ロックアックス城下にある一宅。
日も落ちた頃、幾分躊躇気味に叩いた扉は親愛に満ちた笑顔によって開かれた。
「まあ……いらっしゃい、カミューさん。今日は少し冷えるわね、早く入ってちょうだいな」
朗らかに言いながら笑う婦人にカミューは丁寧に持参の土産を差し出す。菓子と、最近ロックアックスに出回るようになった酒の肴。婦人は小さく苦笑した。
「気を遣わないでといつも言っているのに……そんなに他人行儀にならないで欲しいわ」
「ええ、でも……道すがら目に止まったものですから」
この家では常にそうされているように居間に通されたカミューは周囲を軽く窺った。視線に気づいたのか、婦人は笑う。
「主人は学生時代のお友達と約束があって留守にしているの。ミッジは幼稚舎のお泊まり会」
はあ、と応じながらカミューは瞬いた。
「城で、今日はこちらに泊まりと聞いてきたのですが……」
「マイクロトフ?」
そこで彼女ははたと考え込んだ。
「あら……嫌だわ。そう言えばあの子ったら、まだ庭かしら。本当にもう……止めなければいつまででも訓練しているから───」
慌てて庭に続く廊下へ向かおうとするのをやんわりと止め、カミューは微笑んだ。
「わたしが行きます」
「そう? じゃあ、そうしてちょうだいな。ゆっくり出来るんでしょう? 実は、今夜は初めて作る献立なの。マイクロトフだけじゃ評者として不十分だと思っていたところよ、逃げないでね」
ころころと笑いながら台所へと向かう親友の叔母を見詰め、カミューはもう一度深く礼を取った。
実父母を早くに失くした親友は、父の弟夫妻の許で育てられた。いとこにあたる幼い少女を交えた四名は、カミューの目にも理想的な温かな家族である。
マイクロトフと親交を持ってから、その輪の中に招き入れられたけれど、故郷を離れて異邦に身を置き、常に孤独と隣り合わせて生きてきたカミューにとっては何処か身の置き所の無い温かさでもあった。
いずれにしても、訪ねた相手を探そうと庭に続く扉を開け、かろうじて周囲を識別出来るほどの薄闇の中で黙々と剣を振る若々しい肉体に嘆息した。
どうやら彼の叔母の懸念は大当たりだ。休暇という言葉の意味さえ忘れているかのような熱心な素振りに打ち込んでいる男を暫し眺めた上で、軽く声を掛ける。
「……少しばかり踏み込みが甘くなっているんじゃないか?」
唐突に響いた声に驚愕し、即座に振り向いた顔が満面の笑みを広げる。
「カミュー!」
漸く手を止めて首に掛けたタオルで汗を拭うマイクロトフに揶揄気味に指摘した。
「時間を割けばいいというものじゃない、疲労は型を崩す。第一……おまえには他に休暇の使い方がないのかい?」
大股で歩み寄ろうとしていたマイクロトフは、だがあと少しというところで歩を止めた。対戦ほどの間合いを残して立ち尽くす友にカミューは眉を寄せた。
「……何だい?」
「いや、その───」
マイクロトフはたいそう口篭もりながら、消え入るばかりの声で続ける。
「…………汗臭いだろうと思って」
一瞬反応し損なったカミューは、次の瞬間吹き出した。笑いながら自ら近寄り、男の鍛え抜かれた腹筋に軽い拳を入れる。
「……そういう気遣いがレディに出来るなら、休暇の使い方も変わってくるだろうに」
「お……、おれはおまえとは違う」
けほけほと咽たマイクロトフは一歩退って照れたように頬を染める。
「それに……そんなに疲れてはいないぞ。型が崩れて見えたなら、それはおれの未熟の所為だ」
何処までも生真面目な友の態度に、カミューはふうん、と生返事を返した。それから腰に携えた愛剣の柄を握る。
「疲れていないなら……相手を頼んでも構わないか?」
するとマイクロトフはぱっと顔を輝かせた。
「無論だ! だが……薄暗いから気をつけろよ、カミュー」
日暮れていたことには気づいていたのか、と苦笑した上でカミューは剣を抜き去った。すぐに対峙の構えに入る男の剣先を睨み据えて、静かに心を研ぎ澄ます。
すぐに突進してきた第一撃を軽やかに交わし、続く二撃目を剣で往なす。重い衝撃を噛み締めながら間合いを広げ、向き合う男の真っ直ぐな眼差しを見詰め返す。
迷いのない、真摯な瞳。
些かの企みもない、正直な剣。
在るべき騎士の姿をそのまま映し出したような友、マイクロトフ。
更に数度刃は交わり、次第にカミューの胸を占める切なさが膨れ上がる。薄暗く澱む闇を欠片ずつ削り落とす鋭い剣先、扉をこじ開けようとする強固な視線。
衝動に耐え難くなった刹那、彼は飛び退って片手を上げた。
「もういい、十分だ」
途端に不満そうに眉を寄せる相手に肩を竦める。
「負け負け、わたしの負けだ。汗みどろになってなお、そこまで戦う猛獣にはお手上げさ」
からかい混じりに言いながら剣を納めた彼に、マイクロトフは渋々といった顔つきで倣った。その場に座り込んだカミューを暫し眺めた上で、躊躇いがちに横に腰を落とす。
「……何かあったのか?」
心から案じるように問われ、カミューは薄く笑った。
───まったく、いつから見透かされるようになってしまったのか。
「昇進したよ」
「えっ?」
「正式には来月からとなるが……、第三部隊長職を任ぜられた」
「それは……!」
すぐに輝く歓喜が現れ、マイクロトフはカミューの片手を取った。しっかと握られた手の痛みこそが無骨な友の祝賀なのだ。
「おめでとう! 本当に……ああ、凄いぞカミュー!!」
カミューはひっそりと嘆息した。
混じり気のない賛美、裏表のない友の喜び。けれど、それもカミューには重い。
同期の騎士叙位でありながら、すでに騎士団の中枢に足場を得ているカミューと、所属部隊こそ精鋭第一部隊ではあるが一騎士の領分を出ないマイクロトフ。
階級の差は決して友情の障壁にはならないが、一切頓着しないというのもカミューには難しいことであった。
唯一の友とも言える男が礼節に厚く、剣腕も抜きん出ているけれど、政治的な手腕を著しく欠いていることは認めざるを得ない事実だ。時に己の誇りを貫くあまり、上官に睨まれることも一度や二度ではない男なのだ。
その結果が位階の差に如実に現れている。今も、互角以上に剣を交えるマイクロトフが無位であることに釈然としないものを感じるカミューである。
───この男は、妬みとか羨望といった感情が朽ちているのだろうか。
カミューがそんなふうに思ったとき、ふとマイクロトフは首を傾げた。
「……ということは、二位階特進か?! ますます凄いじゃないか、カミュー!」
「……気づいてくれたか、ありがとう」
カミューは立てた片膝に額を当てて俯いた。
「ついでに、もうひとつ気づいてくれ。おまえもそろそろ隊長職を得てもいい時期の筈だ」
はて、といった表情で暫し考えた後、マイクロトフは苦笑った。
「おれには……まだまだ先の話だ」
「騎士隊長の地位が欲しくはないのかい?」
「いらない、とは言わないが───」
彼は小難しい顔で色々と考えたようだが、言葉は朴訥な性格そのままだった。
「確かに一軍を任されることには憧れる。だが、おれにはおまえのように巧く部隊を纏めるだけの力がない。悔しいけれど、これは事実だ」
「………………」
「いずれ……いずれ、おれも力を得る。おまえの友として恥ずかしくないだけの力を。見ていてくれ、カミュー」
僅かな揺らぎもない、力強き宣言。
カミューには分かる気がした。
マイクロトフに力量が足りないなどということは有り得ない。青騎士団を束ねる指導者は、殊更に彼を手厚く遇しているのだ。若すぎる任官が彼を歪めぬよう、かたちとしての位などではなく、真なる強さが彼を護ることを欲して。
いずれ位階の階段を昇り始めれば、マイクロトフは瞬く間に望み以上のものを手に入れるに違いない。誠実で生真面目な騎士は、青騎士団の宝として大切に温められる卵なのだ。
「……おまえが羨ましいよ、マイクロトフ」
知らず洩れた呟きを聞き咎めたマイクロトフは、驚いたように目を見張る。
「なっ、何が?」
カミューは失笑めいた笑みをもって首を振った。それからころりと大地に寝そべる。
「泰然自若そのままで───」
───この世の闇をも打ち払うだけの輝きを持っている。
「カミュー……?」
マイクロトフは慌てて彼を揺り動かした。
「こんなところで寝るな、おい。疲れているなら部屋へ……」
「分かっている」
肩に掛かる大きな掌の温もりに、言葉にならぬ感情を掘り起こされたカミューは片腕で顔を覆った。
「久しぶりにおまえの馬鹿力な剣を受けて目が回っているだけさ。少し休ませてくれ」
マイクロトフは困ったように考え込んでいたが、やがて諦めたのだろう。主人を護る番犬のように傍らに座り込んだまま、静かに視線を逸らせた。
いつまで経っても戻らない甥とその友を案じた叔母に声を掛けられるまで、二人は並んで忍びやかな秋風に吹かれていた。
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