愛が試されるとき・2 ──淫獣の囚われ人──
『何処も異常ありませんよ、眠っているだけです』
ホウアンが太鼓判を押してから、しかしすでに二日が過ぎていた。マイクロトフは未だ自室のベッドで眠り続けている。その傍らには常にカミューが控えていた。
騎士団を再興するためにロックアックスへ向かう。そう宣言していたものの、青騎士団長の昏倒に騎士団は動くことが出来ない。已む無く彼らは周辺のモンスター退治などに出掛けている。モンスターから得る金は、騎士団再興の資金に充てることが出来るからだ。
「マイクロトフ…………」
カミューは切なく呼び掛けながら男の短い黒髪を撫でた。
自分よりもはるかに強い男だと思っていた。身体も、そして精神も。
そんな男が力なくベッドに横たわる姿を見る現実は、ひどく異質なものに触れた感覚だった。それでも離れられない番いの鳥のように、飽かず男の寝顔を見守り続けている。
『あんまり根を詰めるなよ、起きるときには起きるさ。ホウアンも全然異常はないと言ってただろう?』
ビクトールやフリックの言葉も、今のカミューの慰めにはならなかった。眠っているだけだというが、それも異常には違いないのだ。
もし、このまま目覚めることがなかったら────そう考えると、彼の心は凍りつく。
「────だから、わたしが宿すと言ったのに」
小さく呟いてベッドに顔を伏せる。
愛してやまない心の半身が危険に曝されるのは耐え難い。それはカミューとて同様に抱く想いなのだ。だが、マイクロトフはいつも彼を庇う。その腕であらゆる苦難から守ろうと立ち向かう。それが嬉しくもあり、つらくもあった。
「何もしてやれないのか……? こうやっておまえの目覚めるのを待つしか出来ないのか……」
搾り出すようにうめいたとき、ふと男の身じろぎを感じた。はっと顔を上げると、マイクロトフの目が開いていた。
「マイクロトフ!」
安堵と喜びに思わず声が上がる。が、次の瞬間には眉が顰められた。マイクロトフの双眸は、天井に向けられたままカミューを一顧だにしないのだ。
「────?」
怪訝に思いつつも、この二日丸々意識のなかったことの反動かとカミューは辛抱強く待った。やがて幾度か瞬きを繰り返した男が、小さく唸った。
「マイクロトフ、大丈夫か……?」
そっと語り掛けると、男の目がゆっくりと動いた。その瞳にはカミューが映っている。が、彼はまるで感情を匂わさない静かな眼差しをしていた。
「……倒れたんだよ、紋章師の店で。おまえは二日も眠り続けていた──心配したんだぞ、本当に」
記憶が曖昧になっているのかと思いつき、カミューは柔らかく教えてやった。
「このまま目覚めなかったらどうすればいいのか、と…………わたしは……」
知らず、声が詰まる。それから思い出してカミューは頷いた。
「そうだ、ホウアン殿を呼んでこなければ。もう一度改めて診ていただいて……」
「──────その必要はない」
立ち上がり掛けた腕を、素早く動いた男の手が掴む。長いこと眠り通しだったとは思えない反射の速度に、カミューは驚いて動きを止めた。
「しかし、マイクロトフ……」
「…………同化に時間が掛かっただけだ」
意味不明の言葉を吐き出しながら、男がゆるゆるとベッドの上に上体を起こす。それから一度俯いて大きく息をつき、次に顔を起こしたときには笑みが浮かんでいた。
その表情を見た瞬間、カミューは冷たいものが背中を駆け下りていくのを感じた。マイクロトフが浮かべる微笑み、それは未だかつて見たことのない種類のものだったのだ。
笑っているが、黒い瞳はまったく感情を宿していない。むしろ冷たくカミューを値踏みしているようにさえ感じる。最愛の男に笑顔を向けられながら、後退りたい不安を覚えていた。
「……どうした? 何を怯えている…………」
アルカイックな笑みが続く。掴まれた腕から冷え冷えとしたものが全身に広がっていくようだった。
「マ、マイクロトフ…………?」
「────吾もおまえに会いたかったぞ」
低い、情感の死に絶えた声が言うなり、カミューは男の胸に抱き寄せられていた。謂れのない恐怖も、慣れた抱擁が消してくれるかと思ったのも束の間、カミューはマイクロトフの人称の違いに気づいた。
はっとして見上げたとき、唇が奪われた。驚く間もなく滑り込んだ舌が、生き物のように口腔を荒らし回る。刹那、カミューは嫌悪と恐怖に激しくもがいた。
────違う。
マイクロトフのくちづけは乱暴で不器用だ。溢れる想いのまま貪り尽くすような、無我夢中の求愛なのだ。こんな物慣れた遊び人のような技巧など持っていない────。
どういうことかなど二の次だった。全身から噴き出す本能的な排斥に、男を押し退けようとした。ところが相手は抗いなどものともせずに、カミューの背中に回した腕に力を込め、いっそうきつく抱き込む。そのあまりの力に息が詰まりかけた。
「…………マイクロトフ!」
叫んだ唇を、またも熱っぽいくちづけが襲う。ねっとり絡みつく舌から逃れようと、必死に顔を背けた。
「何を逃げる? おまえはこれが欲しかったのであろう……?」
陰険な笑い声。
カミューははっきりと悟った。これはマイクロトフではない、何か別のものだ。
それも、────あまり性質の良くないもの。
今度こそ両腕の力を振り絞って男の胸を押した。
「…………貴様、誰だ?!」
「マイクロトフ、……だとも。おまえの恋しい、情人だ」
ほくそ笑んでいた男の表情が、終に完全に恋人の面差しを失った。そこに現れたのは表皮一枚でかろうじてマイクロトフと呼べる、冷酷で残忍な悪魔だった。
マイクロトフが表情を失ったことは幾度か見たことがある。怒りが頂点を越えたとき、彼は人懐こい面を消して見知らぬ男になる。だが、こんな顔は知らない。陰湿で、追い詰めた獲物を嬲るような笑い方は。
カミューは目眩を起こしかけた。
「違う、貴様はマイクロトフではない!」
「情人よりも巧みにしてやったのが気に入らぬか?」
男はぺろりと舌なめずりした。その淫猥さには、もはやマイクロトフの気配は欠片もない。
それに、さっきからカミューは全力でもがいているのに、まるで男の拘束から逃れられない。確かにマイクロトフの力も相当なものだが、これはすでに人の域を越えているように思われた。
「マイクロトフ…………マイクロトフをどうした?!」
最初の恐怖が極まると、次には怒りに塗り潰された。マイクロトフの存在を消した邪悪に、カミューは恐れることすら忘れて叫んだ。マイクロトフの顔をした『何か』は、束の間無言でカミューの様子を眺めていた。
「────ここにいる」
「な、何?」
「おまえの情人は眠っている。この肉体は今、吾のもの」
未だ強い腕に抱かれながら、カミューの全身から血が引いていった。
「何、だと…………?」
「案ずるな、未だ同化は不完全。昼の間は返してやる。吾が力を得るのは月が天空に昇ってから日の出前まで────少なくとも、今のところは」
「ど……ういうことだ……貴様、いったい……何者だ?」
衝撃に震え、それでもカミューは気丈に問い詰めた。
「吾は淫獣、名をオーランド」
「────インキュバス……?」
「そう、伝説に屠られた古の神。ハルモニアにて四百年前に封印されたが、ハイランドを経てこの地に着き、ようやく肉体を得た。この上もなく理想的な『器』を、な────」
魔物はカミューから離した片手で愛しげに自らの身体を撫でた。
「……若く、力に満ち溢れた肉体。吾の力を増幅し得る価値ある『器』。吾は当初、ハルモニアよりハイランドのルカ・ブライトに贈られた。だが、あの皇子が失われ、もはや再び封印を解かれることはないかと思われたが────何と幸運なことよ」
くっくっと喉の奥で笑っていた淫獣は、必死に意味を飲み込もうとしているカミューに向けて、更に諭すように告げた。
「吾が封じられしは『淫欲の紋章』、二十七の真の紋章より零れ落ちた、いわば逸れもの。かつてハルモニアの神官共が総出で吾を封じた──吾の秘めし力に恐れ戦いて」
過去を蘇らせたのか、不意に淫獣の声は凄まじいまでの怒気を孕んだ。
「いじましくも愚かな人間共!! あのちっぽけな封印球に囚われた吾を、それでも手放すことが出来なんだ。いずれ戦乱の折の手駒にでもせんと思うたのだろうが、そうはいくか。 吾は解放された、肉体を得た! いずれ完全にこの肉体を支配し、閉ざされし力を蘇らせる。吾は再び恐怖の王となる!」
「────マイクロトフを……マイクロトフを返せ! 貴様などにその身体を奪わせなどしない!」
語気も荒くカミューは男の胸倉を掴んだ。
「貴様が何者であろうと、わたしには関係ないことだ。だが……だが、マイクロトフの身体を使うなど許さない!」
「────許さぬ、だと?」
自らの言葉に陶酔していたように見えた魔物が、ふと笑いを納めた。刹那、カミューは力任せの平手打ちを食らってベッド脇から跳ね飛ばされた。
「……口の聞き方に気をつけるがいい、人間」
淫獣がゆっくりとベッドから立ち上がる。あまりの衝撃に膝をついたままのカミューを見下ろし、その暖かな色合いの髪を鷲掴んで引き上げる。
「うっ…………」
「ショックか、人間」
嘲笑うように淫獣が吠えた。
「吾には同化した『器』の記憶が読める。おまえと『器』が親密な間柄であったことも知っておる。殴られたことがショックか、人間よ?」
「く、くそ…………っ」
カミューはそれでも魔物を睨み付けた。
「────そうだな、おまえはこうされるのが好きであろう……?」
半ば宙吊りにされたまま手荒く下肢を探られて、今度こそカミューは凍りついた。
「や、やめろ!」
「何故だ?」
低く笑い続けながら淫獣は手を止めない。きつく握り込まれて抵抗が弱まる。
「情人の指であろう? 悦んだらどうだ」
憑依されているとはいえ、相手はマイクロトフの身体だ。そうするにはかなりの苦痛を覚えたが、カミューは終に手を振り上げ、男の頬を打ち据えた。
魔物は一切動じた気配を見せなかった。むしろ、黒い瞳が薄暗く揺らめき、静かな怒りが蓄積していくのが感じられた。
唐突に、カミューは腹部に激痛を見舞われた。薄い腹に減り込むばかりに男の拳が突き刺さったのだ。一瞬息が止まり、目の前が暗くなった。
「────情人を殴りつけるとは……困ったものだな。少々調教が必要ではないか、人間」
掴まれた髪が解放され、その場でよろめいたカミューの頬に、再度容赦ない一撃が飛んできた。今度は立っていることさえ出来ず、崩れるように床に這う。
「古来、吾は実体を持たぬ影の存在、破壊と殺戮の神であった。だが『器』を得て新たな力を振るうことを知ったときより、実に好ましい習性がひとつ加わった……」
力強い歩調で男の足が歩み寄る。ぐいと引き上げられたカミューは、肩当てのベルトが乱暴に引き毟られるのを感じた。続いて騎士服の襟が力任せに寛げられ、彼は苦痛を堪えつつ目を開いた。
「……何故、吾が淫獣と呼ばれるか──わかるか? 吾の欲望にのた打ち回る人間を見るは、何よりも吾を満たす憩いの儀────」
言葉の意味を悟って残る力を掻き集めた抵抗も、ベッドに叩き込まれたときにはすでに意味をなさなくなっていた。
「────『器』もおまえの肌に焦がれておる。さあ、吾に身体を開け」
続いて伸し掛かってきた重みが、絶望と共にカミューを押し潰した。
悪役オーランド君の登場です(死)
いや、あんまり名前付ける必要なかったけど、
名無しじゃ気の毒かと……(笑)
淫獣(インキュバス)というのは、
幾つかの本で(忘却済み・汗)で読みました。
本当は子孫を残すため犯りまくるんですね〜。さて、次はエロ定義を満たしますかな(爆)