マイクロトフはゆっくりと屈み込み、床に渦巻く長い鎖を取り上げた。
それは通常騎士団で罪人を拘束するために使用されるものよりも、はるかに鎖部分が長く作られていた。城の倉庫の奥深く眠っていたもので、かつてマチルダ騎士団が発足する以前に近隣の領主が使っていたものといういわくつきの代物である。
長い鎖の両端の足枷に二人の罪人を繋ぎ、生き残った方を解放するという条件のもとに戦わせて楽しんだという、真相はともあれ忌まわしい過去を持つことは確かな品だ。
おそらく、そのようなものが城に残されていたことを知るものはないだろう。彼にしても、これほど好都合の枷を見つけられるとは思ってもいなかったのだから。
鎖のほぼ中央部分に炭の痕跡を認め、マイクロトフは苦笑った。
「無駄だ、カミュー。こんな屋内でこいつを燃やすような魔法を使うのは無謀だということはわかっているはずだ」
おそらく鎖が伸びるだけ寝台から離れ、警戒しながら紋章を使ったであろう姿を想像し、マイクロトフは首を振った。
「どうして逃げようなどとするのか、わからない」
「わからない……だと?」
初めて発せられた声は掠れていた。半ば感情を削ぎ取られたような響きが続く。
「本気で……言っているのか……」
マイクロトフは鎖を握っていた手の平から力を抜いた。ずるずると流れ落ちていく金属が、重い叫びを上げながら床に這う。
「マチルダ騎士団から消える……おまえの望みはちゃんと果たされているだろう?」
顔を上げたマイクロトフは、微笑みながら青年を見詰める。
元・赤騎士団長カミュー。
最愛の恋人。
端正で優美な、誇り高き騎士だった青年。
だが今は───彼だけの囚人。
「笑ってくれ、カミュー……いつものように」
「…………」
言いながら寝台の端に腰を落とすマイクロトフに、カミューは僅かに後退り、白い壁に背をつけた。出来得る限りに距離を保とうとする姿勢に仄かな痛みを覚えつつ、あえて無視して言い募る。
「おれはおまえの望み通り、団長職を受けた。それなりに順調に責務をこなしている。おまえの懸念していた騎士同士の確執とやらも、ランド殿らの協力を得て探りを入れながら調整している。すべてはおまえの望むままに動いている」
静かに言葉を紡ぎながら、彼は敷布に投げ出された白い足にそっと触れた。途端に総毛立ったようにびくりと身を震わせたカミューが、振り解くように足を引いた。
「……教えてくれ、マイクロトフ」
「何を?」
「どうして……こんな真似をする?」
それまで鈍い色を放っていた琥珀の瞳が、抑え切れない感情に支配されたように煌めいた。
「何故わたしを閉じ込める! もう……たくさんだ、おまえの茶番に付き合うのは───外せ! これを外せ!!」
自らの足首にしっかりと嵌められた枷から生えた鎖を鷲掴み、彼は悲痛な声で叫んだ。
黒い金属の幅広の輪。その下に申し訳のように巻かれた布は、無粋な金具がなめらかな肌を傷つけぬようにとの男の配慮。
「外したら逃げるだろう?」
くすりと笑ってマイクロトフは首を振る。あくまでも柔らかな調子がカミューを怯ませた。
「逃げて……グラスランドへ行くのだろう?」
「マイクロトフ……」
彼の優しい口調にカミューは顔を歪めた。やがて睨み付けていた目を伏せる。
「……ならば何故、あのとき笑って認めた? あんなにもあっさりと」
「決まっているだろう?」
マイクロトフはやれやれと溜め息を吐く。
「おまえの決心を変えることなど出来ないからだ」
「……それで後からこういう真似をする訳か」
苦悩を込めて搾り出されたうめきに、不意にマイクロトフが激昂した。
「おまえは!! 『決めた』と言ったのだぞ! こんなにも長い間ずっと一緒に生きてきたおれに一言の相談もなく! 残されるおれのことなど思い煩うこともせず!!」
力任せに真鍮のパイプを殴りつける。頑丈なそれがけたたましい悲鳴を上げるのにカミューは竦んだ。重いはずの寝台が揺れ、やがて納まるのをマイクロトフは無言で待つ。
「…………おれは所詮、おまえにとってその程度の価値しかなかったという訳だ」
「違……」
「相談する価値もない。残して行くのに躊躇わない。ならば……おれも好きにする。おれはおまえを逃がさないことに『決めた』んだ、カミュー」
「マ……」
「『心は変わらない』───ああ、ずっとおれもそう思っていた。たとえすべての人間がおれから遠ざかっていっても……おまえは変わらず傍に居ると信じていた。おまえが去ろうと考えていることなど思いもせず。おまえのすべてを理解しているというのは間違いだった。そんなにも不確かな『心』を、離れていてどうして信じることが出来る?」
いくばくかの哀しみを込めた視線が、ゆるりとカミューに向かう。彼は必死に言葉を探しているように見えた。どうせまた、得意の理屈で言いくるめようとしているのだろうと思うと、冷えた嘆きに満ちていた心に微かな怒りが湧いてくた。
最愛の者に対して感じる憤りは不当なものだと理性の何かが非難し、それが馴染み深い衝動に塗り変わるのを感じる。
「……『離れていても変わらない』? 笑わせるな、同じであろうはずがない。おれは───」
突如として気配を変えた男に、はっとカミューは身構えるように強張った。一瞬早く、マイクロトフは鎖を掴んで勢いよく引いた。足首に食い込む枷は、難なくカミューを敷布に引き摺り倒す。
「いつだっておまえが欲しいのに……」
明らかな情欲を滲ませた声。続いて圧し掛かった男の重みに形良い唇からうめきが洩れた。
「よせ!」
「……毎回同じことを言うんだな、おまえは」
含み笑ったマイクロトフはカミューの腕を抱き込むようにして抗いを捩じ伏せると、もがいて乱れたローブの裾に片手を差し入れた。
「おまえは? カミュー……おまえは? おれを欲しいとは言ってくれないのか……?」
「……マイクロトフ!」
もがきやまぬ肢体を巧みに敷布に押し伏せ、足で乗り上げて下肢の動きを封じる。内股を撫で上げた無骨な手の平が、丁寧に身体の線を辿り、ふと立ち止まる。
「それとも何か? おまえはグラスランドでこうしてくれる相手を見つける、とでも……?」
「───!!」
怒りに燃え上がった切れ長の眼差しが振り返ろうとしたが、叶わなかった。自ら発した言葉に激情を煽られたマイクロトフが、強引に指を進めたのだ。
「っ……!」
いきなり体内に捻じ込まれた圧迫に、カミューは声にならない喘ぎを吐いた。身悶えても、うつ伏せに押さえ込まれた身体は思うに任せず、かえって異物の侵攻を促してしまう。それでも抗わずにいられぬそれが彼の矜持であり、不本意な暴力への本能的な排斥であった。
「……折角長い鎖を探し出したのに」
ぽつりとマイクロトフが呟いた。
「湯を使わなかったのか……?」
「やめ───」
「……まあいい。後でまとめて綺麗にしてやるよ、カミュー」
昨夜の残滓にぬかるむそこは、カミューの意に反して男の愛撫を歓迎するかのように狂おしげな収斂を繰り返す。それが生理的な拒絶だったとしても、柔らかに締め上げる扉を開いた今、マイクロトフには引き返す道などなかった。
埋めていた指を乱暴に引き抜き、自らの衣服をもどかしく寛げる。膝でいっそう脚を割り開くなり、抱え上げた腰を無造作に引き寄せた。
ほんの少し前まで互いの想いと存在を確かめ合うはずだった行為。
優しい温もりに包まれる純粋で崇高だったときへの惜別か、ほの白い頬に伝った一筋の涙は、男の目に止まる前に敷布の海に埋もれていった。