閉じた世界で見る夢は・5


 

帰宅したマイクロトフを迎える表情は無感動だった。
夜毎に繰り広げられる狂宴は、確実にカミューから生気を削り取っていた。彼を彼たらしめてきた瞳の輝きが揺らぎ、次第に虚ろな生き人形の如き頽廃がまとわりつき始めている。
マイクロトフは努めてそれを思考から押し遣った。
手折った花は必ずや萎れていく。それは如何ともしがたい世の理だ。理性がそれを示唆しても、もはや感情は止まらない。

生気を失うなら、注げばいい。
これまで以上の愛を流し入れ、蘇らせれば、それで。

マイクロトフは、カミューが愛ゆえに傷ついていることを気づこうとはしなかった───否、気づきたくはなかったのだ。
情愛が歪みを生じ、執着と呼ばれるものと化していることにさえ、彼は敢えて目を閉ざす。触れれば触れるほど、求めれば求めるほど遠ざかっていこうとする恋人の心に焦燥を覚え、今宵も彼は狂気の断崖を突き進む。

 

 

 

カミューは寝台の上に座りながら、ぼんやりと壁を見詰めていた。
すでに丁寧な作業で拭い取られたとはいえ、かつてこの屋敷に住まっていた家人の忌まわしき歴史の刻まれた壁である。
狂った少女は何から解き放たれるため、自ら頭を割ったのか。
両親の愛と葛藤が築いた白い檻、それは今、マイクロトフがカミューに与える拘束に似てもいた。
何を考えているか読めない琥珀の眼差しは、常にマイクロトフを不安にさせる。閉じ込められたカミューが少女の亡霊に呼ばれているのではないか、そんな懸念が思考を掠める。彼を現実に引き戻す手段を、マイクロトフはひとつしか知らなかった。
「帰ったぞ、カミュー」
いらえはない。
この頃ではカミューはそうして尽くマイクロトフの存在を排除しようとする。心通わせた男から受ける暴力を、そうでもせねば到底耐えられぬ彼の保身を、だがマイクロトフは苛立ちをもってしか受け入れられない。
「今日は面白いものを見つけたぞ」
気を引くように囁いてもいっこうに返らぬ反応に、マイクロトフは無言のまま手にしていたものを寝台に投げた。
重い質感をもって敷布に弾んだのは皮製の鞄。カミューはのろのろと顔を巡らせた。
一瞬でも彼の心が自分から離れるのを許せない。マイクロトフはようやくこちらに意識を向けたカミューに満足した。
「ゴルドーの執務室に隠し戸棚があるのを知っていたか……? 今日、初めておれも気づいたのだが」 
言いながら、彼は空いた敷布の上に腰を落とした。カミューは鈍い、だが反骨だけは燻った瞳で鞄を開く男の手元を見た。
初めに取り出したのは、細くしなう小振りの鞭だった。無論、乗馬に用いるものとは異なる。明らかに人に向けて使われる類の品だった。不快そうに顔を背けようとしたカミューを引き止めたのは、続いて洩れた一言だった。
「これは……悪くないな」
鞭を敷布に投げ捨てたマイクロトフが次に手にしたのは、金属の手枷である。マチルダでは一般市民を繋ぐときには木製の、騎士などには鉄製の枷が使われるのが常だが、どうやらこれは未だ未使用の品であるらしく、艶やかな光沢を放っていた。
「……こんなものまであるぞ」
マイクロトフは苦笑混じりにまた一つ鞄の中身を暴いた。流石にそれにはカミューも微かに眉を寄せた。マイクロトフが手の中で弄んでいるのは雄を模る、真新しく黒光りした巨大な張り型。一度は上官として忠誠を捧げた男の嗜好に、吐き気を伴う不快を感じたのだろう、カミューは顔を背けて息をつく。
「神聖なるマチルダ騎士団長執務室に、このようなものが鎮座しているとは。まったく、騎士の風上にも置けぬ男だったな」
愉快そうに笑いながら、更に彼は鞄を探った。
「ところで、カミュー……これに見覚えはないか?」
マイクロトフが摘んで翳したのは、小さな銀色の鍵だった。握りの飾り部分に、過ぎし日の赤騎士団長を思わせるような鮮やかな紅玉がついている。
問われて然して興味もなさそうに目を向けたカミューが、ややはっとしたように目を見開いた。
「覚えがあるようだな……そう、ロックアックス城内における、おまえの部屋の鍵だ。ゴルドーの奴、何時の間にか合鍵など作っていたらしい」
マイクロトフは陰湿に笑った。
「これを見つけたときには……流石にはらわたが煮えたぞ」
彼は鍵の入っていた小箱から一片の紙切れを取り出した。
「何だかわかるか、カミュー? 納品書だ。日付は……おれたちがマチルダから離反して同盟軍に走った記念すべき日の二日前───」
そこでマイクロトフは喉の奥から不穏な笑い声を零した。
「危ないところだったな、カミュー……あのとき判断が遅れていたら、おまえは奴の餌食にされていたかもしれないぞ?」
「…………」
「わかっただろう、カミュー?」
殊更に優しい響きで囁きながら、マイクロトフはゆっくりとカミューの頬を撫でた。
「こうして……おまえを手に入れようとする輩は確実に存在する。そんなおまえを、一人でグラスランドに帰すことなど出来ると思うか?」
「…………」
「『自分の身は自分で守る』───そう言いたそうだな」
吐き出す言葉が矜持を刺激するたびに、カミューは僅かながら反応を返す。それが柔らかな感情でないとしても、すべてを放棄したような乾いた表情でなければマイクロトフは満足だった。カミューの瞳が自分を映していることの証になるからだ。
「……試してみるか? 実際、おまえが自力で身を守れるか……この、折角のゴルドーのコレクションを使わせていただいて?」
マイクロトフは取り出した品の中から手枷を握り締めた。カミューは身を引いたが、連日に及ぶ暴行まがいの交わりは、その動作から俊敏さを奪って久しかった。マイクロトフは足首を繋いだ鎖を引いて行動を抑制するなり、膝で敷布に倒したカミューの腹部を押さえ込み、片腕を取った。
「マイクロトフ……!」
抗う手首に枷をはめる乾いた音。またしても罪業が増えてゆく。マイクロトフは自虐と陶酔に薄ら笑った。
寝台頭部のパイプに鎖を絡め、自らを押し退けようと突っ張るもう片方の手首を掴んだ。熾烈なデュナン統一戦争当時よりも細くなった手首にそっとくちづけ、枷の片方を押し当てる。その頃にはカミューは無為な抗いを放棄していた。
縛めがひとつずつ増えるたび、彼の瞳は凍えてゆく。両腕まで自由を奪われ、寝台に張り付けられた青年は、ピンで止められた美しくも哀れな蝶のようだった。
「これはどうだ、カミュー?」
マイクロトフはそんな彼の青く透き通った頬に張り型を触れさせた。流石にぴくりと戦くなめらかな頬に、卑猥な先端部を食い込ませ、浮かんだ嫌悪と微かな怯えを堪能し───それから一気に唇を割った。
「……っ、う……」
巨大な張り型に口腔を犯され、生理的な苦痛に喘ぐ琥珀が潤んでくる。
毅然とした青年の垣間見せる苦悶と絶望、そして怯え。それは騎士として並んでいた頃には知らなかった表情だ。
この閉ざされた世界で初めて見たカミューの貌。未知を掘り探ることへの愉悦にマイクロトフは酔い、流された。
しばらく張り型を蠢かし、やがてゆっくりとそれを引き抜くと、溢れた唾液が淫らに細い糸を引いて伝い落ちた。青年の唾液を吸って更に光を増した皮作りの道具を醒めた目で一瞥し、マイクロトフは低く言う。
「案ずるな、こんなものは使わない。おまえの中に入るのはおれだけで充分だ……そうだろう?」
異物に掻き回された嫌悪に口元を押さえようにもままならぬカミューは、迫り上がる嘔吐感を堪えているのか、マイクロトフの言葉も耳に入らぬ様子で固く目を閉じて唇を震わせていた。そんな姿をいとおしく思う反面、拒絶の頑なさをも感じ、マイクロトフの胸はどす黒い悲憤に満ちた。
「そうだな……では、これはどうだ……?」
カミューはマイクロトフの摘み上げたものに今度こそはっきりと怯えた目を見開いた。小さな硝子の瓶に透ける蜂蜜色の液体。男の指が瓶を傾けると、それは粘着質に硝子の中を這った。
「ゴルドーの奴、余程自信がなかったのか……どう思う? 処方が書いてある。粘膜吸収用の薬物らしいぞ、『即効性・持続性に優れた新商品』、だそうだ」
「あ……」
珍しい玩具を与えられた子供の如く、楽しげに言葉を発するマイクロトフ。カミューはゆるりと視線を向けた男の意図を悟ったように微かに震えた。
「おまえは……いつも理性の鎖に縛られていたからな。いっそ何もかも捨ててしまえよ、カミュー。そうして、おれのことだけを考えてくれないか……?」
「マイクロトフ……嫌だ」
「逃げようなどと考えられなくなるほど……騎士団の未来も、グラスランドもすべて忘れて、溺れて狂えよ、カミュー」
「マイクロトフ……!!」

 

 

 

我が身に伸ばされる男の腕を歓喜して迎えた日々は遠い。
恋人の残忍な手が下肢を割る。カミューは掠れた悲鳴を上げながら、悪夢を振りはらわんと幾度もかぶりを振り続けた。

 

 

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