るもので構わない。何しろ歩き疲れているんでね、他の店を当たる力がない」
最後にメルヴィルはにっこりと付け加えた。
「この、御立派な騎士団長さんと同じ顔に免じて───頼む」
駄目押しは絶妙なる効力を持っていた。店主は不承不承といった様子で、それでも仄かに楽しげな顔で、大きく息をついた。
「負けたよ。たいしたものは出せんが、それで良ければ」
それから彼は唐突に笑みを納める。
「必ず時間までに店を出てくれ。誤解せんで欲しい、これはあんたらのために言っているんだからな」
不可解な言葉の意味を糾そうとする間もなく、店主は仕事を開始した。街でごく一般的に嗜まれる酒の瓶とグラスを無造作にテーブルに置くと、カウンターの奥に設えられた小さな厨房へと向かって行く。
鍋の用意を始める顔には一切の質疑を寄せ付けない頑なな気配が生まれていた。短く観察した上で、メルヴィルはマイクロトフに向き直った。
「御評判が宜しいようで、何よりです」
「茶化すな」
潜めた声に小さく唸り返す青騎士団長だが、やはり嬉しいのだろう、照れ笑いが見て取れる。
「おまえこそ、慣れたものだな。驚いたぞ」
「まあ、団長よりは」
それにしても、とメルヴィルは改めて人のいない店内を一望した。
「……美しい酌婦どころか、魔物じみた醜女が出てきても違和感のない店ですな。仕方がない、酌婦嬢の任をつとめさせていただきましょう」
どうやら『魔物じみた醜女』の想像に苦慮しているらしいマイクロトフが神妙な顔を作る。部下によってグラスに注がれる酒を睨みつつ、彼は首を傾げた。
「本当にこの店なのだろうか?」
「間違いありません。赤騎士連中に限って、あの御方に関する情報を取り違えるとは思えない。が……、今宵はおいでにならないようですな」
もっとも、と薄笑いで続ける。
「店内での逢引の段階を終えられたなら、姿が見えずとも不思議はありませんが」
マイクロトフの反応は顕著だった。有り得ないと心では信じていても、言葉にされるたびに逐一打撃を受けているようだ。自棄になったように勢い良くグラスを煽る騎士団長を眺め遣り、メルヴィルはやれやれと力を抜いた。
斯くも無器用な男の純愛を揶揄うのにも飽きてきた。大仰に慌てふためいてくれるならばともかく、必死に感情を堪える大男の様相は見ていて愉快なものではない。
このあたりが潮時だろう。野良犬は、とかく生存本能に長けていなければならない。
「それよりも、お気付きになられたか? あの店主───」
「ああ」
マイクロトフは僅かに顔を傾けて調理中の男を窺い見た。
「……怯えている。これから来る客というのは、あまりありがたくない人物らしいな」
「治安の宜しくない地区とは言え、店の寂れ方は尋常ではない。あるいは、その者が原因かもしれませんな」
罅の入った窓硝子に目を向けて囁くと、マイクロトフは難しい顔で同意を示した。
赤騎士団長が通い詰めているという疑惑の店───歓迎しかねる客に占拠された店。
早くも点と線は繋がり掛けていたが、少なくとも今暫くは楽しめそうである。メルヴィルは手酌で満たしたグラスを掲げ、『陰気な男』を演じ続ける青騎士団長に会釈した。
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