愛が試されるとき・15 ──淫獣の囚われ人──


 

伝えたいことは溢れるほどだった。
だが、そのいずれもが言葉に詰まるような哀しい想いだった。
だから二人は無言のまま、長いこと視線を交わし続けるだけだった。
固く結び合わされた互いの手の温もりを、噛み締め愛おしみながら。

 

長い苦悶の日々からの解放によって道場で昏倒したカミューは、マイクロトフに抱かれて自室まで運ばれた。
マイクロトフとて疲労していなかったわけではない。己の肉体を支配する魔物との精神下における戦いは、仲間の誰もが想像つかないほど過酷な劣勢に終始したのだ。
これまで彼には、淫獣の支配下に置かれている間の記憶は一切なかった。唯一の例外が昨夜の悪夢のような狂宴だった訳だが、今宵は違った。
肉体を乗っ取られる直前まで精神に防御を張り巡らせていたことの恩恵なのか、淫獣が彼を思うがままに使い始めたときにも意識ははっきりしていた。
まさにひとつの身体に二つの意識が共存しているといった状態である。
決して相容れぬ精神存在を前に『戦う』といったところで、どう歯向かえばいいのか。相手は姿形もない、自分の中にある『意識』なのだ。
最初はまったく手の施しようがなく、目の前で仲間が痛めつけられるのを見せつけられながら憤怒に燃えるばかりだった。

────その『力』は唐突に生まれ出た。
右手に宿る『騎士の紋章』が焼け付く痛みを伴って彼を導いたのである。
マイクロトフの心魂を込めた願いに紋章は応えた。
淫獣の支配と拘束を前に、仲間と、誰よりも大切な相手を守ろうとする意識の力を増幅させ、終には敵を捩じ伏せたのだ。
それを奇跡と呼ぶならば、まさしくマイクロトフは奇跡を起こした。
彼の強靱な精神力、揺らがぬ決意と熱情が、現実に持つ以上の力を紋章から引き出したと言ってもいい。

我が身から魔物が抜け落ちて、やっと自らの意志でカミューを抱き締めることが出来たとき、彼は周囲のすべてに感謝の祈りを捧げた。
腕に抱いた恋人は細く力なく、崩れるように胸に沈んだ。その身が受けてきた苦痛と慟哭を思えば、どれほど抱き締めても足りなかった。
部屋に戻り、昨夜の痕跡を綺麗に消したベッドに横たえたカミューに丁寧に上掛けを引き上げ、傍に寄せた椅子に腰を落としたまま飽くことなく眠りを見守った。
二度と、その眠りが忌まわしき悪夢に汚されぬよう、心の底から願いながら。
やがて、遅ればせながらマイクロトフは気づいた。カミューの白い陶磁器のような頬に、べったりと血痕がこびりついていることに。
それはマイクロトフが流した血だった。淫獣によって貫かれた右掌で触れたが故の、いわば戦いの名残りだ。
彼はすぐに水差しから汲んだ水を含ませた布でそっと血糊を拭った。ほんの僅かでも、あの悲惨な戦いの足跡を恋人に残したくはなかったからだ。
出来る限りに慎重にしたつもりだったが、それでもカミューの眠りは妨げられた。緩やかに開かれていく琥珀の瞳に、思わずマイクロトフの全身は強張った。

────あの一瞬。
確かにカミューは正気だった。
彼の祈りに応え、儚くも美しく、毅然として彼を選び取ってみせた。
だが、それが完全なる覚醒だという保障はない。心構えが出来ぬうちに直面する現実にマイクロトフは狼狽え、ただ息を詰めるばかりだった。
幾度か瞬かれた瞳が、ゆっくりとマイクロトフに向けられる。よほど激しく消耗しているのか、しばらくの間はほとんど反応らしいものは現れなかった。
次第にその眼差しに光が戻り、マイクロトフの存在を認めるなり、彼は切なげに目を細め、懐かしげな表情になった。最初の反応が恐怖や嫌悪でなかったことに安堵して、マイクロトフはほのかな笑みを浮かべた。
カミューは上掛けの中からそろそろと手を差し伸べた。さながら躊躇するような不安げな動きに、マイクロトフは即座に白い手を握り締めた。
宥めるようにしっかりと両手で包み込み、細い指先にくちづける。
カミューは何事か言いたげに幾度か口を開きかけたが、結局無言のままマイクロトフを見詰め続けた。

言葉が出ないほど疲れ果てていたわけではない。言いたいことは喉元に溢れかえっている。だが、そのどれもが口にするにはあまりにつらく、怯懦してしまうのだ。そんな彼の心中を慮って、マイクロトフもまた無言を通した。
────ただしっかりと取り戻した温かさを反芻して。

「……マイクロトフ……」
やっと洩れた声は常に似合わず弱々しく、彼の衰弱を窺わせたが、今はむしろ胸の痛みからくるものだろうとマイクロトフは考えた。
「マイクロトフ、わたしは……おまえに詫びなければならないことが……」
────胸を突かれた。
これほどまで傷つき、疲れ果てていながら、何故もっと自身を思い遣らないのだろう。
何を詫びる必要が彼にあろうか。むしろそれは自分の方にあるはずだ。
何も知らず、彼ひとりを絶望の暗闇に取り残した。
気づいてからでさえ、無力にも引き裂かれていく彼を見詰めるしか出来なかったというのに。

「……昨夜……淫獣が言ったことは、本当だ……わたしは……おまえでないとわかっていながら……」
惑乱の中で錯覚を起こした。魔物の愛撫に身を捩り、その背中を掻き抱いた。同じ身体だからということは言い訳になどなるまい。
確かに幾度となく不義と呼ばれる行為に歓喜した自分。カミューはその事実に耐えられなかった。
淫獣の暴力によってどれほど傷つけられても、誇りとマイクロトフへの想いが彼を支えた。だが、その魔物を抱き返した自分を許してくれる存在は何処にもなかった。
マイクロトフを取り戻さねばならないという焦り、そして度重なる暴行、責め立てる自責の渦。逃げ場を求めて落ちた闇に、だがマイクロトフは力強く踏み込んできた。手を差し伸べ、頬に触れ、慈しみの言葉で温めてくれた。
こうしてマイクロトフが戻り、魔物が封じられた後に残るのは、ただ絶望の自責のみ。

 

「言うな」
不意にきっぱりとマイクロトフが遮った。有無を言わせぬ口調に思わずカミューは伏せがちだった目を上げる。
「……言う必要などない」
「だが……」
「ならば聞くぞ? おまえはおれが、あの魔獣に操られておまえにした仕打ちをくどくどと詫びるのを聞きたいか?」
「……────」
「どれほど詫びたところで償えるとは思わない。おまえの傷が癒えるとも思っていない。おれが何も知らず、安穏と過ごしている間、ずっとおまえはひとりで苦しんで」
「……マイクロトフ」
「おれは何もしてやれず、目の前で行なわれていることを止めることもできず」
「────やめてくれ」
「おまえが言葉を失い、感情さえ放棄するほど傷ついたのは何もかもおれの……」
「……やめろ!」

悲痛な叫びを上げてカミューは握られた手を振り解いた。その拍子に相手の右手にうっすらと残った傷痕が目に入る。
掌の中央を走る微かな刀疵。回復魔法によっても完全には消えなかった傷は、骨張った甲にも同様に残っている。カミューの視線に気づいてマイクロトフはふと口調を変えた。穏やかな響きが疑問に答える。
「淫獣に……ざっくりと、な。おれが反乱を起こしたのに苛立ったらしい」
言いさして、左手に握った見えない剣で我が手を刺し貫く仕草を見せた。カミューが痛ましげに顔を歪めるのに優しく笑って首を振る。そして改めて彼は傷ついた右手を伸ばしてカミューの手を掴んだ。
「わかるか、カミュー? だからこそ、おれは戦った。おれの存在を守るため……そしておまえを救い出すために。それが唯一おれに残された道だったからだ。おまえも同じだろう? おれを力づけてくれた、自らの意志で戻ってきてくれた。それ以上に何が必要だ?」
透き通った琥珀にみるみる熱いものが込み上げてくる。

いつだってそうだ。
こうして彼は自分を救ってくれる。
巧みではない言葉を振り絞り、誠実な光を注いで導いてくれる。
自らが受けた傷の重さと、マイクロトフの掌に残った傷は同じ重さに違いない。
────いつしか薄れ、消えるはず。
カミューは我が手を握ったままの右手に唇を寄せた。あのとき、眠るカミューにマイクロトフがしたように、そっと傷痕にくちづける。
「……これは勲章だ」
マイクロトフは微笑みながら囁いた。
「おまえと……おれ自身を取り戻した功績に与えられた……、な」
カミューはようやく薄い笑みを浮かべた。
長いこと見ることが出来なかった顔を見て、マイクロトフの胸は熱く込み上げるもので塞がれる。だが、どうしても言わねばならないことがあった。彼はやや表情を固くし、低い声で切り出した。
「カミュー……ひとつだけ約束してくれ」
「…………?」
「もう二度と、ひとりで苦しまないでくれ」
血の気のない白い貌の中、僅かに瞳が見開かれる。
「……おれのためを思うが故に言えなかった……、おまえは恐らくそう言うのだろうな」
彼はそっとカミューの冷えた頬を包んだ。
「だが、それは間違いだ。おれのためを思うなら、これだけは覚えていてくれ」
忍び込むように囁いて、寄せた額を突き合わせる。
「……如何なることも分かち合う、それがおれの真の望みだ、カミュー……」
「マイクロトフ……」
「おまえがあれほど追い詰められて……そこまで何も知らずにいる、これほどつらく歯がゆいことはないぞ?」
軽く揶揄するような口調で言うと、マイクロトフは優しく相手を腕に迎え入れた。
「誓ってくれ、二度とおれに隠し事をしないと。それがたとえおれを苦しめることであったとしても」
カミューは静かに目を伏せた。
善かれと思って胸の中に飲み込んだ苦悩だった。
結局それは二重に彼を傷つけたのだ。
自責の深遠なる沼に落ちる前に、マイクロトフは彼の目を見据えて言い放った。
「おれは誓うぞ。我が剣と名────そしてこの『騎士の紋章』にかけて、すべてをおまえと分かち合う」
カミューは息を飲み込み、掠れた声で返した。
「……誓うよ、マイクロトフ」
常に傍らにある力強い蒼光。決して行く先を違えない、確かで温かな道標。
「我が剣と名に於て……痛みすらも分け持つことを」
マイクロトフは目を細め、口の端を上げた。
「カミュー……」
笑みながら唇を寄せたマイクロトフだったが、その刹那、カミューはびくりと身を退いた。
「カミュー?」
「あ……────」
自身の反応に気づいてカミューは顔を歪めた。
「す、すまない、わたしは…………」
消え入るばかりの陳謝に、マイクロトフは眦を上げた。
「カミュー……────いいか?」
「……え ?」
要求を即座に察したものの、返答できずに俯こうとする彼の頬を改めて両手で包み、マイクロトフは囁いた。
「おまえの体調は十分にわかっている。だが、それでも───どうしても今、触れ合わなければならない気がする」
口調には情欲の陰りは一切ない。むしろ気遣わしげな、真摯な響きがあった。
マイクロトフ自身、消耗し尽くした相手に向けて己が放った要求の惨さに困惑しているのだろう。途方に暮れた表情がそれを物語っている。
聡いカミューはマイクロトフ以上にその理由を理解していた。
未だ残る魔獣の爪痕。
カミューの全身に刻み込まれた絶望の記憶。
理性で相手がマイクロトフなのだというのは納得している。だが、肉体は別だ。
同じ姿をしたものにいたぶられ続けてきたカミューには、今後彼を受け入れるには相当の決意が伴う。
それは二人の間に時間が積もれば積もるほど大きな溝となって立ち塞がっていくことになるだろう。言葉で説明出来るところにまで至っていないが、その歪みを直ちに消さねばならないとマイクロトフは感じているのだ────彼保有の本能によって。

「わたしは……」
搾り出すようにカミューはうめいた。
「わたしは────駄目かもしれない……」
「カミュー?」
「おまえなのだと判っていても……もう大丈夫なのだと頭で認めていても、……おまえを拒みかねない……」
「だからだ、カミュー」
己の直感の正しさを信じるマイクロトフの意志は揺らがない。
「だからこそ、確かめてくれ。おれなのだということを、おまえの心と……その肌で」
マイクロトフの決意を曲げることの出来るものなど、ない。それを誰よりも知っている。そして、彼の意思の正しさも認めている。
────彼の望みは自分の望みだ。カミューはゆるゆると目を上げた。
「もし、拒んでも────本心からわたしが厭うているわけではないと、おまえが信じてくれるなら……」
途切れがちに洩れた言葉の示す不安と怯え、およそカミューに似つかわしくないそれらのものに、マイクロトフはきつく眉を寄せ、しっかりと頷いた。
「案じなくていい、────わかっているから」
そのまま抱き寄せた恋人の項に手をかけ、軽く仰向かせると、マイクロトフは静かに唇を重ねた。腕の中の肢体は戦くように強張ったが、宥めるように角度を変えてくちづけていくうちに少しずつ力が抜け始めた。 
脅かさぬように横たえたカミューの夜着を開き、暴かれた裸体の細さに唇を噛み、マイクロトフは祈りながらくちづけを繰り返す。
全身の震えは隠しようがない。
触れるたびに竦み上がる四肢に見えない彼の傷を思い、そのひとつひとつを消し去るために羽根のような愛撫を施す。
それは常のマイクロトフの激情とは異なり、かえってカミューに冷静に自身を見詰めさせる結果となった。

 

「好きだ、カミュー……」

────そうだ、おとなしく吾に身体を開け────

 

「怖がらなくていい」

────案ずるな、おまえの望むままの快楽を与えてやろう────

 

「もう大丈夫だ、おれが傍にいる」

──── 吾を欲し、吾にすべてを捧げ、吾に支配されよ、愚かで無垢なる哀れな贄よ────

 

 

「…………────!!」
身体中を逆流していくような恐怖、忌まわしき苦痛と快楽の記憶。
終にはカタカタと鳴る歯列の音さえ耳に届くようになり、カミューは引き攣った声で叫びながら抗った。
「嫌だ、嫌────嫌だ!!」

下腹にまで到達していた男の手を振り解こうともがき、狂乱に襲われて髪を乱し、呼気が欠乏するほど喘いで彼は暴れた。
マイクロトフは予想された抵抗をものともせずにしっかりと押え込み、抱き締めた身体を逃すまいときつく腕に力を込める。
嗚咽混じりの哀願の声。だが、マイクロトフは請い願う解放への要求を素通りさせて、恋人の耳元に低く囁いた。
「カミュー……考えてみたのだけれどな」
熱していたカミューの意識にも、そのどこか調子を外した気楽な響きは届いた。ふと動きを止めた彼に、マイクロトフは更に言い募った。
「────おまえ、やはり赤が似合うぞ」
「………………?」
思わずそろそろと振り仰いだ彼の目に、嬉しそうに微笑んでいる男の顔が映る。
「道場で……おれの上着を着ているおまえを見て思った。青も悪くないが、どうも顔色が悪く見える気がする。やはりおまえには赤が一番似合う」

 

 

カミューは目を見開いたまま呆然とした。

────この男は。
あの死闘のさなか、そんなことを考えていたのだろうか。
魔物に取り憑かれながら、ただ自分だけを見詰め、自分を見守りながら戦ったというのか────

 

強張っていた四肢から力が抜けた。
胸を覆っていた恐れと痛みが透き通るように薄らいでゆく。

────マイクロトフだ。
これは間違いなくマイクロトフなのだ。
自分が選び、求める唯一の存在。
どれほど暗闇に迷おうとも、必ず寄り添って手を差し伸べてくれる伴侶。
無器用な優しさと飾らない言葉、そして変わらぬ真っ直ぐな眼差しで如何なる傷も癒してくれる────

「マイクロトフ」
「ああ」
「マイクロトフ……」
「好きだ、カミュー」
「マイクロトフ……────」
震えは止まらなかったが、男への渇望が上回った。
胸を突き破るような痛みは恋慕にすり替わり、愛しさの限りを込めてカミューは男に両腕を回す。
「────マイクロトフ」
しっかりと抱き締め返す腕の強さに目眩を覚え、カミューは身を沈めた寝布が体温によって温まっていくことの幸福を噛み締めた。
零れ落ちた涙は、苦悩の日々に流したそれの冷たさを忘れさせるほど甘く熱く、途切れることなく頬を伝う。
その涙にくちづけて、マイクロトフは静かに恋人の体内に我が身を埋めた。

 

 

 

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ん〜……嫌な予感がしておられるのに
3000ポッチ(笑)
あんまり長いので分けました。

 

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