愛が試されるとき ──淫獣の囚われ人──
少年が城から去って六日が過ぎようとしていた。
後を追った軍師からの連絡もなく、人々は案じながらも新しい生活への準備を始め出している。
そんな城内の一室で、マチルダ出身の二人が話し込んでいた。
「──やはり最初は説得から始めるべきだろう。ロックアックスの騎士もまた、自らの信念に従っただけなのだから」
端正な面差し、思慮深い声。赤騎士団長の言葉に、向かい合う固い表情が強く頷く。
「そうだな、説得はおまえに任せる」
「……やれやれ、面倒なことはすべてわたしか」
カミューは小さく苦笑した。
「まあいい。おまえが冷静に騎士連中を説き伏せられるとは思えないしな、マイクロトフ。その代わり、戦いとなったら精々張り切ってもらうぞ」
「──戦いか。気が進まんな…………」
かつて仲間だった騎士に剣を向けるのは苦痛だ。それはロックアックス攻防の折に痛いほど味わった。青騎士団長の心中は、そのままカミューのものでもある。
二人が同盟に身を投じたとき、道を分かった仲間たち。敗北によって行き場を失った彼らを救い、マチルダ騎士団を再興すると決めた以上、行く手を阻むものは排除せねばならない。それが大きな戦いへと発展しないよう、今は祈るしかなかった。
「……マイクロトフ、わたしだって同じ気持ちだ。できれば血を流さずに騎士団を再興したい」
「カミュー…………」
柔らかな口調で慰撫したカミューに、マイクロトフは微笑み返した。すべてを分かち合う二人にとって、そんな小さな表情や声色が雄弁に心情を伝えるのだ。
「大丈夫だ、おまえにはわたしがついている。何も恐れずに進め、必ず運が味方する」
「──頼もしいな」
マイクロトフは愛してやまない恋人の頬に手を伸ばした。
その右手に宿るのは『騎士の紋章』、彼を構成する信念と誇りの象徴である。
カミューは温かな男の掌にそっと自らの手を重ねた。触れ合う指先はどちらも熱を帯びて想いを語る。
騎士団再興の構想を中断させて互いのぬくもりに酔っていた二人を、慌しいノックが遮った。
「マイクロトフ、カミュー、いるかあ?」
騒々しい濁声で呼びながら、ずかずか入ってきたのは同盟軍の中でも中枢中の中枢、大柄で人望のあるビクトールであった。
「お、いたいた。時間があるなら、ちょっと付き合ってくれねーか?」
「何か……?」
言い掛けて、カミューははっとした。
「……彼が戻ったのですか?」
「いやあ、そうじゃねえ」
ビクトールはぽりぽりと頭を掻いた。
「期待させたか、悪い悪い。そうじゃねえんだが、ちょっと面白いものが手に入ったんでな」
「面白いもの?」
「歩きながら話す」
促され、二人は顔を見合わせながら立ち上がった。
ビクトールの話はこうだった。
王都ルルノイエを陥としてから、その見事な王宮を見物に行く連中が絶えなかったのだが、その中にホイという男がいた。
この男、仲間の一人で人柄は憎めないのだが、何しろ手癖が悪い。王宮の品を持ち出さないようにと宣告していた軍師の言葉を無視して、色々な宝物を持ち出したのである。
ところが、それがフリックに見つかった。
潔癖なところを持つ彼は、直ちにそれらの品を押収した。が、その中にひとつの封印球があったのである。
「それがなあ、ルックの奴も見たことのない代物だっつーじゃねえか。何でもルカ・ブライトの部屋から拾ってきたらしいんだが、そうなると結構なモノじゃねえかってさ」
「はあ…………」
「威力のある紋章なら、これからのおまえらに必要じゃねえかってフリックの奴と相談してな。────騎士団を再興するんだろ?」
ビクトールは朗らかに言い募る。
「まあ、これから一勝負あるかもしれねえのはおまえらくらいだし。だから、どっちかが宿してみねえか?」
二人は再度顔を見合わせた。
「しかし、そのような大層なものを……」
「いいって、いいって。放っときゃどっかの倉庫の隅で眠っちまうんだ。貰って行けよ」
二人は感激した。確かに今後すぐに戦いの可能性のあるものは少ないだろう。それでも、こうして気遣ってもらおうとは思ってもみなかった。殊にこうした好意に率直なマイクロトフが、今にも手を握らんばかりの勢いでビクトールに詰め寄る。
「感謝する、ビクトール殿! おれは、あなた方の好意を決して忘れない!! 本当にすまない!!!」
「………………あ、ああ……喜んでもらえて、おれも嬉しいぜ」
あまりの勢いに些か後退りながら、ビクトールは笑い返した。
三人が紋章師ジーンの店に行くと、そこにはすでにフリックが待っていた。
『青雷』の二つ名を持つ彼は傭兵として名の知れた男だ。人間的にも温かく、ビクトールと共に同盟の中心人物である。
「おう、来たか」
「フリック殿! この度はお心遣い感謝する!!」
またもずいと進み出たマイクロトフに、フリックは苦笑混じりに頷いた。
「──────本当に宿すの…………?」
そんな一同に掛けられた声は、しかし僅かに低かった。紋章師ジーン、妖艶な美女だが、表情が翳っている。
「……わたしも長いこと紋章を扱っているけど、こんな封印球を見るのは初めて。どんな力が隠されているのか、まったくわからないの。やめておいた方がいいんじゃないかしら…………」
「けど、それだけ物凄い威力があるかもしれねえってことだろ?」
ビクトールが高らかに笑い飛ばした。彼の大雑把さは青騎士団長に張るかもしれないと密かに思うカミューだ。
「確かに、宿してみないと何とも言えないが……ルカ・ブライトが持っていたなら、そうセコイものでもないだろうしな」
フリックが慎重に呟いた。
そこまで言われて、ようやくジーンも納得したらしい。
「わかったわ。どちらが宿すの?」
「では、わたしが…………」
進み出たカミューを即座にマイクロトフが押しやった。
「おれに頼みます」
カミューは驚いて横の男を見上げる。フリックも首を傾げた。
「……カミューの方がいいんじゃないか? 魔力は上だろう?」
「それはそうだが……」
マイクロトフは微かに躊躇し、それから一気に言った。
「たとえ威力は大きくとも、得体の知れない紋章なのだろう? 害があってはならない」
確かに紋章の中には力と引き換えにマイナスをもたらすものがある。マイクロトフの懸念はもっともだったが、庇われたカミューは頬を染めずにはいられない。
「……別に大丈夫だろう」
「いや、駄目だ。どんなことでも、おまえが危険に曝されるのは耐えられない。おれに宿してくれ」
カミューを押し退けるようにしてジーンの前に進む男に、二人の関係を薄々察しているビクトールとフリックは苦笑するしかない。
「だが、マイクロトフ…………」
なおも言い募ろうとするカミューを、笑いながらビクトールが制した。
「いいじゃねえか、カミュー。ひょっとすると魔力とは関係ない紋章かもしれねえし。『馬鹿力の紋章』とかだったりしてな」
「そんな…………」
カミューが戸惑ったところでジーンが確認に入った。
「いいのね、じゃあマイクロトフさんに宿すわよ」
「ああ、やってくれ」
城の男達を蕩かすジーンの魅惑的な肢体も、マイクロトフにはまったく価値なきもののようだ。彼は真っ直ぐに唇を噛み締めたまま、女紋章師の前に無造作に左手を突き出した。
「じゃあ…………やるわ」
神秘的な技が開始された。
封印球の中に潜む陰影が僅かに揺らめいたように感じられた刹那、異変は起きた。
唐突に激しい閃光が店内を貫き、封印球から怪しい霧が噴出したのだ。白濁とした霧は一瞬のうちに紋章師とマイクロトフを包み、残る男たちには二人を目視することが出来なくなった。
「マイクロトフ!」
「ジーン!!」
カミューとフリックの叫びが同時に響いた。彼らは最初の閃光に目を焼かれながら、それでも白い靄の中で倒れるひとつの影を何とか捉えた。
「くそっ!」
恐れを知らぬ男たちの中でも、格別獰猛なビクトールが霧の中に突進していく。続こうとするカミューを、フリックが止めた。
「待て! ここはビクトールに任せろ」
「──────しかし!」
「全員があの中に入るより、その方がいい! それより、霧が晴れた瞬間に気をつけろ!!」
フリックは正しい。カミューは身を裂かれる不安に戦きながらも、フリックに倣って剣を抜いた。
「いったい、何だって言うんだ?」
漂ってくる靄を払い除けながらフリックが唸る。中に飛び込んでいったビクトールが争っているような気配はない。ただ、白い靄の中に影が蠢いているのが漠然と確認できるばかりだった。
やがてバサバサと靄が扇がれて、人影がくっきりしてきた。目を凝らす二人に大声が呼び掛ける。
「おーい、手を貸してくれ」
ビクトールだった。カミューとフリックは目を合わせ、薄れ始める靄の輪郭に身を投じた。
彼が助け起こそうとしているのはジーンだ。彼女は店の奥に倒れこんでおり、朦朧としているが意識はあるらしい。
「大丈夫か、ジーン!」
フリックが声を掛けると、彼女は銀の髪を揺らしながら何とか頷いた。
「わ、わたしは大丈夫……彼が咄嗟に突き飛ばしてくれたから……」
倒れた影はジーンだったのだ。異変を察知したマイクロトフが、やや手荒ながら彼女を庇って非難させたのだろう。一応はほっとしながら、カミューはすぐにもうひとりを探した。
「マイクロトフ────マイクロトフ!」
薄らいできているとは言え、靄は依然店内に立ち込めている。だが、その白く漂う異変が一点を目指すように引いていくのに気づき、カミューは息を詰めた。靄の進む先に、立ち尽くす大きな人影がある。思考よりも早く足が駆け出した。
「待て、カミュー!!」
「離して下さい、マイクロトフが…………」
「うかつに近寄るな、危険だッ!!」
ならば尚更だと叫びたかった。半身に等しい男を、得体の知れぬものの中に取り残しておくことなど、どうして出来よう。
掴み止めようとするフリックをかわした彼を、今度はビクトールが捕まえた。さすがにこの男の制止を振り切るだけの力はない。カミューは小刻みに身体を震わせながら、靄が晴れていくのを見守るしかなかった。
凍りつくような時間が過ぎ、ようやく青い騎士服が見極められるようになったとき、カミューは安堵の涙が浮かびそうだった。やや呆然とした表情だったが、マイクロトフは目を開き、呼吸していることが確かめられたのだ。
「マイクロトフ……」
腕の中でもがくカミューに気づき、やっとビクトールは押さえ込む力を緩めた。すぐに彼はマイクロトフに走り寄った。
「マイクロトフ、無事か!」
「────ああ、カミュー…………」
掠れ声ではあったが、意識もしっかりしている。相手に案じさせたことを詫びるような笑みさえ浮かべた。
「大丈夫か? 何処も痛まないか?!」
それでも不安げに詰め寄るカミューに今度こそはっきり頷いて、白い歯を見せた。
「……驚いたがな」
「…………あまり脅かさないでくれ」
フリックも続けた。
「本当にどこもおかしくないか?」
「ああ、少し耳鳴りがするような気もするが…………大丈夫だ」
マイクロトフは己に見入っているカミューに向かって再度笑い掛けた。
「だから、わたしが…………」
「──ああ、おまえが無事で良かったよ」
勢い込んで責めるカミューを優しく遮る、常と変わらぬ温かな口調。ようやく心からほっとしてカミューは力を抜いた。
ビクトールとフリックは、別の意味で感動していた。
この赤騎士団長は日頃淡々としていて、他人に感情を露にするところなど見せたことがない。穏やかで人当たりが良く、常に冷静で礼儀正しい。それが二人のカミューへの評価であり、城の大部分の人間の意見でもあるだろう。
だが、たった今見せた痛々しいまでの感情の揺らぎはどうだろう。
マイクロトフを救おうと慎重さもかなぐり捨てて叫び、駆け出そうとした彼の姿に、紛れもない深い情を垣間見た。おそらくは自分たちの関係を隠しているつもりであろう彼からは、想像出来ない必死さだったのだ。
「だいたい、おまえはいつだってそうやって…………」
「……カミュー、カミュー────すまない、少しだけ声を落としてくれ」
切なげに責め続けようとする声に、マイクロトフが小さく懇願した。
「……やはり、耳鳴りがする。それに────少しばかり頭も痛いような……」
「何だって?」
慌てて表情を覗き込もうとしたカミューの前で、大きな身体が突然傾いだ。
咄嗟に支えようと手を差し伸べたが、彼の腕に男の身体は余った。更に背後から支えてくれたビクトールの腕がなかったら、二人一緒に床に転がっていただろう。
「大丈夫か?」
問われながらもカミューは己が胸に伏した男が気になり、思うように声が出ない。そんな彼の代わりにビクトールがマイクロトフを肩に担ぎ上げた。さすがに同様の体格をしているだけある。
「……なーに、ちょいと寝かせておけば平気さ。あんまり心配すんなって」
不安を打ち消すように軽く言うと、ビクトールはずんずん歩き出した。歩調の速さは言葉とは裏腹に、内心の不安を示すかのようだ。
弾かれたように後を追うカミューの後で、フリックがもう一度ジーンを見遣った。
「あんたは何処もおかしくないか? 何ならホウアンに診てもらった方がいい」
「わたしは大丈夫。耳鳴りもしないし、頭も痛くないわ。でも────変ね」
「何が?」
「わたし、確かに彼の左手に紋章を宿したはずなのに…………『必殺』が外れなかったみたいなの」
ルルノイエを攻略した際、マイクロトフの左手には『必殺の紋章』が宿されていた。通常その上に新たな紋章を宿すと、元の紋章は封印され、封印球に戻る。
その流れを踏まなかったということは、彼らの持ってきた封印球が異質であるという証明だ。
「──他の場所に宿ったということはないのか?」
フリックの言葉にジーンは強い否定を返した。
「ないわ。彼は額に宿せないし、第一、そんなことは有り得ない」
「…………ちっ、結局紛い物だったのかな……」
軽く零したフリックだったが、ジーンは未だ不安げだった。
「何か良くないものの封印を解いてしまったのでなければいいけど……」
「大丈夫だろ」
言いながらも、意識を飛ばしたマイクロトフの様子を思い出した彼は眉を潜めた。
「──────大丈夫さ…………」
自らに言い聞かせるように呟き直して、フリックは先に行った仲間を追い始めた。
それは確かに忌まわしき存在が解き放たれた瞬間であったのである。
しかし、今の彼らには知る由もなかった────
→ 続く
はい、導入部です。まだ全然平和です。
この恥ずかしいタイトルへの文句は
エミリア女史に言ってください(笑)
次は悪者のお目覚めです。
でも身体は青〜〜。
だからかろうじて隠しに留まる(笑)
最後まで連載できるかのう……不安だ。