「……別におれは、噂を信じて足を運ぶのではないぞ」
四半時ほど後、城門で合流した青騎士団長は、メルヴィルの顔を見るなり憮然とした顔で低く唸った。
子供の言い訳めいた口調に無言のまま肩を竦めると、マイクロトフは複雑な表情で眉を寄せる。戸惑いを見て、それがあの人物が良く見せる仕種だったと思い至り、改めて苦笑が零れ出た。
ともあれ、上官は同行を受け入れたようだ。諦め混じりに嘆息しながら歩き出すマイクロトフの横に並ぶ。素直にも命じた通り騎士服を脱いで、何処にでもいる街人で通じる装いに身を固めていたが、見るものが見れば彼の輝きは瞭然だろうとメルヴィルは思った。
「御本人から何か聞いておられないのですか?」
「……いや」
ひどく辛そうな声音だった。メルヴィルは大仰に朗らかを装う。
「まあ、信じたくないお気持ちも、言い出せぬ御心情も理解致しますな。わたしとて、あの御方の隣に並ぶ女というのは容易に想像出来ない。場末の酒場の酌婦というのは少々出来過ぎているような……本当なら、さぞ見事な美女なのでしょうな」
ちらと窺うと、マイクロトフは苦しげに顔を歪めていた。
───おっと、これは苛めが過ぎたか。
寄り添う女を連想し難い端正な赤騎士団長が、実はこの上官の唯一絶対の想い人であるのをメルヴィルは知っている。そしてどうやら、その想いが片恋ではないという事実も。
それが何故、今回のような噂が流布するに至ったか。聞いた当初から疑問には思っていたが、次第に沸き起こったのは不快の念であった。
赤騎士団長の動向ひとつで、闘神とも真夏のミミズともなる男。上官として仰ぐなら是非とも前者であって欲しいメルヴィルには、不用意な噂を散蒔くに至ったカミューに対する微かな憤りが生じたのだ。相応の事情があるにせよ、当事者の片割れである筈のマイクロトフが何一つ知らされていなかったという点に覚える不快であったかもしれない。
今回は自らがマイクロトフの耳に入るよう画策したが、自然とそうなる場合とてあるだろう。そのとき、彼がどのように思い、どんなふうに感じるかを全く考えていないのだとしたら、まったく赤騎士団長らしくない。
ここはひとつ、己の存在がどれほどマイクロトフに影響を与えているかを痛感して貰わねばと思った。ついでに愁嘆場に立ち会えたら更に楽しい、続けてそう考えるあたりがメルヴィルという男であった。
「カミューに……好いた女性が出来たとは思わない」
暫し沈黙していた男がポツと切り出す。
「さて、如何なものでしょう。容姿にも才覚にも優れた御方です。女の一人や二人、在っても不思議はないと思われますが」
その点にはおそらくマイクロトフも同感なのだろう、微かではあるが噛み締めた唇が震えている。
───これまた、少々言い過ぎたか。
メルヴィルが上官の繊細度に対する認識を補正しているうちに、彼は絞るように言った。
「確かにカミューに惹かれる女性は多いだろう。だが、逆はない」
「何故断言出来るのです」
短く問うと、マイクロトフは薄く笑んだ。
「隠し立てするような付き合いをしていないと信じているからだ」
「……成程」
それは幾分感慨めいた合の手であった。
二人の騎士団長は誰もが羨む栄華に包まれている。栄誉、そして財。心ばえまで見事とあっては、望んで手に入らぬ女は無いと言っても過言ではあるまい。
にも拘らず、敢えて公に出来ぬ伴侶を選んだ。ひとたび恋に落ちれば誰憚ることなく心を曝け出すと思われた直情的な青騎士は、彼にはおよそ不似合いな、秘めやかに守る想いを選び取ったのだ。
ある種の予感はあった。
マイクロトフは正騎士として叙位された際、第三部隊に配属された。その後、メルヴィルが所属する第一部隊へと昇格を果たして彼らは出会った。
あの頃から、マイクロトフの唇からは幾度となくカミューの名が洩れたものだ。一つ年上の友に心酔し切った様子を見て、これはどうやら惚れているらしい、早々とそう見抜いたメルヴィルだった───もっとも、当時は『そうであったら面白い』といった思惑も含まれていたけれど。
やがて時が流れ、後輩だった男は青騎士団の頂点に昇り詰めた。それに伴うように、同期の二人の間で育まれてきた友愛が若干かたちを変えたのを知った。それはメルヴィルが考える以上に強固で温かな絆だったようだ。
「……だったらいそいそと探りに出向く必要はなかろうに」
小声で呟いてひっそり笑むと、気付いたマイクロトフが胡乱な眼差しで見詰めてきた。
「何?」
いいえ、と軽く首を振る。
「御親友を信頼しておられる割には、足が早くておいでだと感心しているのです」
先程からマイクロトフの歩調は加速の一途を辿っている。日頃から何かと忙しない男だが、考え事をしていると歯止めが利かなくなるらしい。この辺は、優美な親友──否、恋人か──を見倣って欲しいものである。如何なる時も悠然と構えた上官は、部下に多大な安心感をもたらすものだからだ。
しかしマイクロトフは、言われるなり頭を掻いて歩調を落とした。
「すまない、早かったか」
頓着なく部下に頭を下げる男。これも一種のおおらかさ、懐の深さかと苦笑する。
己の非を認めるのは難しいものだ。立場の上下があれば尚のこと、人は言葉を尽くして己を正当化しようと試みる。その部分だけ取ってみても、マイクロトフはメルヴィルが出会った幾人もの上官の中でも際立って潔い人物と言えた。
「カミューにも良く言われるのだ。騎士団長たるもの、従者さながらに慌ただしく動き回るものではない、と。だが、なかなか……な。おれはカミューのように何でもてきぱきこなせる訳ではない。のんびりしていたら、つとめの半分も終えぬうちに一日が過ぎてしまう」
堪らずメルヴィルは吹き出した。納得出来る、実感のこもった自己弁護である。
「それも団長の味、……といったものかもしれませんな。泰然と構えられるあまりに残務が増えるのは副長も喜ばれぬでしょうし」
日々書類の山と対峙しては目を血走らせている副長ディクレイを過らせながら言うと、マイクロトフも似たような想像をしたのか、申し訳なさそうに嘆息した。
「とにかく、おれは噂は信じていない。だが、そんな噂が生じるに至った経緯は気になる。カミューが何か問題に巻き込まれているのなら、出来る限りを尽くしたい。それだけなのだ」
「あの御方が団長の尽力を望まれていなくとも、……ですか?」
軽く攻撃を向けると、今度こそマイクロトフは照れ笑いで頬を染めた。
「そこはおれの我儘だな。きっとあいつは怒るだろう。余計な真似をするなと張り飛ばされるくらいは覚悟している」
「……ならば、安心して罵倒を受けられるが宜しい。殴られそうになった時には、盾になって差し上げましょう」
満更冗談でもなく呟くと、生真面目な上官は困惑したように瞬いた。考えたところで、揶揄の中に秘められた誠は真っ直ぐには伝わらないだろう。案の定、マイクロトフはすぐに思案を放棄して話題を変えてきた。
「それはさて置き、メルヴィル。さっきの言葉はどういう意味だ? これから向かうあたりの治安が悪い、とは……」
ずっと気になっていたのだろう、厳しく眉根が寄っている。無理もない。このロックアックスの街は騎士団の膝元、デュナンの各都市と並べても安全面では突出した街なのだ。
メルヴィルは言葉を選びながら説き始めた。
「西南第五地区。白騎士団・第一部隊の巡回管轄地域です」
「ああ、それで?」
「白騎士団・第一部隊と言えば、マチルダ騎士団中最高の権威を持つ部隊……その行動に査閲が入った記録は未だない。早い話が、そういうことです」
そこで言葉を切られたマイクロトフは瞬き、小首を傾げた。
「……早過ぎて良く分からん」
だろうな、と低く息を吐く。
一を聞いて十を知る、あの聡い赤騎士団長ならば腑に落ちただろう。だが、マイクロトフは違う。武に関してはいざ知らず、それが僅かでも政治的・権威的な意味合いを含めば十を聞いても、理解はともかく、納得する男ではない。
だからこそ自分が必要なのだ。現在の青騎士団は団長・副長共に人が好い。疑うよりも信じようと努める男らの傍らに在って、隠れ潜む危機を嗅ぎ分ける力を働かせねばならないのである。
「部隊が実直に任を遂行するか否かは各騎士団の体質に因るものが大きい、これはお分かりか?」
「任は遂行して当然だろう」
「団長の認識では当たり前でも、そうでない場合もあるのです」
「何だと?」
つまり、とメルヴィルは夜空を見上げた。広がる満天の星の中、一際明るい光がある。
「今は平時……多少巡回の任に手を抜いたところで咎めるものはない、そんな考え方をするものも在るのです」
刹那、マイクロトフは唖然として立ち止まった。予想通り、言葉の意味するところが容易に胸に納まらないらしい。暫し沈黙した後、彼は慎重に問うてきた。
「つまり……白騎士団・第一部隊が巡回の任を怠っていて、それで治安が乱れているということか?」
信じられないといった口調であった。謹直にして誠実なる青騎士団長にとって、それは理解の範疇を超えた一言だったようだ。メルヴィルは無言のまま肩を竦め、更に説いた。
「無論、昼日中から街を歩けないほど無法の輩が横行しているという訳ではありません。巡回が行われていないのは騎士団が夜間体制に入る刻限あたりから……即ち、丁度今時分からですな」
「馬鹿な!」
マイクロトフは憤慨気味に吐き捨て、それからメルヴィルを睨み据えてきた。
「聞いていない。そのような報告は受けていないぞ。おれだけが知らなかったのか?」
分り易い反応に苦い笑みが洩れる。首を振りながらメルヴィルは答えた。
「各騎士団の巡回管轄は明確に区切られておりますからな。余所の情報が入ってこなくとも、そう驚かれる必要はない。白騎士団の動向に関して、わたしの耳が多少敏感だった……それだけのことです」
馬鹿な、と再び呻いて男は拳を震わせる。そんな憤りを好ましく見詰めて続けた。
「かなり以前からの慣習らしいですな。マチルダ騎士団の筆頭部隊であるといった慢心の為せる怠慢なのでしょう」
「……何故だ? 何故、教えてくれなかったのだ」
そこでメルヴィルは弱く嘆息した。
「そうすべきかとは考えました。終課の儀も、斯様な報告を為せば、今より有意義な時間となるでしょうからな」
ただ、ときつく眉根を寄せる。
「副長に止められました」
「ディクレイが?」
「今少し様子を見よう、と」
何を悠長な───そう言い掛けたのだろう、マイクロトフは僅かに口を開いたところで押し黙った。どうやら気付いたらしい。彼の中では当然の価値観が、必ずしも他に通じる訳ではないという事実に。
序列では赤・青の上に立つ白騎士団、その最高位部隊の怠慢を暴くという行為には、それなりの危険が付き纏うのだ。たとえ正当がこちらにあっても、白騎士団長ゴルドーの不快は避けられまい。己の直轄組織に腐敗を認める、それは彼自身の統治の不行届きを認めるに等しいからだ。
上官の複雑な表情をちらと眺め遣り、メルヴィルは笑んだ。
「念のために申し上げるが、保身ゆえの様子見ではありませんぞ。副長は団長よりも慎重な御性情、気配を窺っておられるのです」
「……分かっている」
低く唸って同意する。考えを巡らせているのだろう、ゆるりと足を踏み出し、彼は再び街路を進み始めた。
白騎士団では一月半程前に副長位に空席が生じた。そのため新任の騎士隊長を迎えた上で、各騎士隊長が一位階ずつ繰り上がっている。
新たに第一部隊長に就任した人物は、副長職に繰り上がった男よりも優れた才覚を持つとの評価が高い。いずれ自部隊に蔓延する悪慣習に気付き、正していくに相違ない、そう副長ディクレイは判断したのだ。
穏便かつ好意的解釈の裏には、無論、何かと衝突しがちのゴルドーとマイクロトフといった構図もちらついているだろう。成ろうことならマイクロトフの耳に入れずにおきたいという心情も、メルヴィルには痛いほど理解出来た。
「……まったく、御苦労なことだ」
小さく独りごちて、メルヴィルは珍しく穏やかに微笑んだ。
「という訳で、御親友が見染めた女とやらの検分の前に、騎士につとめを放棄された街の様子を御自身の目で確かめられると宜しい。その上で、どうあっても問題にすると仰せなら……仕方がない、そのときは何処までもお付き合い申し上げましょう」
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