変心の日・4


激しい抗いを抑え込み、何とか赤騎士団長の部屋まで辿り着いたマイクロトフは、己を見据える琥珀に宿った敵意に暗然とした。
想う男との逢瀬を阻まれた青年にとって、今やマイクロトフは障害物でしかないらしい。暫く燃えていた怒りが、やがて冷えていく。完全に興味を失った、道端の石塊でも見遣るような眼差しが立ち尽くす男の胸を切り裂いた。
「カミュー……」
何と言ったものか躊躇する間にプイと目線を外したカミューが、そのまま部屋の寝台に身を投げる。黙して見守っていると、薄い夜着に包まれた肩が震え始めた。傭兵から遠ざけられたことへの失意が空気を通じて伝わってきて、いっそうマイクロトフを打ちのめす。
己の前で、己以外の人間を慕って胸を痛めるカミュー。力なく敷布に伏したまま過らせているのは、紛れもなくここに居ない男の姿なのだ。
近寄って、脆さを感じさせる肩に触れようとしたマイクロトフだが、果たせなかった。枕に押し当てた唇が微かに『フリック殿』と呟くのを聞いたからだ。
常日頃のカミューは、これほど恋慕の情を曝け出す青年ではない。両手両足の指の数だけ『好きだ』と囁く間に、一度か二度、同じ言葉が返ってくれば良い方だ。
華やかで社交的な赤騎士団長が、実は本質的に照れ屋であるのをマイクロトフは知っている。だからこそ、こうも恋情に溺れるカミューが見慣れず、恐ろしい。毒の異常と弁えようと務めてみても、平静を保つことなど不可能だった。
よくよく考えてみれば、最初に医務室で違和感を覚えるべきだったのかもしれない。動転のあまり何を言ったか良く覚えていないマイクロトフだが、カミューの洩らした『見詰め合えなくなるのは悲しい』という発言は耳に残っている。
普段なら、二人が恋仲であると匂わせる表現など巧みに避けて退ける青年だ。鑑みるに、あのあたりで毒の汚染は開始されていたのだろう。
迂闊にも気付かず、壁を叩いていたばかりに混乱を広げてしまった。その報いが現状であるなら、何と痛烈な罰であることか。
「カミュー……覚えているか?」
足下から崩れそうな苦悩を堪え、敢えて何気ない口調で切り出した。
「この新同盟軍に来たばかりの頃……、部屋が足りず、おれたちは同じ部屋に押し込められたな。何と貧乏臭い一軍だと笑いながら、おれは幸せだった」
カミューは両腕で抱えた枕に顔を押し当てたまま無反応を通す。
「おまえと同じ信念を有し、その結果、同盟軍の一員に共に名を連ねた。遠い誓い通り、生涯並んで生きられる証のような気がした。たとえ部屋が一つしか与えられず、おまけに狭くとも、無上の楽園に思えたものだ」
「…………」
「おれは耐える。たとえその瞳にフリック殿しか映らずとも、変わらずおまえを想い続ける。おまえがもう一度おれに向かって微笑んでくれるまで、何があっても耐えてみせるぞ」
敷布に散る柔らかな薄茶色の髪に伸ばした手を、マイクロトフは必死の自制で押し止めた。
「おまえも辛かろうが……、少しだけ耐えてくれ。フリック殿はおまえの想いが毒に拠るものだと知っておられる。真実本心からの想いと言えぬ以上、受け入れられる筈がなかろう? だから……」
そこで言葉を詰まらせた。
愛しき伴侶の全身全霊の求愛を捧げられる傭兵への醜い嫉妬は、抑えようにも抑え難く胸に淀んでいる。けれど、混乱の中で誠実と親愛を貫こうと努める姿に感じ入ったのも事実なのだ。あの寛容に恨みを抱くなど、騎士たるものの信義に悖る。
いつまでも押し黙っている男に怪訝を覚えたのか、弱い身じろぎが生じた。半身を捻ったカミューが困惑げに口を開く。
「泣いて……いるのか、マイクロトフ?」
涙のない頬であったけれど。
瞳が浮かべる色合いから察したのだろう、カミューは眉を顰めた。やがて洩れた声は儚げに掠れていた。
「……フリック殿のことを思うと胸が苦しいんだ」
でも、と目を閉じる。
「そんなおまえを見ていると、やはり苦しい」
横たわったまま胸元を押さえる青年に、マイクロトフは幾度も瞬いた。別れ際にフリックが零した言葉が脳裏に蘇り、朧げな喜びが走り抜ける。恋慕の対象と引き離された効能か、どうやらカミュー本来の精神が毒の影響を振り切ろうとしているらしい。
「泣いてなどいない。こうしておまえの傍に居るだけで、おれは満たされる」
強く告げると、カミューは幼げに一点を見詰めて呟いた。
「どうしたんだろう……わたしも胸の奥が温かい。フリック殿に触れていたときと同じほど……」
伴侶が傭兵に跨がって撓垂れ掛かっていた光景を精一杯の努力で意識の外に押し遣ったマイクロトフは、ゆっくりと寝台の端に腰を下ろした。
「カミュー……触れても構わないか?」
「触れるも何も、さっきわたしを羽交い締めにして引き摺ったじゃないか」
「そういうのではなくて」
おずおずと身を屈めて問い直す。
「……抱き締めていいか?」
暫し熟考した後、カミューは覚悟を決めたように頷いた。
毒に侵されて以来、彼は常にフリックを求め、尋常ならぬ勢いで暴れていた。腕の中におとなしく納まった細身の肢体の温もりを噛み締めたマイクロトフは、改めて込み上げる愛しさに胸を詰まらせた。
幾分強張りがちの肩を宥めるように撫でてから、思い切ってくちづける。初めは固く引き結ばれていた唇が息苦しさに綻んだ隙に、忍び込み、弄り、絡め上げた。
「ん……」
官能的な吐息が洩れるに至って、再び理性が毒に脅かされたのか、カミューはマイクロトフを押し退けようともがいた。速やかに望みに従った男を見上げ、濡れた琥珀が切なげに揺れる。
「……わたしはフリック殿が好きだ」
ズキリと胸を刺す響き。
たちまち歪む険しい顔を見詰めたまま、だがカミューは弱く続けた。
「でも、おまえも慕わしい。どうしたらいいんだろう、こんなに気の多い男になってしまって……」
今にもベソをかきそうな──普段は峻厳たる──赤騎士団長。知らず苦笑を誘われた男は優しく言った。
「だからそれはステータス異常だ。案ずるな、魔物の毒を消せば元に戻る」
「そうは言うが……変種なんだろう? もし見つけられなかったら、わたしは浮気性のまま生涯を送らねばならない」
医務室にて、傭兵に躙じり寄る一方で会話も聞き止めていたのか───妙な感心をしながらマイクロトフは首を振る。カミューの手を握り締め、力強く宣言した。
「大丈夫だ、何があっても花粉を採取する。おまえのため、そしておれ自身のため……剣と誇りに懸けて誓うぞ、カミュー」
「マイクロトフ……」
束の間見詰め合った後、カミューはふと部屋の隅へと視線を巡らせた。
「マイクロトフ、その机の二番目の引き出しを開けてみてくれ」
起き上がって応じてみると、几帳面に整頓された引き出しの内部に数枚の札が納められていた。意図を量りかねて首を傾げる男にカミューは力なく笑んだ。
「札が入っているだろう? 中に『眠りの風』の札がある筈だ」
ごそごそと漁るうち、目当ての品が指に触れる。
「これか?」
摘み出して向き直ったマイクロトフを真っ直ぐに瞳を当て、彼は真摯に頷いた。
「わたしを眠らせてくれ」
「何?」
「どうしてもフリック殿を想うのを止められない。けれど、おまえの苦しげな顔を見るのは辛いし、自分が恋多き男なのも耐え難い。目覚めていれば、またフリック殿の許へ走りそうだし……いっそすべてが終わるまで眠りについていた方が丸く納まるのではないかと思うんだ」
「な、成程……」
この思考は沈着なる赤騎士団長のもののようだ。時間が経って、多少は花粉の力が薄らいでいるのかもしれない。
だが、未だ予断を許さぬ事態に変わりはない。今はこうしてマイクロトフへの情愛を滲ませる青年だが、目を離した隙に再び傭兵に夜這いを仕掛けぬとは言い切れないのが辛いところであった。
「本当に良いのか、カミュー?」
彼は哀しげに唇を綻ばせた。それを見届けた上で、マイクロトフは睡眠作用を施す札を発動させた。
摩訶不思議な桜色の花弁の散る中、穏やかな眠りに落ちようとする美貌の青年。その形良い唇が幻のように言う。
「ありがとう、……フリック殿の夢を見るよ……」
刹那、不屈の青騎士団長は呆然と目を見開いた。
「ま……、待て、カミュー!」
慌てて取り縋るが、既に遅く、彼は熟睡に陥っていた。
「ここに及んでもフリック殿なのか?! 何故おれの夢ではないんだ、カミュー!」
不馴れな自制に努め抜いて疲弊した男は、目を閉じた伴侶に向けて虚しく絶叫するしかなかった。

 

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ラブラブ……なようで
微妙にすれ違いな恋人たち。

 

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