秘めやかに夜の帳に覆われるロックアックス城。
マチルダ騎士団領を象徴する荘厳な城。闇に浮かび上がる白き石造りの建物は、何処か他者を寄せ付けない凍れる城と、今まさに夜の貌に姿を変えようとしている。
その最上階に位置する執務室、すべての騎士の頂点となるべき者に与えられた一室で、一人の青年が書面から物憂げに目を上げた。
夜の色の髪、闇よりも深い深淵を湛えた瞳。
誰もが知る生真面目な気質を現す厳しい表情、笑みすら隠した引き結んだ口元。
纏う青き衣は、卓上に揺れる明かりと窓から差し込む月明りに、普段よりも暗い色を放っていた。
彼はゆるりと時計に目を向け、それから一つ息を吐いて書類を引き出しに放り込んだ。
無駄のない動作で立ち上がり、明かりを落として部屋を出る。
足早に廊下を行く彼とすれ違うたび、騎士たちは崇拝の眼差しで礼を取り、その雄々しき後ろ姿を見送った。
「マイクロトフ様」
ふと背後に掛かった声に、彼は振り返る。そこには壮年の騎士が深い思慮を含んだ瞳で彼を見詰めていた。
「……ランド殿」
所属の異なる赤騎士団の副長に、だが彼は敬意を込めて返す。立場上では上の地位であろうと、彼は常に年長の騎士にそうした礼を尽くすのだった。
「退出なされますか?」
柔和に笑みながら近寄ってきた男の、だが真に喉につかえている言葉を察しているマイクロトフは、それでも軽く頷いて同意した。
「すっかり遅くなってしまったが」
「あまりご無理をなさいませぬよう。何事も一度には捗らないものです」
「そうだな───確かに」
「……如何でございますか、団長職は……何か不都合がありますれば、我ら一同、善処申し上げますが……」
「……はっきり言って、まだ実感がない。おれには過ぎた役目だ」
「そのような」
ひっそりと笑ったランドは、終に感極まったといった様子で顔を歪めた。それを見たマイクロトフは、静かに男の内心に淀む言葉を口にした。
「……あいつがいてくれれば、な」
マチルダ騎士団領は過去に二度、他国に跪いた。
その苦い記憶は騎士団に教訓となって刻まれている。
先般デュナン一帯を吹き荒れた統一戦争において、マチルダ騎士団は壊滅的な痛手を受けた。主義の違いから多数の騎士が離反して、互いに相争ったのだ。
結果として勝利を得たのは離反組の騎士が身を寄せた同盟軍側。
崩れた騎士団を立て直すために帰還した離反騎士らは、困難の末にようやく新たな支配体制を固めようとしていた。
そんな折────
マイクロトフと共に、騎士団の中枢となって再建のため尽力してきた赤騎士団長カミューが出奔した。
彼は絶大なカリスマ性を持って赤騎士団に君臨してきた指導者だった。
常に柔和な笑みを湛え、相棒であるマイクロトフの直情的な性質を抑えつつ、穏やかに道筋を整える役割を果たしてきた、騎士団にとってなくてはならない存在であった。
その突然の消失は数々の噂を呼び、多くの騎士を嘆かせ、捜索の網を張り巡らせる事件となったのだ。
だが────
必死の追跡も空しく、彼の行方は忽然として判明しなかった。
もともと物事に対する執着の薄い青年として知られるカミューが、身辺の一切を残して消えたことを不思議に思う者はいない。
ただ独り、事情を知るであろうと周囲に思われたマイクロトフでさえ、詰め寄る騎士たちに返す言葉を持たなかったことが彼らを驚かせはしたが。
おそらく、と次第に騎士達は苦い結論に辿り着く。
カミューは騎士団の未来のために姿を消したのであろう、と。
あのままゆけば、マチルダ騎士団を指導していくのはマイクロトフとカミュー、二人の役目となっただろう。だが、ひとつの集団に二人の権力者が並び立つことの不安定さを、彼らは漠然と悟っていた。
たとえ両者の関係がどれほど固く結ばれていても、人の集まりとは恐ろしいものだ。当人たちが気づかぬうちに、派閥というものは出来る。マイクロトフとカミュー、両者を熱烈に信奉する者同士の間に軋轢が生まれない保証はないのだ。
ただでさえマチルダ騎士団は不安材料を残していた。同盟軍に参加した騎士たちと、残った騎士たちの間には、目には見えない瑣末な溝がある。共に手を携えて騎士団を立て直すことに努めたとは言え、一度は剣を交えた記憶を、容易く過去に葬ることは出来ないのだ。
この上、頭が二つに分かれれば、更に複雑な人脈が跋扈し、騎士団の未来には良からぬ影響を与えるに違いない───あの聡い赤騎士団長は、それを案じたのだろう。
自らが退くことによって、将来への懸念を払拭しようとしたのだろう。
それが、騎士たちの導き出した切ない結論であった。
それでも諦めきれずに探索の手を伸ばさずにはいられない赤騎士たちの思慕は、マイクロトフにも理解出来る。
……こうして目の前にいるランドが密かに嗚咽を堪えていることも。
「今頃、どうなさっておられるのでしょう……」
低く洩れた男の声に、マイクロトフはついと視線を窓の外に投げた。
「おそらく……グラスランドあたりをふらふらしていることだろうな」
「グラスランド……カミュー様はグラスランドへ向かわれたのですか?!」
「あいつは……、いつだって故郷を懐かしがっていた」
マイクロトフはそのままゆっくり窓辺に寄ると、窓の遠く、遥か西を見遣った。
「そんな素振りを見せたことはないし、一度とて口にしたことはなかったが……いつも西の空を探していた。このマチルダを故国とする我らには、おそらく一生理解出来ない郷愁……というものなのだろうな」
「郷愁……」
ランドは苦しげに呟くと、静かに目を伏せた。
飄々としていた赤騎士団長。風に吹かれて何時の間にか住処を変えるような、そんな掴み所のなかった青年を思い出しているのだろう。
彼はしばらく黙した後、気を取り直したように顔を上げた。
「いつかは───お戻りになられますな……」
「ああ」
マイクロトフは振り向いて笑った。
「だからこそ、何も言わずに消えたのだろう。あいつらしいと言えばあいつらしい。おれたちは、今、己の為すべきことをすればいい。あいつはそう望んでいる筈だ」
「マイクロトフ様……」
ランドは眩しげに彼を見上げた。
「……僭越ですが……ご立派になられましたな。我がマチルダ騎士団長として、比類なきご決意でおられます」
「……あいつの分まで、おれがしっかりせねばと思うからな」
苦笑混じりに答えた彼に、ランドはようやく笑みを見せた。
「それはそうと……、城下に屋敷をお求めになられたと伺いましたが」
「……耳が早いな、まだ先週のことなのだが」
「それはもう」
ランドはにっこりした。
「こうした噂は一気に広まるものです。ついでながら、いよいよマイクロトフ様が身を固められるのかという噂も流れておりますぞ?」
「参ったな……」
マイクロトフは生真面目な表情をやや赤らめて、気恥ずかしげに黒髪を掻き乱した。
「して、事の真意は如何なもので?」
話題が明るいものに移ったことで、にこやかに追求するランドに一際困惑しながら、彼は小声で切り出した。
「大切な人を……住まわせている」
壮年の赤騎士団副長は、ぱっと顔を輝かせた。さながら息子に対するかのような温かな眼差しが真っ直ぐにマイクロトフに向けられた。
「それは……! おめでとうございます。何故、正式に披露目をなさらぬので? 我が騎士団長のご婚儀であれば、マチルダを挙げての祝賀の宴を───」
「……頼む、そう大事にしないで欲しい」
マイクロトフはやや沈んだ声でランドを制した。その響きに込められたものを感じ取り、ランドは眉を寄せた。
「マイクロトフ様……?」
「実は───披露目をすることが出来ないのだ……障りがあって」
朴訥な男の途切れがちな告白。
その沈痛な面持ちの意味することを、機微に聡いランドは即座に推し量った。
衆目に晒すことの出来ない訳ありの乙女であろうか、あるいはその背後にあるものがそうさせるのか。
理由の如何はともあれ、マイクロトフの性格ならば喜びを隠しておくことなど出来ない筈だ。伏せたということは、それだけ問題が重いということなのだろう、ランドは反射の速度でそこまで導き出した。
「も……申し訳ございません。久々の慶事と……つい……」
「いや、気にしないでくれ。それに」
言いさして、彼は再び窓の外を見る。敏感なランドは目を細めて頷いた。
「……左様でございますな……誰よりもマイクロトフ様のお幸せを最初に伝えるべき御方がおいででしたな」
「ランド殿」
マイクロトフは穏やかに微笑み、頷くことで小さく同意を告げた。
「そういう訳で……今は城に詰めることが出来ない。そのあたりは我侭を通して申し訳ないと思うが───」
「いえいえ、そのような」
彼は鷹揚に首を振った。
「そこまで我らは無粋ではございませんとも。それより、打ち明けてくださったことを感謝申し上げます。今後、出来得る限りの便宜を寄せさせていただきましょう」
「感謝する……───本当に」
長々と話し込んだことを詫びながら赤騎士団副長が踵を返した。
その背中は何処か不思議な気配を醸している。最愛の上官の喪失の痛みと、新たな権力者の慶事への祝賀とが渾然となった、複雑な感情が溢れているようだった。
しばらくその場に立ち尽くしていたマイクロトフは、男の影が回廊を曲がるのを見届けた刹那、纏った空気を一変させた。
険しい、だが誠実さに満ちた表情が、陰影を潜ませた凍れる瞳に支配されていく───
口元に浮かんだのは、周囲の誰一人として見たことのない薄い笑い。
やや細められた目許には鈍い光が揺れている。
「障りがある、か」
くっ、と洩れた忍び笑いが周囲の湿度を上げ、床に落ちた長い影が密やかに深みを増した。
「嘘は言っていない。嘘は……」
マイクロトフはもう一度窓の彼方に視線を向けると、喉の奥で呟いた。
「───そうだろう、カミュー……?」