刻は夜半過ぎ、家人はすでに深い眠りの中にある。
訪れた赤騎士隊長を見送った後、幾度も後を追いたい衝動に駆られながらマイクロトフは耐えた。
自室の窓からは往来が見えない。家人が寝静まるのを待って夜着の上にローブを引っ掛け、廊下の窓辺に立った。人気の絶えた街路を見下ろし、深く嘆息する。
待つのは苦手だ───慕わしい友が危地に陥っているならばなおのこと。
騎士団において毒殺が企てられるなど、一度として考えたことが無かった。まして、カミューが当事者となる日が来ようとは。失意と憤怒が込み上げる。
確かに誰もが認めるように、マイクロトフという人間はそうした暗部を受け入れることが出来ない男だった。騎士として紛れもなく汚れなき王道を進もうとしている彼にはニールという騎士隊長の心情が口惜しいばかりだ。
己よりも優れた相手に敬意を抱く、マイクロトフには至極当然の感情は、だが必ずしもすべてのものに当てはまる純粋ではない。そのことを、ここへきて漸く漠然と理解し始めるマイクロトフだった。
他団の騎士である自分が赤騎士団の内情に深く関われないことは、流石にマイクロトフでも同意せざるを得ない。ローウェルのカミューへの傾倒はマイクロトフの目にも明らかであるし、此度の役割に彼ほど相応しい人物はないだろうということも朧げながら感じている。
───それでも切なかった。
今、戦っているであろう友に何の助力も出来ないことが、こうして無事を祈るしかない己の無力さが。
マイクロトフはもう一度溜め息をついた。
カミューを迎えよ、そう命じられたけれど、その言葉の何と虚しいことか。自団の仲間に牙を向けられて傷つくであろう彼が、その痛みを独り抱き込む姿は想像に難くない。誰よりも近しく存在していると自負していても、カミューのうちに他者に頼らざる姿勢があることをマイクロトフは知っている。
だからこそ、薄暗い街路に馬が止まったとき息を飲んだ。淡い街路灯に浮かぶ細身の肢体、屋敷を眺め遣りながら躊躇うかのように俯く姿を見た途端、マイクロトフは駆け出していた。
家人を起こさぬよう精一杯努めながら、それでも脱兎の如く階段を駆け下りて、もどかしく施錠を解く。
「カミュー!」
潜められた、だが鋭い呼び掛け。馬上でカミューは驚いたように目を見張った。
「マイクロトフ……? ど、どうしたんだい?」
どうしたとはこちらの台詞だ、そう心中で呟くなり靴を引っ掛けて門まで飛び出した。反射的に進み出そうとした馬の手綱を慌てて引くと、引き攣った笑みを浮かべる。
「いや……窓からおまえが見えたから。驚いた」
「……わたしだって驚いたよ。おまえがこの時間に起きているとは思わなかった」
常と変わらぬ穏やかな響き。マイクロトフは唇を噛み、それから務めて明るく言う。
「入れよ、カミュー……これから街外れのあの家まで帰るのは大変だろう、泊まっていけ」
カミューは僅かに口を開き掛けたが、次には小さく頷いた。下馬する仕草にもいつもと変わるところはなかった。やはりローウェルは間に合ったのだとマイクロトフは安堵の息を吐く。
厩舎に簡単に馬を繋ぎ、二階の居室へ向かう間、終にカミューは一言も口にしようとはしなかった。
日頃この家を宿とするときには客間を使う。だからカミューはマイクロトフが開け放った自室の扉に小首を傾げた。
「少し前まで火を入れていたから、こちらの部屋の方が暖かいぞ」
隣の客間は不意の来客を迎えるには冷えている。それを慮った気遣いだったのだ。
暫し躊躇したカミューだったが、そのまま友の部屋に滑り込んだ。何をどう切り出せばいいのか、気まずい沈黙に困り果てているマイクロトフを一瞥し、ふっと微笑む。
「……隠し事の出来ない男だね。聞けばいい、『大丈夫だったのか』とか『身体は何ともないか』とか……『相手はどうなった』とか」
早速核心に触れられたマイクロトフは首を振って椅子を引き寄せた。それを見届けてカミューは寝台の端に腰を落とす。
「……聞いてもいいのか?」
「どうせ粗方知っているんだろう? わたしはおまえにしか行き先を告げていなかった」
「ローウェル殿が来られて……、その、……」
束の間迷った後には一気に感情が迸った。
「間に合ったのだな、良かった……! おまえが毒を盛られるかもしれないと聞いて、心臓が潰れそうだった。だが、赤騎士団の内情だからと同行を許してもらえなくて……。飲まずに済んだのだな、ああ……カミュー」
そこでマイクロトフはくしゃくしゃと髪を掻き毟った。
「何故だ?! 何故こんなことが起きる? おまえは誰よりも誇り高い最高の騎士なのに……何故それを認めようとしない者がいるんだ?」
「………………」
「第四騎士隊長はどうなった?」
「……捕縛されたよ。詮議にかけられる、……処罰はわたしの関与するところではない」
「おれがいたら、間違いなく斬っていた!」
拳を震わせる生真面目な若者を静かな目で見詰めていたが、やがてカミューは俯いた。
───そうか、これがそうなのか。
たとえもし、あのまま命を落としていたとしても、この友人に怒りの刃など握って欲しいとは思わなかっただろう。
大切に思うものの手を汚濁から遠ざけたい、これがもしかしたら『彼ら』の言っていたことなのかもしれない。
故郷を離れてより、常に独りで戦ってきたカミューにとって他者を無条件で信じるということは何よりも難しい行為のひとつだ。己を護ってきた見えない鎧を取り去ることに等しいし、荒らされたくない心の領域に他者を招き入れることだから。
唯一それを許した相手がマイクロトフだった。
あるときは強引に、あるときは温もりで、凍れる壁の内側に侵入を果たした男。
マイクロトフと同じものを、彼らは差し出そうとしているのか。何ら見返りを求めぬ、純粋で強靱な誠実を。
───ならば、進み出すべきなのかもしれない。
未だマイクロトフにさえ伝えていない暗い習慣、身に注ぐ毒の代わりに彼らの誠実を飲み干せばいいのだ。
そこで裏切られるなら、それも運なのだろう。たとえ預けた信頼に背を向けられる日が来ても、たった独り、この男だけは残るだろうから───
「……疲れた」
ポツリと呟いてカミューは上体を寝台に倒して目を閉じた。それを見てマイクロトフは同じように寝台の端に座り直す。
「寝るならちゃんと横になって寝ろよ、カミュー」
「おまえのベッドを強奪しようとは思わないよ。少し休んだら隣に移る」
「構わない、おれが隣の客間を使う」
「あの部屋が寒いと言ったのはおまえじゃないか」
「……ならばいったいどうしろと言うんだ」
大仰に嘆息したマイクロトフだったが、次の刹那はっと息を詰めた。
無造作に寝台に倒れたカミューの眦を細い雫が伝っている。
見てはいけないものを見たように慌てて視線を逸らしたものの、知らず瞳が引き寄せられてしまう。
それが生理的なものであるのか、あるいは情感からくる涙なのか、マイクロトフには今ひとつ理解しかねた。ただ、カミューが他者の前で無防備に涙を零すなど考えられず、切羽詰った心地に陥る。
幾度も躊躇した上で、彼は自身の掌でカミューの目元を隠した。自分ならば見られたくないと思うのと同時に、いたたまれない切なさを掻き立てられて、見るに忍びなかったのだ。
大きな手で顔半分を隠されながらカミューは薄く笑った。
泣くときには胸を貸す、いつでも傍にいる───恥ずかしげもなくそんな宣誓をしておきながら、いざ実践してみれば狼狽えるばかりのマイクロトフ。
この男の純粋に、幾度救われたことだろう。
でも、教えない。
不器用で鈍感な年下の男に支えられっぱなしという事実に釈然としないから。
黙したカミューをちらちらと窺っていたマイクロトフだが、ふと気になってたまらなかったことを口にしてみた。
「カミュー……何故、訪ねてきてくれた?」
「お邪魔だったら出ていくさ」
軽い揶揄で返したものの、カミューもその問いには盲点を衝かれたような気がした。
ニールの屋敷を出て、気づけばここへ向かっていた。
この時間に家人を起こすつもりはなかったし、毒によって幾分身体がだるいのは事実だ。街外れの自宅に戻るのが億劫なら、近場の宿屋、あるいは付き合いのある乙女の部屋に転がり込んでも良かったのだ。
己の行動を分析しながらカミューは茫然とした。
「……これは些かまずい事態だ」
独言のように洩らすのにマイクロトフはきょとんと瞬く。
「何が?」
今宵、騎士団の醜悪と誠実に直面した。
疲れた身体と様々な葛藤に揺れる心を委ねる相手に、カミューは無意識にマイクロトフを選んだ。
気の効いた助言を為せるでもない、柔らかな乙女でもない、どちらかというと真っ直ぐすぎて脱力させられることが多い男の傍らが、だが彼にとって最も安らげる場所となっていたのだ。
カミューは苛立たしげに目元を覆っていた手を外し、もぞもぞと寝台の中央に移動した。それからプイと背を向けて憮然と吐き捨てる。
「……釈然としない」
「だから、何がだ? 何を怒っているんだ?」
「何でもいい。やっぱりおまえは隣で寝ろ」
いつのまにかカミューの中で思う以上に大きな存在になっていた男は、鋭い命令に束の間困惑したように首を傾げていた。が、やがて腕力に任せてカミューを壁際に押し遣り、空いた隙間にごろりと身を投げた。
「な……何をしている?!」
珍しく狼狽した声を上げたカミューに返されたのは、ひどく真面目な口調だった。
「隣と言われても、おまえが真ん中に寝ていては横になれない」
「誰がわたしの隣に寝ろと言った! 狭いじゃないか」
「お互い様だ。苦難も分かち合おう、カミュー」
家人に気を配りながら、依然潜めた声で文句を並べ立てるカミューだが、マイクロトフは笑いながら目を閉じた。
彼が何に気分を害したのかは定かではなかったが、今、たったひとつだけ自信が持てたのだ。
───カミューが憂さを晴らすために求める相手、それは自分ひとりなのだと。
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