その屋敷はロックアックス城から程近い、街を見下ろす丘の端にあった。
格調高き造りといい、絶景の淵に立つロケーションといい、本来ならば人々の垂涎となりそうな白亜の建物。
だがそれが何処か人目を寄せ付けぬ冷たさを発しているのは、屋敷が忌まわしくも悲しい記憶を秘めているからであろう。
かつてそこに住んでいた一家から後の始末を一任された商人も、屋敷の処分には難儀したようだ。
屋内に鎮座する秘密の部屋をそのままに、右から左へと流す訳にもいかない。一家の秘密は流石に人の口に昇ることはなかったが、そうした微妙な空気は何処からでも洩れ伝わるものである。
商人は一家から多額の金を受け取っていたし、ある意味良心的な人物であったため、悲劇の棲む家屋をただ儲けのために市場に出すことを躊躇った。そうして幾歳月も屋敷はそのままに、新たな主人を見出すこともなくひっそりと佇み続けたのである。
そんな忘れ去られた建物の話を最初に耳にしたのはいつだったか。
確かあれは出入りの武具屋からだったと思う。
聞くでもなく聞いた話が耳に残った理由はわからない。だが、その目ですべてを確かめる頃には心は定まっていた。
間を取り持つ商人は、幾度も幾度も問い直した。それこそ、商いを忘れたかのように。
彼は重い役目に相当苦しんでいたらしい。それでも客の決意が変わらないと見て取ると、殆ど投げ売りのような対価を提示し、挙げ句、屋敷の手入れまで申し出た。
過去を匂わすすべてを取り払い、塗り直し、磨き上げた。それが彼のせめてもの誠意であったのだろう。善意を総動員させた商人は、身に食い込んでいた荷を下ろしたような疲労を浮かべていたものだ。
屋敷は幾年も人を住まわせていなかったとは思えぬほどに蘇った。敷き詰められた絨毯の美しさ、交換された家具の重鎮さ。それはあるいは屋敷の新たな主人となる人間との結び付きを図ろうとする商人の、無意識の抜け目なさであったのかもしれないが、ともあれそうしたことに面倒を感じる契約人にはありがたいことであった。
最後にひとつだけ商人が口にしたことがある。
ここは立地もまことに良く、地位ある御方には理想的なお屋敷。価値ある住まいとなりましょう。
ただし、ゆめゆめお忘れになりませぬよう。あの部屋は無きものとなさいませ。
あれは屋敷の唯一の暗部、封じられるべき悲劇の住処。
決して開いてはなりませぬ。
あの部屋にだけは足を踏み入れませぬよう───
よい忠告だ───そう思う。
値を下げ、約定外の労力まで払いながら、なおも自らに残るわだかまりに苦しみ、歪んだ顔で訴えていた商人。
封じられた部屋を開くは閉じ込められた狂気の流失を招くとでも恐れるか。
それとも悲劇の住人の呼び声が、新たな狂気を生むとでも。
だが、そのいずれをも口にせず微笑んだまま了解を示した。必要なものを手に入れた以上、どのような進言も耳を擦り抜けてゆくばかりである。
愛するものを世のすべてから隔絶するための檻。
何よりも欲しかったのは、その一室だけだったのだから。
途中、幾つかの店に立ち寄った。
夜食と飲み物、そして一枚の毛布。
まだ冬の訪れは先になるが、そろそろ夜は冷える時期だ。こうして帰宅が遅くなれば、人気のない屋敷は外気に応じて室温を下げることだろう。
彼はやや馬の足を速め、我が家への途を急ぐ。
程なく目前に浮かび上がる建物は、輪郭を僅かに闇に溶かし、茫洋とした佇まいに見るものの目を奪う。
下馬して、ものみな死に絶えたような静寂に包まれた屋敷の門を開くと、獣の唸りにも似た音がした。どうやら商人は家屋の修復には念を入れたようだが、屋外までは気が回らなかったようである。
小さな厩舎に手早く愛馬を追い込むと、彼は足早に屋敷の扉に向かう石段を駆け上がった。隠しに入れた鍵を出す間も惜しく、扉を開くなり足元に常備してある燭台に火を入れる。
やはり長いこと人に見捨てられてきた建物だけあり、室内は湿った空気を醸している。昼日中に差し込む陽光だけでは、広い屋敷中を乾かすことが出来ないのかもしれなかった。
彼は真っ直ぐ居間へと向かい、暖炉にも火を落とした。この時期、まだ火を炊く寒さではないが、気分を暗鬱にさせる湿気を厭ったためだ。
あちらこちらに点在する明かりのすべてを灯すと、ようやく人の棲む部屋らしくなる。彼は満足して青き騎士服の上着を脱いで、愛剣と共にソファに放った。
どっしりとした趣のあるソファは、商人が選んで置いていったものだ。主人の気配に合わせたのか、余計な装飾はなく、実用を第一に考えた頑丈な造りの品である。
室内を見渡せば、いずれも厳格な家具が取り揃えられている。だが、実際に居住の体裁を整えているのはここと二階の寝室一間だけであり、残りの多くの部屋はただ空間が広がるばかりの様相なのであった。
彼はゆるりと部屋の隅に置かれた本棚に歩み寄り、目当ての数冊の書物を取り出すと、空いた隙間に手を入れた。指先が冷たい取っ手を探り当て、軽く引くと室内に微かな金属音が響いた。
書物を元に戻し、本棚の横に立つ。そこには一枚の大きなタペストリーが飾ってあった。
図柄は勇壮たる騎士団のもの。
かつてハイランドに支配されたマチルダ騎士団が、英雄ゲンカクに導かれて解放を勝ち取った戦い。その勝利を叫びあう勇者たちが描かれた綿密な細工の品である。これは、商人が彼に希望を取って手配した唯一の品だった。
壁の多くを覆い尽くす布を取り去ると、うっすらと亀裂が見えてくる。職人の完璧に近い作業によって殆ど目立たなく処理されたそれは、紛れもない別室への入り口であった。
彼はその亀裂に手を掛け、ゆっくりと圧力をかけた。ずっしりした重みが腕にかかる感触は、幾度味わっても胸を弾ませる。
回転扉のように中央を心棒にして扉はくるりと一巡し、侵入者を内部に招き入れると、再び元通りにすっぽりと穴を埋めた。まったく見事に計算された仕事である。左右が完全に対照でなければ、これほどぴったりと扉がはまることはないだろう。
それは即ち熟練した職人を招くだけの財を、かつての主が持っていたという証明であり、そこに隠匿した秘密を決して外部に洩らすまいという涙ぐましい決意でもあったわけだ。
室内は最初彼が想像していた以上に広かった。生活に必要なすべてをそこでまかなえるよう、浴室まで設えてある。
初めはそれを我が子への愛情とばかり感じたが、やがて気づいた。
多くの打算の結晶なのだ、と。
広い空間は囚人を容易に逃がさぬため───そして整えられた設備は囚人を人目に晒す危険を避けるため。
愛と打算。人とは何と哀しいものだろう。
明かり取りの窓が高い位置に一つだけある。流石に密閉されていてはとの思い遣りだったのだろうが、それでもこの広い部屋に対して子供さえ通らないような窓は小さ過ぎる。今日は晴天だったにも関わらず部屋はひんやりとしていて、陽光の恩恵の貧しさを窺わせた。
余計な品の一切ない広々とした世界。明かりを灯すたびに異質が暴かれていく。小さなサイドテーブルひとつと、浴室に続く扉だけが飾りとなっている室内は、まさに人を凝らせる居住まいだ。
過去に少女の血を吸った床は丁寧に塗り直され、更に真新しい絨毯で覆われていた。使うなと散々念を押しながら、それでいて放置しておくことの出来なかった商人の気質を微笑ましくも思う。
ふと足元に目を落とし、彼は目を細めた。
室内のほぼ中央に無造作に投げ捨てられた毛布。ゆっくりと取り上げてみると、布地と絨毯の双方に微かな焼け焦げの痕跡が見て取れた。
苦笑しながら毛布を投げ、小声で切り出す。
「遅くなってすまなかった」
そのまま部屋を横切って、数少ない家具であるサイドテーブルを覗いて眉を寄せる。
「……何だ、食べなかったのか……? 確かに独りで取る食事は味気ないものだとは思うが」
やや硬くなったパンを突付いて溜め息を吐くと、彼はトレイを持って歩き出した。来たときと同じように隠し扉を押して居間に戻ると、まだ湯気の立つ料理一式を乗せ換えて再び扉の中に入る。
「もう少しで店が閉まってしまうところだった。一緒にやろう」
微笑みながらトレイをサイドテーブルに置き、小脇に挟んで来たワインのボトルを揺らしてみせる。
「いい銘柄が手に入った。気に入ると思うぞ?」
───沈黙が答えた。
「……今日、ランド殿と話をした。聡い人物だな、『一を聞いて十を悟る』と評されている意味がわかった。おまけにさり気無く情報にも通じている。得難い人材だ、本当に」
彼はボトルを開けると用意した二つのグラスに均等に酒を注ぎ分け、ひとつを取り上げ芳香を楽しんだ。
「悪くない。それと───毛布を買ってきた。虫の知らせとでも言うのだろうか……、まさか前のを駄目にしていたとは思わなかったがな」
くす、と笑いを洩らして彼は言う。
「昼間、寒くはないか? ああ……火遊びをしたのはその所為とは言わないだろう? ほどほどにしてくれ、万一のことがあったらどうする? おれは城にいるのだから、駆けつけるにも限度がある」
彼は立ち尽くしたままグラスを明かりに翳し、ワインの色に見入った。それは毒々しいまでに鮮やかな真紅。炎に揺れて陰鬱な輝きを発している。
「全騎士団長職は思ったよりも雑務が多いな。なかなか段取りが掴めない。だが、もう少し軌道に乗れば休みを取ることも可能になると思うんだ。もう少し……もう少しだけ我慢して待っていてくれ」
声は次第に甘さを含み、決して他の者の聞いたことのない執着を漂わせ始めた。
「そうしたら───ずっとここにいる。独りになどしないで……昼も夜も離れずに」
初めてのいらえ。
それは微かな衣擦れであった。
扉から一番奥の壁に鎮座する、おそらくこの部屋で一番金銭をかけたであろう調度。古風な真鍮のパイプによって組み上げられた、一見繊細な、だが実際は驚嘆するほどの重みと強度の潜む寝台。
ときに荒れ狂う狂人を拘束するための必要に駆られ、かつての住人が特注したらしいそれは、流石に枠組み以外のものは新調されていたが、今もなお同じ役目を忠実に果たしている。
密やかに寝台の上に半身を起こす影。
柔らかに寝乱れた淡い栗色の髪、血の気を失った蒼い頬。
薄い夜着の上着と、更にその上に濃紺のローブ一枚を羽織っただけの姿は、この部屋にあってはひどく寒々しく見える。
深みを持った紺のローブの裾から覗く脛は、純白の敷布に溶けるばかりに白く、見守る男の目を引き寄せずにはいない。
そして───その片足首には黒く光る金属の枷。
枷は鎖を育んで、それを真鍮の枠に届けていた。繋ぎ止めた青年が身じろぐにつれ、無機質な鋼の音が揺れ始める。
青年が完全に寝台に身を起こすと、敷布に眠っていた鎖の一部が重苦しい音を立てながら床に落ち、大きなとぐろを巻いた。
「おまえと共に───カミュー……」
鈍く光る琥珀の双眸が、彼を間近に見返していた。