───やはりカミューにも賞味して貰いたかった。
初めて口にした芳しい果実を前にマイクロトフは小さく嘆息した。
普段、然程甘いものを好む質ではない。けれど、これは素晴らしく味が良い。おそらくカミューの味覚をも満足させたであろうに、と今更のように淡い落胆を覚えて悄然とする彼を、家族は笑いながら遠巻きに見守るばかりだった。
カミューとの付き合いは四年を越える。
紆余曲折を経て、自身がそれなりに彼にとって欠くべからざる存在であることを朧げに感じてはいるものの、それでも未だ親友は未知の領域を過分に秘めた青年である。
今回の一件でもそうだ。
政治的な配慮に聡いとは言い難く、仲間の噂話に立ち入る習慣を持たぬ男であっても、周囲に飛び交うカミューの噂から耳を逸らすことなど出来かねる。位階を上げることによってカミューが陥った立場、その心情を慮らずにはいられない。
一方でマイクロトフには相変わらず理解出来ないこともあった。
実力に秀でた騎士が周囲に認められる、その結果他者を飛び越えて上の位を授けられる、それはカミューの意思には何ら関わりのない事象だ。
不当をはたらいたというならいざ知らず、ごくまっとうに勤めた上でのカミューの昇進を快く認めなかったと噂される赤騎士団・第四隊長なる人物に微かな嫌悪を覚える。
よりによって、そんな男にまで気を遣わねばならないのか。それが上に立つ者の配慮というものなのだろうか───マイクロトフの心地を重くしている要因だ。
不意に甘い筈の果汁が苦いものに思えて、彼はデザートを切り上げた。叔母に丁寧に礼を払い、濡れた指先を拭っていたときだ。
屋敷の戸口が凄まじい勢いで叩かれた。
勢いに仰天し、叔母が慌てて扉に走る。開錠する間も待てぬと言わんばかりに太い声が叫んでいた。
「夜分に失礼する! わたしは赤騎士団・第五隊長ローウェル、マイクロトフ騎士はご在宅か!」
他団の騎士の来訪に困惑した表情の叔母が一瞥する。弾かれたようにマイクロトフは駆け出し、即座に扉を開いて威儀を正した。
対峙した赤騎士隊長は肩で息をしていた。門の外に残された馬も同様に荒々しく鼻を鳴らしている。良からぬ事態であることを本能的に察し、マイクロトフは息を詰めて男の言葉を待った。
「つかぬことを聞く、カミュー殿はいらしておいでか?」
「い、いいえ」
ただでさえ他団の騎士と言葉を交わすなど稀だ。この相手は些か知らぬ人物でもないのだが、あまり他者に深く関わらない質にして珍しくカミューが心を許しているらしい男とあっては、緊張を殺すことなど不可能だった。
それにしても、このただらならぬ様相───更なる不穏が過ぎり、慌てて言い募る。
「しかし、行き先は聞いています。第四隊長殿のご自宅に招かれたと言っていました」
「何だと?!」
殆ど叱責に等しい驚愕の叫び。思わずびくりと戦いたマイクロトフに、ローウェルはすぐに我に返った。
「あ、……いや、すまぬ。団欒時に邪魔をした、では」
言い置いて踵を返す男に慌てて取り縋る。
「ローウェル隊長! カミューがどうかしたのですか?!」
彼は暫し躊躇するように目線を泳がせたが、相手がどうあっても糾弾を諦めない人間であることを思い出したのか、苛立たしげな息を洩らした。
マイクロトフは巌のような男だ。特に、あの親友に関しては相手が誰であろうと退くことを知らない。
「……お命の危険に曝されている」
「なっ……、何ですって?」
悲鳴のように叫ぶなり、彼は礼節も忘れ果てて赤騎士隊長の腕を掴み締めた。
「カミューが?! 何故……!」
「聞いているであろう、あの方が招待を受けたという相手は、此度の人事について不当な恨みを抱いている」
厳しい眼差しで見詰める男に急いで同意を返す。するとローウェルはいっそう苦々しげに続けた。
「好意的に振舞って周囲を欺こうとしていたが……本日、彼が劇薬を手に入れたことを確認した。死に至る毒物だ。そして今、カミュー殿が彼の屋敷に招かれている───想像を働かせるがいい」
「その騎士隊長が……カミューを毒殺、すると……?」
「わたしが急がねばならない理由も分かったな、手を離すがいい」
「お待ち下さい!」
振り払われかけた手に力を込めてマイクロトフは必死の形相で詰め寄った。
「何故ですか?! 何故、カミューがそんな……!」
そこでローウェルは逆にマイクロトフの両肩を掴み、激しく揺さぶった。
「分からぬか、我らの在る世界はそうした闇を秘めているのだ!」
「闇……?」
「分かるまい───おまえのように斯くも真っ直ぐな男には。光在るところには必ず闇が生ずる。その闇があの方を飲み込む前に……行かねばならないのだ!」
ローウェルの言葉はマイクロトフの混乱を煽った。唯一思考に納まったのはカミューの身に危険が迫っているということだけだった。
「おれ……、おれを連れて行ってください、ローウェル殿!」
ぎくりとしたように騎士隊長は目を剥いた。それからしまったと言いたげに唇を噛む。焦燥に駆られるあまり、容易く予期出来る筈のマイクロトフの反応を失念していたのだろう。
「……相成らぬ。これは赤騎士団内の問題だ」
「危険に曝されているのはおれの親友です!」
追い縋りながらの懇願に、暫し考えた上でローウェルはゆっくりと首を振った。
「おまえの誠は十分理解しているつもりだ。けれど、おまえには他に為すべき役割がある」
「えっ……?」
「ここに残れ、マイクロトフ」
所属を違える、まして地位ある男に名を覚えられていたことに戸惑いを覚えた。一瞬気勢を削がれた彼にローウェルは静かに言い放った。
「光に生き、所属も異なる身には手出しが叶わぬ領域だ。そのためにこそ、我らが在る」
「ローウェル殿……?」
「このまま待て。そしてあの方を迎えて欲しいのだ」
「カミューを……迎える……?」
「何も問わず、ただあの方の傍に在れ。それはおまえだけに許された役割なのだから」
少々口惜しいが、と最後に軽く付け加えられた調子に呆けた手から力が抜けた。するりと抜け出たローウェルは直ちに門へ向かうと騎乗して手綱を引く。
「良いな、追おうなどとは決して思わず、己の為すべきを果たせ!」
そのまま疾風のように駆け去っていく馬を見送り、マイクロトフは切り裂かれるような胸の痛みに喘いだ。
カミューが危ない。何故このまま飛び出して追い掛けられないのか、自身が理解出来ない。
ローウェルが告げた数々はとても大切なことなのだと直感が囁く。おそらくはカミューを救うために奮闘することと同等、あるいはそれ以上に。
勇猛なる武人である彼を疑う余地はない。図らずもマイクロトフが作ってしまった時間的なロスは騎馬技術にて取り戻すに相違ない。
彼は間違いなくカミューを救い出してくれるだろう。
だが───
「迎えろと言っても、カミューが来るとは限らないのに……」
ぽつりと自問して髪を掻き毟る。そこで家人たちが心配そうに見守っているのに気づき、振り向いて平然を装おうと苦心するのだった。
騎士団の地位ある者の多くは街の名家の出である。
通された邸宅の見事さには今更驚くでもなかったが、ただやけに冷たく感じる家屋の気配が奇妙な違和感と共にカミューを見下ろしていた。
晩餐は贅を尽くしたものだった。けれど配膳にあたる使用人が無表情極まりなく、これならば親友宅にて振舞われる当たり前の家庭料理の方がよほど心身を満たしてくれるというものだ。
家主に気づかれぬよう、密やかな溜め息を洩らしながらカミューは食事の手を進めた。
「あの折は本当に失礼した。恥ずべきことを口にしてしまった」
もう何度目か分からない第四騎士隊長ニールの謝辞に逐一首を振り、精一杯の作り笑いを浮かべる。
「もう仰らないでください」
「いや、本当に……わたしの気が済まぬのだ」
憤懣のままに暴言を吐き捨てる姿の方が、まだ好感が持てる。それは騎士の礼節を上回る、人としての好悪の露呈であるから。
だが、どう考えても上辺だけとしか思えぬ礼を取り繕う今のニールには不快しか感じない。
僅か一位階、されど一位階。
これからのニールにはカミューに敬語を用いる必要があったし、カミューはニールに命を下す権限を持つようになる。さだめられた地位が変わらぬ以上、上位の相手に叛意を抱くことは得策ではない、そうした内情がニールの端々から溢れている。
それでも丸く納められるなら、と招待を受けた。この会食で、カミューが彼に敵意を持っていないことが伝われば良いのだ。
騎士団史上でも未だ例を見ない昇進の速度に、多かれ少なかれニールと同様の念を内包するものはあるだろう。そうしたものに真摯な礼を貫くことで自身を認めさせるしかない、それがカミューの最良の道でもあった。
「素晴らしい食事でした、お心遣いを感謝致します」
使用人が皿を下げ、綺麗に片付いた卓で向かい合いながら告げると、ニールはにっこりしながら立ち上がった。
「食後のワインは如何かな、カミュー殿」
「いえ、わたしはもう───」
「そう申されるな、グラスランド産の極上品を取り寄せたのだ」
言いながら男がキャビネットから取り上げたのは、確かに故国でも最も珍重されている逸品だった。
「これからも騎士として生きるため……すべてのわだかまりを消し去りたいのだ、カミュー殿」
目前に設えられたグラスの繊細な彫刻が、注がれる鈍い紅色に複雑な光を反射する。燭台の炎を落とし込んだワインは、何処か不穏な陰影に揺れた。
「杯を受けては貰えぬか、カミュー殿? これですべてを忘れていただけないものだろうか」
カミューは輝く琥珀の瞳で暫し目前の酒を見詰めていた。が、なめらかな指先がやがてグラスを取り上げる。同様にグラスを掲げたニールは暗い愉悦を潜ませた眼差しで微笑んだ。
「我がマチルダ騎士団に」
カミューは静かに目を伏せた。
「……誇り在る未来に」
白い喉首が曝され、美酒が確実に相手の体内に滑り降りていく様を、ニールはグラスの縁に唇をつけたまま見守っていた。そして、あと僅かを残して落ちたグラスが床に砕け、血色のワインが飛び散る様を歓喜をもって迎えた。
「っ……ニール殿───」
片肘を卓についてかろうじて身を支え、蒼白になって口元を覆うカミューを傲然と見下ろした男は、指先で小さな紙包みを弄んでみせた。
それから慎ましやかな呟きが洩れる。
「言ったであろう? わだかまりを消し去る、と」
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