「貴様は邪魔なのだ、カミュー」
ゆっくりと卓の周りを伝って間近に寄った男が殊更に優しく告げる。息を弾ませて睨み据える青年の柔らかな髪を掴み、強引に仰向かせた。
「グラスランドの野育ちの分際で、よもやここまで位階を得るとはな。一応は褒めておいてやろう」
だが、とニールは力を込めてカミューを椅子から引き摺り倒す冷たい床に叩き付けられ、カミューは低くうめいた。
剣は屋敷を訪ねる際の礼として迎えた使用人に預けてしまっている。身を守るすべを持たぬ彼は、霞む視界を瞬時に巡らせた。
壁に掲げられている対の剣がある。装飾品では殺傷力には欠けるかもしれないが、丸腰よりはマシだ。カミューは震える四肢を叱咤して身を起こそうとした。
「……妙だな」
ニールは目前に紙包みを翳して首を傾げた。
「即効性と聞いて大枚払ったというのに……」
「ニール殿」
息を乱し、胸元を押さえて苦痛を堪えるカミューの声は、だがひどく静かだった。
「理なく他者を貶めるなかれ───騎士の心得・第12条項の7、……お忘れか」
距離を保ちながら壁の剣を窺う。ニールも彼の企みは承知していたらしく、笑みながら壁との間に割って入った。
「やはり抜け目がないな、カミュー……だが、どうだ? そろそろ苦しくなってきたのではないか?」
「……今、わたしが死ねば、真っ先に疑われるとはお思いにならないか」
そうだな、とニールは目を細めた。
「だが……今宵、貴様がここへ来ていることを誰が知る? 貴様は常に周囲に一歩距離を取っている。私生活を洩らす相手も碌になかろう?」
そこでカミューは小さく苦笑した。
───まったくおまえという男は、何処までもわたしの味方なのだね。
「生憎、どうやら……わたしには強運の守護星が……ついているらしい……」
それを聞くと、ニールは怪訝そうに顔をしかめた。束の間黙したが、すぐに首を振る。
「ならば趣向を変える。帰宅の途につく貴様の目撃者を作ることにしよう」
そうして見詰めた瞳には暗い狂気が宿っていた。
「案ずるな、墓くらいは作ってやる。庭の片隅に貴様を埋め、その上に花壇でも設えてやろう。グラスランドの花が良いか? そのくらいは希望を叶えてやるぞ」
「………………」
「失踪の理由は……そうだな、不相応な地位への重責に耐えかねて……というのはどうだ?」
ああ───本当におまえには知って欲しくない世界だよ、……マイクロトフ。
「……効かぬな……まあ、いい。貴様も剣で命を落とす方が好ましかろう。ではな、カミュー。あの世への道程も他人を蹴落として進むがいい」
白刃が振り翳された。
満足に動かぬ四肢に向けて、カミューが渾身の指示を放とうとした刹那。
「そこまでだ、ニール!」
煌びやかな広間の扉を蹴破る勢いで複数の男が飛び込んできた。先頭をきって駆け寄るなり、床に崩れたカミューを跨いでいたニールを殴り飛ばしたのは赤騎士隊長ローウェルである。
「な、な……」
床に転がり、呆気に取られたように闖入者を見回している男に、雄々しき声が叫んだ。
「貴様の如き輩には、抜く剣も持ち合わせぬ!」
なおも怒りおさまらぬといった表情で、ローウェルは配下の赤騎士たちに捕縛を命ずる。
その一方で倒れたカミューを抱え上げたのは赤騎士団・第二隊長であった。
「ランド……隊長……?」
突然の展開に戸惑うばかりのカミューを見詰める穏やかな眼差しに痛みが過ぎる。彼は懐から小さなボトルを取り出した。片手で栓を抜き去って、注ぎ口を唇にあてがう。
「飲みなさい」
「要り、ません……」
「案ずるな、怪しいものではない。わたしが処方した解毒剤だ」
「必要……ありません」
頑なに拒絶する青年にランドは顔を歪めた。
「死にたいのか!!」
激昂したように叫ぶなり、彼は自ら液体を含んだ。それから片手で青年の顎を掴み、強引に口移しで流し込む。一瞬細い肩が強張ったが、回された手はいっそう力を強めて解放を許さなかった。
カミューが解毒剤を嚥下したのを確認した上で、ランドは重ねた唇を離した。それから深い溜め息をつく。
「……ひどい味だ。すまんな、カミュー。だが、効き目は顕然だ。我慢しなさい」
熱に浮かされたように潤んでいる琥珀に向けて、温かな笑みが浮かんだ。
「間に合ってよかった。よもやこれほどの慮外者とは……まったく嘆かわしいことだ」
ちらと移された視線の先で、放心したように自団の騎士に縄をかけられている男が在る。逃れようもない現場に踏み込まれたニールには、もはや何かを考えるだけの力が残されていないようであった。
第四騎士隊長を捕縛した騎士らが伺いを立てるかのように見詰めるのに、ランドは重く頷いた。
「よいな、詮議の日まで……ここで見たことは内密に」
「心得ております、ランド隊長」
一人が代表するかたちで礼を取り、別の一人がおずおずと進み出て一振りの剣を差し出した。屋敷の者に預けたカミューの愛剣ユーライアだった。その騎士は幾度も躊躇しながら、小さく言う。
「……間に合って何よりでした、……カミュー隊長」
「行け、ラスタ副長にご報告を忘れるな」
「拝命致します、では」
騎士らは一礼してニールを囲みながら広間を出て行った。残された三人に沈黙が降りる。ニールを殴ったときについた血に気づいたローウェルが、卓を覆うレースで不快そうに拳を拭っていた。
「お二方とも、何故……?」
漸く支え起こすランドの腕から零れ出てカミューが問うと、傍らに片膝を折った二人が顔を見合わせた。口を開いたのはランドである。
「実はニールを探っていたのだ。今朝方、街の巡回任務中に彼は劇物を入手した。しかし……よもや即座に行動に移そうとは思わなかった」
「探る……? 何のためにです……?」
すると二人は虚を衝かれたように瞬いた。それから言い難そうにローウェルが答える。
「あの男がそうした行動に出る可能性を見たからだ。カミュー殿……その、あなたはまったくその可能性を考えなかったのか……?」
カミューはゆっくりと座り直し、眩暈を振り払うために首を振る。それから彼らを見詰めた琥珀には得も言われぬ情念が漂っていた。
「如何なるときも礼を忘れず、正義と信念のため剣を取り───節度をもってつとめに臨み、敵対するものにも憎悪を向けず。騎士の叙位を受ける際にエンブレムに捧げた誓いです」
淡々と言い募った次には凍りつく声が響く。
「───だからといって、それをすべて真に受けるほどわたしは純粋な人間ではありません」
緩やかに彷徨ったカミューの瞳は、ニールが取り落とした剣と白い紙包み、更にはランドが床に置いた解毒剤のボトルを捉えた。そこで自嘲めいた笑みが洩れる。
「お気遣いいただいたことには感謝します。けれど……本当に必要なかったのです、ランド隊長」
「カミュー……?」
「わたしに毒物は効きません」
冷え切った目線が男を射抜いた。
「慣らしてあるのです、およそ用いられる数々の薬物に」
「何……だと?」
驚愕に近い表情でランドは絶句し、ローウェルもまた目を剥いた。暫し言葉も出ない男たちを宥めるような柔らかな口調が続ける。
「まだわたしが従騎士だった頃、騎士試験に臨む資格者を決めるための最終選考試合の前日……、従騎士仲間から茶を振舞われました。その直後、気分が悪くなって数日寝込みました」
「………………」
「漸く起き上がれるようになったときには選考試合は終わっていました。幸いにも従者時代にお世話になった騎士が特別推薦して下さって……それで騎士試験に参加出来たのです」
瞬きもせず、ただ事実のみを語る彼は彫像のように美しく、それでいて生きた温かみを感じさせない。二人は息を詰めて見守るばかりだった。
「……平然としていてくれれば気づかずに済んだのに……目を逸らさずにいてくれれば、偶然だと思えたのに。そのときに知ったのです。騎士団が輝けるばかりの美しい世界ではないことを。当時盛られた薬は子供騙しの品だったのでしょうが……以来、様々な薬を慣らしてきました。ニール殿が得た薬は即効性の劇薬だったかもしれないけれど、わたしにとっては多少身体の自由が利かなくなる程度のこと……、だから必要なかったのです、ランド隊長」
「カミュー……君は……」
ランドは不意にくしゃりと顔を歪めた。
「今でも? 今でも毒を呷っているというのか!」
無言の同意に、彼は再びカミューの両肩を掴み締めた。
「やめなさい! 万一のことがあったらどうする、すぐにやめるのだ!!」
「……出来ません」
「何だと……?」
「わたしがそうした立場に生きてきたからです!」
終にカミューは鋭く叫んだ。
「己の身は己で守る、それが故郷で学んだ剣士の在り方です。生きる場所が変わったなら、それに合わせて戦い方とて変わりましょう。わたしはずっとそうして生きてきたのです、今更どう変えろと仰せか!」
悲痛を孕ませた声音に痛ましげに眉を寄せた男は、ひとたび静かに首を振ると穏やかに返した。
「……ならば、今一度戦い方を変えなさい」
「……?」
「毒殺されかねぬ世界に在るから、我が身に毒を流し続ける……それだけの覚悟があるならば可能な筈。信頼という防具を身につけて戦うが良い、カミュー」
「信頼……?」
そう、と頷いたランドに交替してローウェルが口を開く。
「あなたは正しい。光在るところには必ずや影がある。その影に呑まれぬよう、我らがあなたの傍に在る。迷いなく光の階段をお進みなさい、あなたにはそれだけの輝きがある」
カミューは虚を衝かれたように幾度か瞬いた。更に諭すようにランドが微笑む。
「かつて騎士団は気高き誇りのみに支えられる集団であった。戦時下のように互いの結びつきが絶対とされる時代には、個々人の欲など入り込む余地がなかった。けれど今がそうであるとは残念ながら言えぬ。ニールのような男が異端であるとは言い切れぬ。だからこそ、君のような騎士が必要なのだ」
未だ肩にかかったままだった男の両手に力がこもる。その温かさを不快に思えぬ己にこそ戸惑ってカミューは黙し続けた。
「異邦からの風───すべての淀みや濁りを払拭して余りある清浄にして強き風。わたしはね、見たいのだよ、カミュー……君という存在を得て、赤騎士団が古の理念の許に再構築される日を」
切々とした訴えにカミューは弱く首を振る。苦渋と共に吐き出された呟きは弱く、掠れ果てていた。
「……詭弁です。もし、わたしがあなたをも踏み越える日が来たら……そのときにも同じことを仰せになれましょうか、ランド隊長……?」
不遜に過ぎる問いにも男は小さく笑った。
「わたしにとって地位は然して重要なものではない。遥か昔から、常にわたしはたったひとつを心がけて今日まで来た。それはね、カミュー……わたしに出来ることを為す、ということだ」
カミューは瞬いてランドを見詰めた。その眼差しから刺々しいものが失われたのを見て、ローウェルが揶揄気味に言う。
「理詰めであなたを説けようとは思えぬ。よって、不本意ながら脅迫させていただこう」
唐突な言葉に幼げな表情を曝すカミューに向けて、男は傲然と言い放った。
「毒を呷るのをお止めなさい、カミュー殿。『彼』はそれを知っているのか?」
刹那、ただでさえ白くなっていた頬が青褪めた。常なる自制をはたらかせるに任せず、思わずローウェルの騎士服を掴み締めた彼は鋭く叫ぶ。
「マイクロトフは関係ない!」
「そう仰せだと知れば、さぞ嘆くでしょうな。あなたは『彼』に秘密を持っている、それは不実と思われるが」
「べ……、別に秘密という訳では……聞かれれば……」
「それこそ詭弁と思われる。あなたが斯様な真似をしているなど『彼』が思いつく道理はない」
ローウェルはそこでにやりとした。
「今ここで習慣を改めると誓詞がいただけぬとあれば『彼』の説得に頼るしかない」
珍しく言葉に詰まって悔しげに唇を噛むカミューをランドは可笑しそうに宥め始める。
「なるほど、君にもそうして何を置いても守りたい存在があるということか。ならば、我らの心も理解出来る筈だ。君はもう一人ではない。どうか……その孤独なる戦いに終止符を打ってはくれまいか」
カミューは長いこと逡巡した。けれどやがて項垂れながら呟いた。
「……善処するよう心掛けます」
「カミュー殿───」
不満とばかりに遮ろうとしたローウェルをランドは止めた。
「長年培った生き方は容易く変えられるものではない。心掛けてくれるならば、今はそれで満足しようではないか」
「ランド様……」
躊躇いがちに、しかしローウェルは頷いた。それから床に置かれたままのユーライアを取り上げながら問う。
「如何なさる? ご自宅……は確かロックアックスの外れであったか……お送りするか?」
「……もう痺れも抜けました。一人で帰れます」
愛剣を受け取ったカミューはゆっくりと立ち上がった。倣った二人に向けて丁寧に礼を取る。
「御礼が遅くなりました。助けて───いただき、ありがとう……ございました」
それだけ搾り出すように言うなり、カミューは即座に扉に向かった。言葉通り、薬物の害悪はすでに認められず、いつもながらの優美な所作だった。
ほっそりした青年が見えなくなると、ローウェルは難しい顔で首を傾げた。
「……はて。何ゆえ、あのように憮然として礼など口になさるのか……」
ランドは笑いながら答えた。
「わたしが思うに、ほんの少しだけ彼の素顔が覗いたということではないかな」
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