愛が試されるとき・6 ──淫獣の囚われ人──
本拠地の至る所に溢れている未来への希望に満ちた笑顔をぼんやり眺め、カミューは歩いていた。
最後に心から笑ったのはいつだったろう。
あの日、マチルダ騎士団再興の話題が途切れたほんの一瞬に、マイクロトフの手で頬を包まれた至福のとき。もうあの日々を取り戻すことは出来ないのだろうか。
つい今し方、終にマイクロトフの剣幕に押され、ホウアンの診療所を訪れた。そこで睡眠不足と食事の摂取を怠っていることをほのめかされ、珍しいマイクロトフの叱責を受けたばかりだ。
いくら回復の術を施されていても、他人からは見えない場所に残る痛みと、精神的に追い込まれる現実は確実に彼を蝕んでいる。
少し一人になりたいと頼むと、マイクロトフは如何にも心配そうに、それでも最後には望みを聞き入れた。カミューの様子を見守る彼もまた、自らを裂かれんばかりの苦悩を感じているに違いない。
もの言いたげに見送る視線が突き刺さり、カミューは幾度もその逞しい胸に身を投げたい衝動に駆られた。しかし最初の機会を逸した今、打ち明けることはマイクロトフを傷つける以外の何の効力ももたないだろう。
────ならば、傷つくのは自分ひとりでいい。
カミューはすでに決意していた。
探していたのは魔法のエキスパート、ルックである。憮然とした表情で『約束の石板』の前に佇む少年を見つけ、自分が初めて他人に救いを求めようとしているのを改めて感じるカミューだった。
「……ルック殿、少しよろしいでしょうか……?」
彼はどんな年下の相手にも敬意を忘れない。この城では年齢も性別も一切関係ない。みな、同じ目的のために集った同志なのだから。
ルックは物憂げな顔を上げた。
「何? 何か用?」
こんな物言いにも慣れた。この少年は誰にでもこんな調子だ。最初は戸惑ったものの、すぐに馴染んだ。何より、彼は仲間内でも随一の魔術使いなのだ。
彼と魔力で双璧を為していたメイザースは、同盟軍勝利とほぼ同時に姿を消している。他にも、城の主を待たずに故郷へ去った者もある。
とすると、『帰る』とぼやきながらも未だにこうして城を守っている少年は、傍で見るよりもずっと義理堅いのかもしれなかった。
「お聞きしたいことがあるのです。あの────、ある紋章のことなのですが…………」
ルックは微かに眉を潜めた。いつも不機嫌な顔をしているのでカミューは気づかなかったが、実は少年は驚いていたのである。
端正なことで有名な赤騎士団長が、ここしばらく不調であることは聞き及んでいた。他人に干渉しない主義であるルックだが、見慣れた優美な顔が著しく翳っているのには気づいた。憔悴、という言葉以外思いつかない。優しげな顔つきは変わらないが、何処か表情が空虚を漂わせている。
「…………あんた、何処か悪いんじゃないの」
珍しく吐かれたそんな言葉に、カミューは少年のぶっきらぼうな気遣いを感じた。
「────いいえ、たった今ホウアン殿のところにお邪魔してきたばかりです。少し…………、不摂生が祟っているようで」
微笑んだつもりだった。しかし、その笑みはぎごちなく強張った。彼の常の礼節ぶりを知っているルックには、それがひどく奇異に見えた。
「ふうん、そう…………。で、何?」
取り敢えず用件を聞かないことには、と少年が切り出したとき、横から声が掛かった。
「ルック、ビクトールが呼んでるぜ」
呼んだのはシーナだった。
「何か、風の洞窟に行くとか言ってたけど。広間だ、早く行った方がいいぜ」
「……レックナート様は戦争が終わるまでと仰ったのに……まだぼくを使う気か。人使いの荒い連中だよ」
「言うなって。夜には上がる、そんな話だし」
少年は忌々しげに唇を尖らせた。シーナは我関せずといった仕草でひらひらと手を振り、去っていった。
ルックはちらりとカミューを見上げた。出来ればこちらを先に済ませた方がいいと本能が教えている。しかし、それよりも早くカミューが息を吐いた。
「…………行って下さい」
「いいのかい?」
「ええ、後で構いませんから……」
「なら、戻ったら聞くけど…………」
少年はもう一度確認しようとした。カミューの顔色は、決して余裕があるようには見えなかったのだ。けれど、口を開く前にカミューは微かに笑って頷いた。
「────どうぞ、お気をつけて」
身を返して去っていく彼の後ろ姿は、いつもながらの優雅さを残していた。だが、その両肩が力なく落とされているのも事実だった。
少年はビクトールの人使いの荒さを今一度呪い、仲間の待つ広間へ向かって行った。
夜には戻る、そう言って出かけて行ったビクトールらであったが、月が傾いても帰還の知らせはなかった。
カミューは夜が来るのが怖かった。次第にマイクロトフが淫獣に支配される時間が早くなっていることに気づいていたからだ。
最初は言葉通り、月が天の真上に来る頃に現れていたオーランドだが、その出現は日に日に早くなり、昨夜に至っては太陽が沈んで幾らもしないうちに恋人は変貌していた。
騎士団は昨日、一足先に出立した。ロックアックスへのルートとしてはグリンヒル北部の抜け道を通るのが最も近いが、戦争直後ということもあり、ハイランドとの国境近い幾つかの街の様子を探りながら移動するのが望ましいということになった。
それにはかなりの時間が掛かる。城の主を待つのを諦めての出発となったのだ。ラダトの東を迂回して、ミューズ近郊で陣を張り、騎士団長らを待つように命じられた騎士たちだったが、いずれも赤騎士団長の不調を案じ、最後まで城を去ることを惜しんでいた。
赤騎士団副長を一行の指導者に任じ、宥めすかして騎士団を送り出した。その後、ロックアックス城に着く時点での部下の装備に関して相談していた二人だったのだが、陽光が最後の輝きを残して消えて間もなく、カミューは髪を掴まれて膝を折らされたのである。
このままではマイクロトフが完全に乗っ取られてしまうのは時間の問題の気がする。夜の間に慰まれることでさえ耐え難いのに、昼夜を問わず弄ばれるようになったらどうなるのか。
────そうしてマイクロトフを失ったなら、自分は生きていけるのだろうか。
自室の鍵を掛け、怯えながらベッドに座って顔を覆う。ルックがこの状況を変える方法を知っていることを祈らずにはいられない。自分がもう長くは持たないであろうことも、カミューは感じていた。
夜毎の凌辱もさることながら、心の疲弊はいっそう激しい。精神に蓄積していく傷の数々が、近い将来自分を飲み込んでいくだろう予感がある。
いっそ狂ってしまえば楽だろう。けれど、そうなれば誰がマイクロトフを救うのか。彼を取り戻すまでは何としても耐え忍び、生き延びるしかないのだ。
弱い溜め息をついたとき、密やかな声が扉の外に響いた。
「カミュー、おれだ。起きているか……?」
はっとして窓を見遣ると、すでに外は闇に塗り潰されている。昨夜淫獣が現れたよりもずっと遅い時間帯だ。
続いて扉を開ける気配がして、掛けられた鍵が金属質な拒絶の音を立てた。
「もう寝たのか…………?」
魔獣ならば施錠などものともせずに侵入してくる。どういう技か、カミューには理解出来なかったが、毎度掛けた鍵が外れて無気味な笑みを見るたびに、圧倒的な力の差を思い知るのだった。
心配そうな声は恋人以外の誰でもない。カミューはそろそろと立ち上がり、隔たれた扉に向かって小さく問うた。
「マイクロトフ────か?」
「ああ、おれだ。どうしたんだ、鍵などかけて……開けてくれ」
警戒を解くことは出来なかった。けれど、耐え難いほどの恋慕と寂寥を募らせる懐かしくも優しい声に抗うことも出来ず、そっと鍵を外してみる。
ひょいと顔を出した男は、怪訝そうに首を傾げていた。
「まだ具合が悪いか? すまない、すぐに戻るから」
言いながら困ったように笑う無邪気な姿。視線から溢れる愛情といたわり。
カミューは呆然とした。
「ここ最近、夜になると自分でも気づかぬうちに寝てしまうんだ。昨夜もどうやって部屋に戻ったのか、まるで覚えていない」
口調は軽かったが、顔つきは不安そうだ。うろうろしながら語り続ける。
「────おまえが連れて行ってくれたのかとも考えたが……、そこのベッドに引っ張り上げるならともかく、隣までおれを担いでいくのは無理だろうし……何だか、夢遊病とかいうものになった気がする……」
「マイクロトフ────」
うろうろ歩き回るのは、考えを纏めようと必死になっているときのマイクロトフの癖だ。紛れもない恋人の姿を見たカミューは、胸を押し破るほどの苦しさを覚えた。
「マイクロトフ、なのか…………」
「何だって?」
振り返った男の顔は、不可解を浮かべている。その表情が次第に和らいで、哀しいほどの優しさを示した。
「どうしたんだ、カミュー……────おれ以外の誰だと言うんだ?」
どういうことなのだろう。
マイクロトフは魔物を追い出すことに成功したのか────その存在さえ知らないというのに…………?
あるいは淫獣がその肉体に飽きて放棄したというのか。
どちらにしてもカミューは安堵と喜びに顔を歪め、真っ直ぐに男の胸に飛び込んでいた。
「マイクロトフ…………ああ、マイクロトフ!」
「お、おい。どうしたというんだ、カミュー……何処か痛むのか、苦しいのか?」
「マイクロトフ…………」
激しく首を振り、涙の滲む眼を擦り付ける。
────こんなにも会いたかった。
こんなにもこの腕に抱かれたかった。
きつく抱き止める男の力強い腕の感触に陶酔しながら、カミューは啜り泣いた。
「……わたしを呼んでくれ、マイクロトフ」
「────?」
必死に見上げたカミューに、心底困惑した黒い瞳が返される。その眼差しは愛情を込めた微笑みになった。
「……カミュー」
「────もっと」
「カミュー、おれのカミュー」
「もっとだ」
「好きだ、カミュー…………」
「ああ…………」
戻ってきてくれた。
語彙の乏しい睦言、けれど雄弁な両腕。
もし、あの魔物が舞い戻ってきても、マイクロトフと一緒なら立ち向かえる。二度と思い通りにはならない。
涙に濡れた目で今一度見上げると、激しいくちづけが降り注いだ。技巧などない、情熱のままに貪るだけのくちづけ、マイクロトフだけがくれる駆け引きのない求愛。
カミューもまた、強く男の背を抱きながら奪い返すように舌を絡め、長い離別の夜を埋めようと足掻いた。室内に荒い吐息が充満する。
「あ、あ────」
くちづけが喉元に移動し、寛げた襟の中に忍び込む。荒々しい掌が身体中を探り、はだけた衣服の内側にも及んだ。
「っ、すまない────おまえは体調が…………」
「いいんだ」
詫びるように呟いて、必死の自制を掻き集めて行為を中断した男を、カミューは遮り、引き寄せた。
「いいんだ────」
躊躇するように息を詰めた男が、堪え切れなくなったように彼をベッドに倒した。そのまま重みを掛けて被さり、なおも狂おしくくちづけの雨を降らせながら全身を慌しく撫で上げる。
技巧などとは呼べない。淫獣の淫らな技に翻弄されるときのような疼きではない。けれど情熱に突き動かされるような愛撫と息遣いは、何よりカミューを切羽詰った心地に追いやる。
それこそ乱暴でも働いているような荒々しさで剥ぎ取られていく衣服。剥いたそばからあちこちに投げ捨てていく恋人の大雑把な動作は、カミューの性感を高める前戯でさえあった。それほど求められている、一刻も無駄に出来ぬほど、早く溶け合いたいのだと訴えられているようで、震えるほどの悦びを覚えるのだ。
無造作に自らの衣服をも脱ぎ去った男が、横たえられたカミューの上に乗り上げ、続いて肌が重なった。慣れた重みと温かさにカミューは震えながら泣いた。
「マイクロトフ────」
早くも熟した身体をもどかしく男に押し当てさえした。
飢えていたのだ、マイクロトフとの愛の行為に。
夜毎弄ばれて疲労の極地に達していても、全身に鈍い痛みが燻っていても、心の欲求は正直だった。
応えて触れる剣士の掌。無骨な愛撫に自制を忘れて喘ぎを零す。こうして再び恋人の腕に戻れたのだ、耐えることなどなかった。素直に声を上げ、身を揺らして男の情熱をねだり、沸き起こる悦びに浸り──────
「……随分と悦んでおるようだな、人間」
不意に凍りつくような響きが陶酔を打ち壊した。
ぎくりとして巡らせた目に、陰険な笑みを浮かべた口元が見える。
────そこにマイクロトフはいなかった。さっきまでの穏やかで包み込むような瞳は跡形もなく、嘲笑と侮蔑で満ちた冷酷な目が光っている。
「マ………………」
「他愛ないものだな、かくもあっさり身体を開くとは。おまえは淫乱で貪欲なだけの浅ましい人間だ────」
言葉で貶めながら魔物は恋人の太い指を使ってカミューを貫いた。衝撃に一瞬身体がずり上がるが、それを上回る混乱で支配されていた。
「どうして…………マイクロトフは────」
「おまえの情人は随分前から眠っておる」
「ここに来たときは────、でも、彼は…………」あの仕草、表情、何よりも誠実で慕わしい瞳。
あのすべてが偽りだったというのか────
信じられない思いで呆然とするばかりだ。
「騙した…………のか……? 最初から……ずっと貴様だったと…………?」
「────あながち嘘ばかりでもないぞ。『器』が昼の間に考えていることを言葉にしてやっただけのこと…………おまえも楽しめたであろう?」
淫獣はおどけるように苦笑して見せた。見間違いようのない、マイクロトフがよく見せる笑い方だ。
「……『どうすればおまえが笑うか、喜んでくれるのか。いつもそんなことを考えている、カミュー』」
「────やめろ!!」
悲痛な叫び。
あれほど警戒していたつもりなのに、むざむざと欺かれた自分への怒り、そして淫獣への憎しみに、彼は今までにない激しい抵抗を開始した。
どれほど自分がマイクロトフを求め頼っているかを思い知らされ、その弱さに付け込まれる愚かさを思った。相手は恋人ではないと自らを叱咤し、頬を殴り飛ばして抗った。
淫獣オーランドは殴打を受けても表情一つ変えなかった。いつものように幾倍にもして殴り返すこともせず、ただ陰惨な笑みを浮かべたまま侵略を進めていく。
カミューも今宵ばかりは一切の脅しも暴力も通じないほど怒り狂っていた。淫獣がああも容易くマイクロトフを模倣し、慰み半分に自分を翻弄したことで、数日来潰えていた反抗心が蘇ったのだ。
圧し掛かる恋人の身体を滅茶苦茶に打ち、隙あらば噛み付いてでも逃れようとし、迫り来る侵入を阻もうと足掻く。手負いの獣さながらの抵抗に、さすがの魔獣もなかなか目的を果たせなかった。
ならばと獲物に最もつらい攻め、マイクロトフの声音で囁くことも試したが、今回ばかりは怒りに火を注ぐばかりだった。
だが────
時間がすべてを決めた。
度重なる暴行と心痛に犯され続けて体力の限界を超えているカミューには、人ならざるものに抗い続ける力が残されていなかった。炎が燃え尽きる最後の一瞬の煌めきのような抵抗も、やがて抑え込まれていく。
「ぐっ………………!」
弱まった抗いの隙を突いて楔が打ち込まれた。それでも貫かれる痛みよりも悲憤は勝った。
「────そう暴れるな、余計な傷が増えるばかりだぞ。おとなしくすれば可愛がってやる…………」
心は裂けるばかりの苦痛と怒りに荒れ狂っている。一瞬でも忌まわしい魔物を愛する男と見間違った己への憤り、恋人への切ないばかりの思慕、誰より守りたい者を救えないばかりか、こうして惨めに翻弄されるしかない無力感、そうしたものがカミューを責め立て、追い詰める。
「────ちくしょう!」
似合わぬ罵倒を吐きながら、なおも獣に逆らう。その動きで自身が傷つこうと、卑劣な魔物を許すことは出来なかった。
オーランドはこの夜、殊更に執拗な愛撫を施した。ねっとりした淫猥な波がカミューを押しやり、飲み込んでいく。
必死に暴れていても、一方で魔獣の醸す淫らな快楽に肉体は為すすべもなく狂わされていく────
マイクロトフの体温、匂い、肌が確実にカミューを燃え上がらせる。
「…………殺してやる!」
怒りと陶酔に揺すぶられ、次第に正気を失い始めたカミューは憎悪も露に叫ぶと同時に、突き上げる魔性の背に両腕を回し、しっかりと抱き締めた。
「殺してやる…………殺して────」
全身を震わせながら吐き捨てる憎しみの言葉、そして凌辱者をきつく引き寄せる腕。心と身体が完全に分離していることにもカミューは気づけなかった。
精神の苦痛と肉体の快楽に溺れ、いつまでも掠れた声でうめき続ける青年を、淫獣は好ましげに見詰めている。
もう少しだ。あと、もう少し────
オーちゃん、隠れ演劇部員・希望(笑)
……って茶々入れてるような中身じゃないか……。次回、久々に青ご本人登場。
しかし、背後から蹴り入れたくなる方に
3000ポッチ賭けてもいい……。そろそろ救済戦士の面子が割れ始めました。
最後の一人は多分わからないだろう……(笑)