「よし、休憩。水分補給を怠るな」
冷然とした声が命ずるなり、城内の騎馬闘技場は青騎士たちの墓場と化した。用意された水差しに辿り着いたのは唯一人、青騎士団長のみである。
ごくごくと喉を鳴らして水を干す男を冷ややかに一瞥した青騎士隊長メルヴィルは低く言った。
「……力が余っておられるようですな、マイクロトフ団長」
すると彼は不敵に返した。
「如何なる疲労も、おれの身のうちに燃える炎を消すことは出来ない」
やや嘆息気味の息を洩らしたメルヴィルは、ひっそりと続ける。
「街外に陣を張る赤騎士団の選抜部隊に、本日カミュー団長が差し入れに出向かれたそうで」
ぎく、と身体を強張らせてマイクロトフは手にしたタオルを握り締めた。
「それで自棄になっておられるのですか」
「べっ、別におれは……! 赤騎士を妬んでいる訳でも、変わりたいと思っている訳でもないぞ。カミューが差し入れに出たからと言って、意地になって訓練に励んでいる訳ではない!」
「……御心は十分に理解しました。ちなみに料理人の情報に拠ると、カミュー団長が持参なさった品は檸檬の蜂蜜漬けとジンギスカンの材料だそうです」
淡々と説明されて、ますます憮然とするマイクロトフだ。つまり赤騎士団の選抜騎士は美しい騎士団長を囲んで檸檬で疲れを癒し、更には今宵、草原でジンギスカンをつつくという僥倖に恵まれたということか。
彼らがすべての任から解かれてロックアックス街外に陣を張っての訓練に入ったと耳にしたときは些か驚いたマイクロトフである。
決して綱引きを侮っていた訳ではないのだが、赤騎士団が斯くも決然とした姿勢で勝負に臨もうとしているとは意想外だったのだ。
地下倉庫から拾ってきたという大綱の一本を青騎士団用に残して城を後にした赤騎士団・選抜騎士。おそらくは訓練内容を青騎士から隠すための策なのだろう。
偵察を送った方が良いのではないかとの意見を、だがメルヴィルは一蹴した。
諜報活動において、青騎士は赤騎士の足下にも及ばない。無念ではあるが、これは歴然とした事実だ。偵察を試みたところで、赤騎士団が容易く情報収集を許す筈もなし、ならば無駄な労力は不要と割り切ったのである。
ここで思い止まらなかったなら、彼らは草原にて唖然とする光景を見ただろう。赤騎士らには訓練を隠匿するつもりなど毛頭なく、ただ、城内に牛を連れ込むことを憚っただけなのだと悟った筈だ。
これに脱力するか奮起するかはさて置いて、何も知らない青騎士らには身を隠して牙を研いでいる赤騎士への得体の知れない畏怖が垂れ込めていた。拠って、作戦参謀に任ぜられたメルヴィルの過酷な鍛練ノルマにも黙々と従っているのである。
カミューが選抜騎士の慰労に向かったというのは、青騎士らにも伝わっていた。他の赤騎士たちが騒然としていたからだ。
敬愛する青騎士団長と共に汗を流すことを光栄と受け止めていた選抜騎士一同であるが、その刹那、僅かに羨望が走ったことは否めない。
どれほどつらい訓練に心身を削っていても、あの優しげで美しい笑顔を向けられたなら報われることだろう。決して他団を羨むつもりはないが、そうした癒しを望めぬ自団をほんの僅かに寂しく思う。
その一方で、綱を引く彼ら青騎士を見守る──否、睨み付けている──青騎士隊長に嘆息せずにはいられない。
不承不承といった具合に任を受けながらも、恐ろしいまでに実直に役割を果たしている青騎士隊長メルヴィル。日を追って過酷を増す要求の数々は、優しい活力の泉を持たぬ青騎士らを苛み続けているのである。
「……それにしても」
ふと、メルヴィルが口調を変えた。この男にして珍しく、心底不思議そうな顔をしている。
「どうかしたか?」
いえ、と一度だけ首を振ると、彼は腕を組んで首を傾げた。
「先日お会いした際には、此度の一戦にあまり気乗りしない様子でおられたが……何がカミュー団長を奮起させてしまったのか」
ますます考え込んで、独言気味にボソリと付け加える。
「……よもや、あの方があの程度の挑発に乗るとも思えないが……」
後半部分が聞こえなかったマイクロトフは、即座に顔色を失った。狼狽えながら必死の弁明を開始する。
「そっ、それは……! お、おれも不用意にものを言い過ぎたのだ。真実、決して、カミューを愚弄したつもりなどなかったのだが、結果的にあいつ自身が参戦しないことを非難したと思わせてしまったらしく、だから───」
食いつくばかりの勢いにやや身を引いていたメルヴィルは、そこで納得して苦笑した。
「……なるほど。取り敢えず、わたしの責でなさそうですな。安堵致しました」
彼も、カミューが乗り出した場合の赤騎士団の脅威は十分に認めている。美貌の騎士団長は赤騎士らにとって強力な発火剤なのだ。
ついうっかり厭味を洩らしてきたものの、それがカミューの奮起に繋がったなら責任問題である。からくも窮地を免れた今、メルヴィルに残されたのは自団への勝利への執念のみであった。
「まあ、とにかく勝ちましょう。たとえ手段が綱引きであろうと、昨年末に続いて赤騎士団に敗北するのは本意ではない」
「う、うむ」
辛辣な説教が飛んでくるかと身構えていたマイクロトフは、幾分拍子抜けして力なく笑うばかりだった。
「よし、休憩終わり。更に五回、実戦を行う。速やかに二手に分かれるように」
懐中時計を掌に弾ませながらうっすらと唇を綻ばせる男を恐々と見遣り、けれど青騎士らは温情を縋る無益を熟知している。半数ずつに分かれて綱を握り締め、最後に綱に手を掛けるマイクロトフを悲しげに見詰めるばかりであった。
「負けが上回った組は、いつものように腕立て100回、腹筋100回、背筋100回、それに闘技場を二十周だ」
冷酷に宣言するメルヴィルに、終に一人が小声でマイクロトフに囁く。
「マイクロトフ様……せめて罰則を半分に減らすよう、メルヴィル隊長に御進言いただけませんでしょうか」
泣きそうな口調にさしも屈強な騎士団長も眉を寄せる。
「しかしな……、訓練内容はすべて任せると言ってしまったし……」
「そこを何とか」
「このままでは赤騎士団と戦う前に床に伏してしまいそうです」
励まされたように他の騎士たちも次々に訴え始めた。即座に目を向けたメルヴィルが厳しく叱責する。
「そこ! 無駄口を叩く余力が残っていると見做すぞ!」
竦み上がった男たちが騎士団長に取り縋る。
「マイクロトフ様〜〜〜」
「すまん、おまえたち」
マイクロトフは深々と詫びた。
「嫌がるメルヴィルをこの任に留保したのはおれなのだ。無理を通した以上、彼に従うのが道理ではないかと思う……」
何ということをしてくれたのだ───恨みがましそうに押し黙る部下たちから目を逸らし、殊更に明るく言い募る。
「勝てば罰則を受けずに済む!
力を合わせ、勝利すれば良いではないか!」
けれど刹那、敵側にて綱を握っていった一人が苦しげに呻く。
「マイクロトフ様……、勝利を目指されるのは良きことなれど、我々のことは如何お考えでしょうか……」
はたと気付いてマイクロトフは唇を噛んだ。
綱の向こうに対峙する男たちも大切な部下。片方が罰則から逃れれば、もう片方が苦難に陥る。
そんな単純なことを失念するほど疲労は思考を浸食していたのか───そう呆然とする。
「……よ、よし。引き分けるぞ。心を一つに合わせ、何とか引き分けに持ち込むよう努めてみよう」
押し殺した指導者の声は、囁きとなって一同に伝わってゆく。
青騎士団・選抜騎士らは対・青騎士隊長メルヴィルといった一念において見事に結束しようとしていた。
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