愛が試されるとき・3 ──淫獣の囚われ人──


 

それからの恐怖の時間を、カミューはいつまでも忘れることは出来ないだろう。
全裸に剥かれて供物のようにベッドに沈められた彼を待っていたのは、予想に反して苦痛ばかりではなかった。ほとんど衣服を乱すこともなく覆い被さった魔物の愛撫は、信じられないほどに巧妙で淫猥だった。
マイクロトフの不器用で荒々しい行為に慣れていたカミューにとって、そんな接触は唾棄すべきものであるはずだ。なのに男の息遣い、肌の熱さ、そして体臭は愛する者のそれに他ならない。その混乱の中で彼は未知の快楽に溺れさせられた。
恋人の舌に全身を舐め回され、あますところなく弄られる。名を呼ばれれば、思わず縋りつきそうになるほどの快感。
相手はマイクロトフではないのだと自らに言い聞かせ、なおも空しい抵抗を続けながらも、時折戯れのように混じる無骨な愛撫に意識が霞む。
「────手荒なのが好みだったか?」
揶揄するように淫獣オーランドが囁いた。必死に否定しようとしたが、容赦ない指の侵入に叫びそうになった。
「良いのか、声を上げれば愚かな仲間が来るであろう。おまえの情人のしている行為が暴かれるぞ」
ぎくりとカミューは息を飲んだ。
「……やって来た者を斬り殺してやるも良い。おまえの男の評はどうなるか──────」
潜めた嘲笑。カミューは網に囚われた己を知った。
マイクロトフの姿をしている以上、他人には彼が魔性に憑依されていることはわかるまい。あるいはビクトールやフリックならば紋章師の店で起きたことを証言し、味方になってくれるかもしれないが、それでもマイクロトフが恐怖の対象になることには変わりがない。
何より、愛しい男が意思に反した殺戮を行うことなど耐えられなかった。マイクロトフ自身もそうだ、誇りが許すまい。自らが他者の害になると知れば、命を絶ちかねない男なのだ。
「────つまらぬことを考えぬ方が身のためだ。この『器』の命が失われたなら、また別の『器』を探すだけのこと。ひとたび封印を解かれた以上、吾の行く手を阻むものはない」
淫獣はカミューの内部に埋めた指を巧みに操った。最初の苦痛が消えると、そこから堪えようのない疼きが広がり始めた。
「あ、ああ……────」
「そうだ、素直に身を任すが良い。この世のものとも思えぬ愉悦を与えてやる」
耳元に吹き込まれる恋しい声。だが、決して恋人が洩らすはずのない忌まわしき言葉の連続。行き場を失ったカミューの心は、押し寄せる波に飲み込まれるしかなかった。
逞しい熱が押し当てられ、次には貫かれていた。
マイクロトフとの行為であっても、この瞬間だけは決して慣れることが出来ない。いつもならば、割り開かれる苦痛が和らぐまでマイクロトフの温もりを頼りに息をつく。
だが、魔物に待つ気配はなかった。カミューは今宵初めて味わう激痛に絶叫しかけた。先刻の淫獣の言葉が意識の端を過ぎり、無意識ながら我が手で口を塞いで悲鳴を押さえ込んだ。
そんな様子を興味深げに見下ろす淫獣は、最初から加減のない律動を施した。
「く……っ……ああ……」
生理的な涙が溢れ、眦を伝う。幼げに首を振りながら必死で相手を押し退けようとしていたカミューだったが、唐突に痛みが変化したのに思わず目を見開いた。言葉通り、魔獣が恐るべき技巧を駆使し始めたのだ。
カミュー自身も知らなかった箇所を重点的に攻められると、今度は苦痛ではない喘ぎが止められなくなった。
「ふ────、おまえの情人は未熟だな。かようなところも知らぬとは……」
嬲る言葉も届かないほど、乱されていた。突き上げる欲望が弱みを擦る度、身体中が震え痺れた。四肢の爪先にまで浸透するような狂おしい快楽。カミュー自身もいつしか反応し、淫獣の手に握られていた。
「い、嫌だ…………あ────」
魔物に昂ぶらされているという意識はあった。自責は彼を責め続けているが、すでに抑えられぬほど身体は暴走を始めていた。
そこでようやく落とされたくちづけに、カミューは必死に応えた。抱き締める腕はマイクロトフの腕、合わされた唇も彼のもの。いつしかそうした錯覚に支配され、夢中で男を貪り返した。
弾みをつけて揺さぶる男の腰に、白い脚が絡みつく。動きを確実に受け止めようと無意識に腰が揺らめく。しがみついた逞しい肩は、いつもと変わらぬ恋人の温もりだった。凍れる瞳と冷然たる言葉、巧み過ぎる侵略さえ除けば相手はカミューの愛しい男なのだ。惑乱され、理性を見失いかけたカミューには、そうした錯覚に縋る以外に救いがなかった。
「────可愛い奴だ…………」
ふと、低い声が囁いた。それは常にマイクロトフが口にしてきた愛の言葉。その一瞬でカミューは崩された。
「マイクロトフ────マイクロトフ!」
極限まで浸透する得体の知れない快楽に、極まって細い嬌声と共に達すると同時に意識を失った。
それを見届けた上で、淫獣は最初の欲望を解放させた。ほとんど息も乱さず、涙に濡れた青年の裸身を見下ろす。その口元には満足げな笑みが浮かんでいる。
「────おまえは…………いい」 喉の奥で呟く。 「おまえさえ素直ならば、殺さず傍に置いてやろう────可愛く愚かな、無力な贄たる人間……」
太い指がカミューの頬に流れる涙を拭った。その仕草は、もしカミューに意識があったなら、マイクロトフと寸分違わぬものと感じたに違いない。
淫獣オーランドはしばらく無言で白い青年の顔を眺めていたが、やがて埋めたままの熱を再び復活させ始めた。
人間を『器』とすることを覚えた魔物にとって、封じられた四百年間は苦悶の時間だった。
長い────長い禁欲だった。一度くらいの放出で満足出来るものではない。長きに渡る渇きを、容易く癒すことなど出来はしない。
それにしても、と魔獣は思った。
この『器』の感情は何と率直で分かり易いことか。よほどこの人間を求めているらしい。
慰んだ人間を引き裂いて殺戮の渇望を満たすのは、淫獣としてのごく当たり前の欲求なのだ。────なのに、殺せない。まるで憑依した『器』の意識に引き摺られているような気さえする。
淫獣がマイクロトフの肉体を自由に出来るのは、今のところは月光に導かれる深夜のみである。完全に同化を果たし、失われた能力のすべてを蘇らせるには、少し時間が掛かるだろう。
完全なる同化、それは『器』である人間の死を意味する。肉体を奪われ、精神を消滅させられるのだから。
────それまでは。
忌まわしき魔性は考える。
それまでは、この人間を生かしておこう。
どうやら身体の具合は素晴らしく良いようであるし、開発され尽くしていない点も気に入った。気丈で、決して屈服しようとせぬ潔さも面白い。誇り高き者が平伏し、あがきながら従わずにいられなくなるという構図はたまらなく愉快である。
意識のない身体を貪りながら、淫獣は低く吠えた。白い肌に薄く浮かんだ汗を野獣のように舐め取り、撫で擦る。
手に入れた獲物の感触を確かめるかのような、まさに人ならぬものの浅ましき狩りであった────

 

 

 

「カミュー……おい、カミュー」
揺り起こされ、ようやく開いた目に男が飛び込んできた瞬間、カミューは思わず身を引いていた。
「カミュー……?」
怪訝そうな声。眉を寄せて心配げに彼を見詰める双眸は、温かで強い。
「マ、イクロトフ…………?」
洩らした声に、懐かしい笑みが応えた。
「どうした? 夢でも見ていたのか?」
カミューは咄嗟に周囲を見回した。昨夜まで付き添っていたマイクロトフの部屋、ベッドに半身を起こした男が真っ直ぐに見詰めている。
「──紋章師の店で気が遠くなってからの記憶がない。おれは寝ていたのか?」
穏やかな口調でマイクロトフが尋ねた。カミューは一瞬返答に詰まった。
「マイクロトフ、おまえ…………大丈夫なのか……?」
「何処が? ああ、どこも悪くないぞ。すこぶる快調だ」
明るく笑って両腕を振り回し、それから微かに眉を寄せて続けた。
「────すまなかった、心配を掛けたな……」
夢だったのかと思いたかった。ここにいるのは確かにマイクロトフである。身体に残る鈍痛さえなかったら、そう信じられたほどに。
凌辱の痕跡は綺麗に消されていた。衣服も乱れなく整えられ、元通りベッド脇の椅子に座らされていた。ご丁寧なことに寝具の乱れさえ直されているのだから、ここで暴行が行われたなど、言われなければわからないだろう。
沈黙の意味をどう感じたのか、マイクロトフがそろそろと手を伸ばした。指先が頬に触れた途端、昨夜の痴態を思い出した。
「さ────触らないでくれ!!」
自らを切り裂きたいほどの嫌悪が走った。
昨夜、恋人の身体をした別のもの、それも人外の忌まわしい獣に抱かれた。そして、自分はそれを受け入れた。貪られ、嬲られながら淫らに悦びを迸らせ、喘ぎ、魔物に翻弄された────。
「どうしたんだ、カミュー。怒っているのか?」
振り払われて心底驚いたマイクロトフが目を見開く。こんな状況は初めてなのだ。
「確かにおれも不注意だったが…………おまえが危険な目に遭うくらいなら、よほどこの方が良かった。頼む、怒らないでくれ」
「────違う」
カミューは俯いて目を閉じた。
「違う…………」
怒らないで欲しいのは自分の方だ。
浅ましく腰を揺らして淫獣を受け入れた自分。たとえそれが愛する男の姿だったとしても、到底許せる事実ではない。
幼子のように弱々しく震える彼を、マイクロトフは引き寄せた。微かに強張ったが、今度こそ間違いなく恋人の腕である。抗うことは出来なかった。
「すまない。すまなかった、カミュー。頼む、機嫌を直してくれ…………な?」
常にないカミューの反応に、ほとほと困り果てた調子で言い募る。これまでなら、この馬鹿野郎とひとつふたつ怒鳴り飛ばされても仕方のない場面のはずだった。
目覚めたマイクロトフが、傍らの椅子に疲れ果てた様子で眠り込んでいるカミューを見たとき、即座に叱責を覚悟したのは当然なのだ。
「マイクロトフ……、マイクロトフ……」
縋り付いて確かめるように幾度も呼び掛ける儚げな肢体に、彼はほのかな疼きを覚えた。しかし、相手のあまりに憔悴した気配に欲望は押し流され、終には愛しさでいっぱいになった。
「カミュー…………」
きつく抱き締める腕の優しい力強さ。
まだ信じることが出来かねている。この男の奥深く、別の存在が息衝いているなど。────ましてやそれが忌まわしい闇の生き物であろうなど。
「カミュー、起きているか?」
ノックと共にフリックの声が掛かった。はっとしてカミューは身を起こす。身体に残るマイクロトフの温もりを恋しく思いつつ、元通り椅子に腰を落とした。
「ええ、起きています…………どうぞ」
マイクロトフが眠り始めてからずっと、片時も傍を離れようとしなかったカミューだった。その真摯さは時に寝食を忘れるほどで、昨日の昼から事情を知るビクトールかフリックが交代で食事を届けてくれていたのである。
入ってきたフリックは、ベッドに身を起こすマイクロトフに気づくなり満面の笑顔になった。
「マイクロトフ! 気がついたのか」
「心配を掛けたようで、申し訳ない」
彼は生真面目に応じた。
「どこかおかしいところはないか? ああ、ちょっと待ってろ、ホウアンを呼んでくる」
サイドテーブルに食事のトレイを置くなり、フリックは飛び出していった。その様子にマイクロトフは苦笑した。
「……どうやら本当に心配を掛けたようだ」
カミューは答えられなかった。
すぐにホウアンとビクトールがやって来た。医師はマイクロトフの開いた衣服の中を丁寧に調べ、頭痛がするか、耳鳴りはどうかと問診を続けた。それらすべてに首を振ったマイクロトフに、ホウアンはにっこりした。
「大丈夫ですね。診た限りでは健康そのものです。気になっていた頭痛なども消えたようですし、もう安静にする必要はないでしょう」
医師が出て行くと、ビクトールは手荒な喜びを示した。マイクロトフの肩をどついて、髪を掻き回す。
「いやあ、良かった良かった。あれを宿せと唆したのはおれだからな、もしものことがあったらカミューに殺されていたぜ」
「それならおれも同罪だ」
フリックが申し訳なさそうに頷いた。
「すまなかったな、二人とも」
「そんな!! おれたちのためにしてくれたことではないか。あなた方の所為だなどと思うはずがない! なあ、カミュー」
振られて、俯いたまま同意した。
────そうだ。彼らは何も知らなかったのだ。
あのような忌まわしいものが封印されているとは知らず、ただ好意から勧めてくれただけで。
「……どーしたあ? 元気ねえな、カミュー……あ、やっぱ看病疲れってヤツか?」
ビクトールはカミューの横顔を窺った。昨夜の食事を届けたのは彼だが、そのときには感じなかった窶れのようなものが白皙の頬に浮かんでいる。
「────気が抜けたんだろう。おまえも少し休んだ方がいい」
「そうだな、何しろこの二日、ほとんど満足に寝てねえんだろ。少し眠れよ」
「そうなのか、カミュー?」
二人の仲間が交互に言うと、改めて驚いた顔でマイクロトフは彼を覗き込んだ。その視線に耐えかねて、カミューは立ち上がった。
「…………そうさせてもらいます。あの────、ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。わたしのことまで気遣っていただいて…………」
「ああもう……そう固ッ苦しく考えるなよ。仲間だろう?」
不安が晴れて殊更朗らかなフリックの口調が、いっそう胸に突き刺さった。
彼らはこれほどまでに案じてくれている。良い仲間だと心底思う。決してあの魔性をこの地に解き放つことなど出来ない。
奴は言ったではないか、掌るは殺戮と破壊──────

 

脚がふらつきそうになるのを叱咤して、かろうじてドアに着いたとき、サイドテーブルに置き去りにされていた食事のトレイが目に入った。透明なカップに満たされた水に自身が映った刹那、叫び出しそうになった。
ずっと不思議には思っていたのだ。
あのマイクロトフが、彼の外見のほんの僅かな変化でも見逃すはずがない。顔に残る殴打の跡など、血相を変えて理由を問い詰めずにはいられない男だ。
昨夜、手酷く殴られたのは確かだ。あれほどの一撃をまともに受けたのは初めてで、唇は切れて口腔に血の味がしていたし、長い間頬がじんじんと痛んでいた。
なのに、水に映る自分は普段とまったく変わりない。痣が残るどころか、疲労を如実に現して青白いほどだ。つまりは、魔獣は傷跡を残さぬだけの能力を持っているということなのだ。
悲鳴が口を吐く前に、すべるように部屋を飛び出した。隣り合う自室に飛び込み、ベッドに身を投げる。
やはり夢でも幻でもない。
マイクロトフの肉体には魔獣が棲んでいる。昼の間はじっと息を潜めて存在を隠し、夜の訪れと共に目を醒ますのだ────

どうすればいい。
どうしたら淫獣を追い出すことが出来るのか。追い出した先はどうなるのだろう。他の『器』とやらを見つけて、今よりも尚凄惨な犠牲者を狩り立てるのだろうか。
同時にカミューを苦しませているのは、自身が不実を働いたという意識である。恋人のものではない愛撫に身を捩り、喘いで求めた浅ましさ。恋人の幻影に惑わされたにしろ、やはり許し難い裏切りだと思う。
マイクロトフがそれを知ったとき、どうなるのだろう────

カミューは怯え、すべてのものから目を逸らせ、耳を塞ぎたかった。やがて疲労が押し寄せてきて、重い眠りに落ちていく。

それは、これからの苦難の日々へ備えよと神が与えてくれた最後の安らぎのときだったかもしれない。

 

 

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あまりエロくなりませんでした(轟沈)
赤が達ってしまったのには賛否あるでしょうが、
でないと話が続かんので見逃してください(死)

次回、突っ込まれる前に宣言しておきます。
うちの主人公、「またたきの手鏡」
忘れて行きました(爆笑)。
多分ゲームでは
軍師が受け取って戻るような気がしますが……。
大変だったろうね、キャロや天山の峠への旅。

今後はエロモドキが続きまくるような……(惨)

 

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