さて、その夜。
自室の寝台に転がったフリックは、漸く訪れた安息に疲れた心身を委ねていた。
花粉獲得作戦への打ち合わせを終えて解散のはこびに至ったものの、へばりつく赤騎士団長から解放を勝ち取るには同席した一同の涙ぐましい助力が要った。
魔物の毒に完膚なきまでに侵されているのか、カミューは当然の権利とばかりに部屋へ戻ろうとする恋しい──と思い込んでいる──傭兵に同行しようとした。今の状態でそれはまずかろうと直ちに引き離しに掛かった仲間たちだが、恋の執念は生半ではなかった。
身も世もなく肢体を捩り、必死にフリックの名を呼ぶ青年の姿は、何処か螺子の飛んでしまった役者のようである。
そんなカミューを、悲嘆に暮れる青騎士団長が背後から羽交い締めるに至っては、もはや悲運の為せる混乱などとは言い難い。ぶるぶると肩を震わせて笑いを堪える医師こそが、人として最も正直な反応を示しているのかもしれなかった。
最終的に場を納めたのは、やはり年若い指導者であった。
個々に決められた部屋で休むのは新同盟軍の兵に与えられた規律、フリックを解放して自室に向かえ、そうウィンは命じたのだ。
無論、カミューは涙目で抗った。
離れたくない、傍に居るとの頑強な主張を、だが少年は『規律を守るのも騎士のつとめ』の一言で退けた。
毒素によって乱れ果てた思考にあっても、染みついた騎士の訓戒は遵守されるべきものであったらしい。潤んだ琥珀で切なげにフリックを一瞥したものの、彼はしおしおと引き上げていった───マイクロトフに引き摺られながら。
「何でこんな目に……」
赤騎士団長の熱っぽい眼差しと青騎士団長の恨みの視線によって疲弊し尽くしているというのに、妙に神経が尖って眠れない。ごろごろと寝返りを打ちながら、零れる溜め息を止められないフリックである。
カミューに対する好意は濁りなきものだ。
穏やかな笑みに潜む苛烈な闘志、課せられた責務を果たす真摯な姿勢。
同じ志を掲げる宿星は、誰もが皆、大切な仲間であるけれど、自らも剣士であるが故か、元・騎士団長らは格別に近しく感じる人物であった。
魔物の毒で真実の想いを見失ったカミューを何としても救いたいと思う。同様に、唯一無二の相手から目を背けられてしまったマイクロトフを心から気の毒に思っている。
───が、その錯綜の中心に自分が据えられてしまうとは何と不運なのだろう。
百歩譲って、恋情丸出しの瞳はステータス異常だからと折り合いもつけられる。だからと言って、どうして身の危険まで覚えねばならないのか。
理性と友愛、そして妬心を闘わせ、今はかろうじて前者に勝るマイクロトフだが、それが薄氷に築かれた自制であるのは否めない。何かの弾みで、失意がフリックへの敵意に転じる可能性は捨て切れないのだ。
理不尽だ。
まったくもって、理不尽である。
「おれの所為じゃないってのに……」
ほとほと消沈してぼやいているうち、仄かな憤懣が点った。
だいたい、根源はマイクロトフの暴走ではないか。並外れた正義感と闘魂は認めるが、不用意に攻撃に走って今回の混乱を招いた。
それに、運命だろうが毒だろうが撥ね除けるのが真実の愛というものではないのか。御伽噺などでは斯様に記されているものが多い。
たとえステータス異常に見舞われても、カミューはマイクロトフを選び取るべきなのだ。そう仕向けられない自身の不甲斐なさを差し置いて、被害者にも等しい人物を恨むなど筋違いではないか。
だがしかし、そこでフリックは我に返った。
運命の悪戯に弄ばれて傷ついている仲間に対して憤るなど、狭量もいいところだ。
マイクロトフの傷心と怨嗟は、言ってみればカミューへの大いなる想いの裏返し。交流を温めてきたものへ恨みを抱かずにはいられぬほどに伴侶たる青年を求める証なのだ。
それを思えば、多少のことは耐えるしかない。どのみち変種の花粉を採取するまでの辛抱である。周囲の協力もあるのだ、よもや殺されることはないだろう───善意の傭兵が寛大な結論に達したとき。
微かな扉の軋みが鋭敏な戦士の感性を掠めた。咄嗟に身を起こし、愛剣に手を伸ばし掛けたが、続く驚愕が体躯を硬直させる。忍びやかに開いた扉よりも、なお密やかな声が甘く切なく呼び掛けた。
「フリック殿……」
「カ、カミュー?!」
『おまえはマイクロトフに連行された筈』だの『こんな夜更けに夜着姿で何の用だ』だの、更には『何故そんな恥じらい混じりにおれを見る』などといった台詞は喉元で固まって出てこない。
然して広くない室内を優美な歩みで横切ったカミューは、フリックが後退った結果生じた寝台の隙間に乗り上げた。
「そんなに不快そうな顔をなさらないでください」
傷ついた子供のように悲しげに表情を曇らせ、小首を傾げる赤騎士団長。医師の言うように、魔物の毒が恋愛中枢ばかりか思考そのものに作用しているかのような様子である。
フリックは叫びたい心地だった。
おまえにはこれが不快な顔に見えるのか、狼狽えるあまり言葉も出ないのだと何ゆえ理解してくれないのか、と。
しかし、考えていられたのは僅かな間だった。
動転しながらパクパクと喘いでいる合間にも着々とカミューは距離を詰め、いつしか壁際に追い詰められたフリックの脚の上に座り込んでいた。
「マ、マイクロトフは? 一緒だったんじゃないのか」
今宵一晩、青騎士団長が友を拘束するに違いないと誰もが信じていた。あの男が平静を欠いた──誤った恋情に溺れ切っている──状態のカミューを放置するとも思えず、思わずといった調子で洩れた問い掛けだった。
カミューはしどけない溜め息を吐く。
「夜食を取りに行きました。その隙に抜け出して来たのです」
「こんなときに食い気優先か、あいつは!!」
脳天から崩折れそうな脱力に見舞われて呻くが、カミューはひっそりと首を振った。
「わたしの空腹を案じてくれたのです。本当に優しい男です」
マイクロトフへの情愛を感じさせる言葉とは裏腹に、青年のしなやかな掌はフリックの胸元にぴったりと当てられている。その指先が頬に移るあたりで、フリックは別の意味での危険を感じ始めた。
「カ、カミュー……その、何だ。もう遅いし、自分の部屋に戻れよ、……な?」
「わたしのことがお嫌いですか?」
「い、いや、そういう訳じゃ……」
両手で頬を挟まれ、いよいよ危急の感が増大するフリックだ。揺れる琥珀の熱が、有無をも言わせぬ圧力を以て彼を屈伏させようとしていた。
「お嫌いですか……?」
忍び込むような囁き。
偽りを上らせることも許されず、傭兵は慌てて首を振った。
「き、嫌いじゃない。そんな訳がないだろう」
「ならば、好いて下さっておられる……?」
半ば自棄気味の叫びが迸る。
「ああ! けどな………」
それは純粋に仲間としての域を出ない好意だ───そう続けようとした彼は、いきなりの抱擁に言葉ばかりか息まで詰まらせた。
「わたしもです。あなたを思うだけで、身体が踊り出しそうになるほど……」
そこでフリックは『アイフラワー』と呼ばれる魔物の姿を過らせた。巨大な花と長い葉をゆらゆらと揺らめかせる様は、そこはかとなく踊っているようにも見える。成程、カミューの思考が汚染されているのを窺わせる一言であった。
けれど冷静な分析も長続きしない。腿の上でぴったりと身を寄せた青年は恐ろしいほど扇情的な眼差しで微笑んだ。
「それでは、フリック殿……合意ですね」
「なっ、何がだ!!」
自らの衣服の前を寛げ始めた青年に仰天して、慌てて両の手首を握り締める。するとカミューは陶然とした面持ちで瞳を眇めた。
「強引なのがお好みでしたか?」
「ち、違ーう!」
誰でもいいから、今すぐに助けてくれ───魂の奥底から救援を求めつつ、フリックは誠実なる説教を開始した。
「いいか、カミュー。おまえは今、魔物の毒で混乱しているんだ。こんな真似をしちゃ駄目だ、元に戻ったときにおまえが傷つくだけだぞ」
カミューは幼げな表情のまま身じろぎを止める。俯き加減で考え込むのを見たフリックの胸に微かな希望が兆した。
先程のマイクロトフに関する言といい、カミューの強靱な精神は、細々とではあるけれど、毒素に抵抗を続けているようだ。理性を取り戻してくれ───祈るような心地で彼は続けた。
「おまえの運命の相手はマイクロトフだ。残雪のロックアックスで生涯を誓い合った仲なんだろう?」
「…………」
「己の身を犠牲にしても、庇わずにはいられない大切な相手じゃないか」
「それは……」
「おまえが毒に支配されればマイクロトフだって傷つく。そんな事態はおまえの誇りが許さない筈だ」
相変わらず傭兵に跨がったまま、不意にカミューは嗚咽を洩らした。
「……すまないとは思っているのです。でも、フリック殿を想うのを止められない……」
「だからそれがステータス異常なんだよ!」
「異常でも何でもいい。もうどうなっても……ああ、フリック殿」
言うなり、カミューは両腕を傭兵の首に巻き付けた。一応は縋り付かれているのだろうが、フリックにとっては首括りの刑を受けているに等しい。
毒素に操られる己を無意識に御そうと尽力しているのか、半泣き顔の赤騎士団長が服の内に掌を忍ばせようとする。その頃には、締め上げられて朦朧となったフリックの意識は『このまま犯されちまうのか、それとも逆を望まれているのか』などといった虚ろな展望を描くことしか出来なかった。
絶体絶命の窮地を救ったのは凄まじい轟音である。
「カミュー!」
雄叫びが先か、ぶち抜かれた扉が上げた悲鳴が先か。猛牛のように突進してきた青騎士団長が寝台に駆け上がり、カミューの両腕を掴んで引き剥がす。
「な、な、何をしているんだ、おまえは!」
「離せ、離してくれ! これからフリック殿に愛おしんでいただくんだ」
「そんなこと、おれが幾らでもしてやる!」
「おまえでは駄目だ、フリック殿でなければ……」
「試みる前から何を言う!」
何処か噛み合っていない言い争いの合間に、抱擁──もしくは首括りの刑──から逃れた傭兵が喘いだ。
「あ、危うく仲間と一線越えちまうところだった……助かったぜ、マイクロトフ」
もがき止まぬ青年をしっかと抱きかかえたマイクロトフは苦しげに眉を寄せた。
「申し訳ない、フリック殿……小腹が空いた風のカミューに籠絡されて、ついうっかり目を離してしまった。もう安心してお休みいただきたい、今夜は寝ずの番をしますので」
多少は頭が冷えたのか、眼差しに妬心はなかった。寧ろ最愛の伴侶が他の男を求める現実に打ちのめされているかのような消沈ぶりである。
フリックは青年の唇が掠めた頬を押さえ、それから肩を竦めた。
「あのな、マイクロトフ。カミューの奴……完全に毒にやられちまってる、って訳でもないみたいだぞ」
「えっ?」
「少し……本っ当に時たまなんだが、普段のカミューがちらつくんだ。こいつも必死に毒に抵抗してるんだと思う」
束の間、感激を浮かべたマイクロトフだったが、すぐに表情は陰った。
「……本当ですか……?」
今度は疑わしげな視線が美貌の青年に注ぐ。拘束した腕の中、悪漢に捕われた乙女のようにフリックを呼びながら足掻く伴侶には到底理性を見出せなかったのだろう。
再びの失意が男を襲う前にフリックは慌てて言い添えた。
「と、とにかく変種を見つければ万事解決だ。カミューもこれまで通り、おまえだけを見詰めるようになるさ」
ええ、と小さく頷いたマイクロトフは混迷開始以来初めての穏やかな眼差しをフリックに向けた。
「感謝します、フリック殿」
「何がだ?」
「カミューの誘惑に屈さずにいてくださったこと。おれならばものの十秒も持たなかったでしょう」
幾ら愛しい相手の誘いであるとしても、それはあまりに早過ぎるんじゃないか───そう思いつつも彼は辛うじて笑みを浮かべた。
「何もかも魔物によるステータス異常の所為じゃないか。大事な仲間が傷つくような真似が出来る訳ないだろう? 第一……」
「第一?」
いや、と首を振って苦笑する。
『愛おしんでいただく』などとカミューは口走っていた。つまり、彼とマイクロトフの関係はそうしたものなのだろう。
確かにカミューは端正な容貌であるし、身体つきもしなやかだ。けれどフリックにとって彼は何処まで行っても親愛なる友人、求められたからといって行為に及ぶなど想像もつかない。
カミューの希望が逆であったら押し切られたかもしれない、などと幾許かの安堵を覚えながらフリックは朗らかに締め括った。
「……もし流されてカミューに手出しなんてしていたら、今頃ダンスニーの露と消えていたかもしれないからな。そいつは御免蒙るぜ」
───ハイランドとの戦いも終わっていないというのに、こんな冗談みたいな事件で殺されてたまるか。
傭兵の心の声は騎士団長らには届かなかったらしい。
悲痛な声を上げ続けるカミューが男の逞しい腕に引き摺られて去った後、フリックは気の抜けた声で独りごちた。
「……どうするんだ、これ……」
虚ろな瞳が戸口に向かっている。屈強の青騎士団長の突入に堪え切れなかった扉は、蝶番の一つが外れ、斜めに傾いていた。
マイクロトフの心情は痛いほど理解出来る。
愛しい伴侶の夜食を手にして戻ったところ、姿が掻き消えていた。彼が目指すであろう場所は一つ。ノックどころか、ノブを回すことも忘れて飛び込んできたのも一途にカミューを案じる男の情の為せる行動だ。
───だが。
「やっぱり、おれが直すのか……」
がっくりと肩を落とす青雷の傭兵は、それでも寛容と友愛を忘れぬ男であった。
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