愛が試されるとき・15−2 ──淫獣の囚われ人──
「────もう、おまえとは当分しない」
目覚めるなり、カミューは掠れた声で不機嫌そうに呟いた。
早々に起き出して、恋人の安らかな寝顔を堪能していたマイクロトフは、いきなり洩れた言葉に苦笑する。
必死の自制をきかせた行為は、やがて燃え上がる業火となった。
傷つけないよう最後の理性は働いたが、しまいにはカミューの意識が焼け落ちるまで、激しい情交はとどまることを知らなかったのだ。
「…………もう駄目だと何度も言ったのに……」
忌々しそうに唸る言葉も愛しくて、マイクロトフは笑って彼を抱き締めた。
口でどれほど怒っているように見せていても、昨夜のカミューが心底マイクロトフを求めていたのは事実だ。痛々しくも狂おしいまでの乱れ方を思うと、綻びそうになる口元を抑えるのに苦労するマイクロトフである。
もう、大丈夫だ。
二人は期せずして同様に感じていた。
確かに淫獣の記憶は消えないだろう。だが、こうして肌を触れ合わせて寄り添う二人の関係に、もうあの忌まわしい影はない。どれほど傷つこうと二人でなら立ち向かえる、乗り越えられることを確信した心は軽い。
柔らかに額にくちづけられたことに照れ、カミューはゆっくりとベッドから抜け出した。途端に全身を襲った疲労と、節々に残される心地良い痛みによろめきながら、彼はほっと溜め息を洩らした。
「────そうだ、ビクトール殿たちに礼を言ってこなければ……」
ふと思い出してマイクロトフが呟いた。
ちらりとカミューを一瞥すると、すでに身繕いを始めている。ぐったりした動作であるが、その身が凛々しい騎士服に包まれていくのを感慨深げに見守っていると、カミューが振り向いた。
「……おまえもさっさと着替えたらどうだ? 挨拶に行くのだろう?」
半ば独白だった言葉に返った声にはっとして、マイクロトフはやや表情を引き締めた。
「……一緒に行く……のか……?」
その調子にカミューが目線を合わせる。肯定の意を認め、思案しながらマイクロトフは言った。
「その……────もし、何なら……おれ一人で行くぞ?」
「何故?」
彼は口篭もり、言い難そうに項垂れた。
「────彼らには本当に世話になった。おれ一人なら、とてもおまえを助けることは出来なかったと思う……」
「ああ、だから?」
カミューは穏やかに促す。
「つまり……彼らにはすべて知られている────その、おまえが顔を合わせ辛いと思うなら、おれがおまえの分まで礼を言ってくるから……」
「────マイクロトフ」美貌の恋人は微笑んだ。
鮮烈なる美しさ、マイクロトフが愛してやまぬ気高き誇りに満ち溢れて。
「わたしには何ら恥じる理由はないと、昨夜おまえが教えてくれたのではなかったか? ならば、後ろ暗く思う道理はないと思うのだが。むしろ、恩義ある仲間を避ける方が礼節を欠いた振る舞いだと思う。わたしは、自分の口で礼を言いたいんだ」マイクロトフは呆然とした。
細くなった身体、やや削げた頬。だが、その眼差しは揺らぐことなくマイクロトフに向けられて、決して片時も逸れることはない。────カミューだ。
ずっと一緒に歩いてきた、これがおれのカミューなのだ。溢れてくる喜びに押し流され、ベッドから跳ね起きると、彼はそのまま恋人の身体を抱き締めた。僅かに浮いた相手の身体ごと、その場でくるりと回転する。
「な、何をする? 服くらい着ろ!」
「やはりおまえは最高だ、カミュー!!!」
「馬鹿、離せ……下ろせ!」
他愛もない恋人たちの戯れ。
────どれほどこんな瞬間を待ち焦がれていたことか。
一応は怒ってみせているカミューも、その表情は明るい笑みを浮かべている。
ひとしきり笑い合ったあと、二人はまだ静まり返っている城をビクトールの部屋目指して歩き出した。
まだ動きのままならないカミューを労わるように、歩調を緩めるマイクロトフだが、手を貸そうとは思わない。カミューがそれを望まぬのを察しているからだ。
すでに彼は青年騎士として蘇っている。あの虚ろな魂の抜け殻のときならばいざ知らず、今の彼には救いの手を差し伸べる必要を感じなかった。
ノックしても答えの返らないドアに顔を見合わせ、出来るだけそっとノブを回してみる。そこには惨憺たる光景が広がっていた。
食い散らかした大量の肉まんの紙が山と詰まれたテーブルの下、男四人が折り重なるように雑魚寝している。
あの済ましたルックまでが雑魚寝に参加しているのが可笑しかった。確かに淫獣と肉弾戦を交えた訳ではないが、パーティーのリーダーとしての役割を果たした最年少の彼には、よほど精神的な疲労があったのだろう。
「…………出直すか?」
小さく言ったマイクロトフの声に、それでも男たちの戦士の本能が反応した。ばっと身体を起こしたビクトールらに、二人はぎくりとした。
「おー…………何だ、朝か…………」
ぼりぼりと頭を掻き毟って独りごちたビクトールが、はたと気づいて二人を見詰める。それは他の男たちも同様であった。
「マイクロトフ、……カミュー…………────」
呆気に取られた顔の四人に、まずマイクロトフが進み出た。
「昨夜はきちんとした礼も言わずに失礼した。改めて……本当に恩にきます」
続いてカミューが後を継いだ。
「ご助力いただき、感謝しています。ご心配をお掛けして、申し訳ありませんでした」
カミューには一同の食い入るような視線が集まっていた。何しろ、あの無力な頼りない様を晒していた彼とは思えない、普段通りの笑顔だったからだ。
「カミュー、その…………」
フリックが何事か言い掛けるのを遮って、ビクトールが朗らかに言い放った。
「良かった、もう大丈夫だな」
信じられないことではあるが、カミューは本当に立ち直った。願っていたものの、これほど早く望みが叶うとは四人の誰もが想像していなかった。今更のように二人の絆に感心すると同時に、儚げに見えるカミューの真の強さを垣間見たように思う一同だった。
「……お恥ずかしいところをお見せしたようですが、礼を欠くことこそ騎士の恥と思い、こうして参りました」
「恥ずかしいことなんかあるもんかよ」
ビクトールが嬉しそうに立ち上がり、軽くカミューの肩を叩いた。
「それそれ。そーいうの聞きたかったねえ。おまえさんがぼへーーっとしてるのは見ててしんどかったぜ?」
「本当ですよ、カミューさん。体調の方は大丈夫ですか?」
カーンの言葉に微かに頬を染めて頷く。
────あまり大丈夫ではない。何もかも傍らの男の所為だ。
「……何なら、『母なる海』かける? フリックも風の魔法持ってるけど」
意味深に笑いながら言ったルックに、カミューはますます熱くなる頬を感じる。
「い、いえ……大丈夫です。本当に何と御礼を申し上げれば良いか……言葉には出来ませんが────」
「…………やっぱ、『愛の力』だねえ」
ぼそりとビクトールが誰にも聞こえないように呟いた。
カミューが立ち直ったのは、やはりマイクロトフとの一夜の為せる業なのであろうと思い至ったのだ。流石に行為を想像するのは憚られるが。
「で? マイクロトフ、どうだった────?」
「……どう、とは…………?」
ビクトールのニヤニヤ笑いに、怪訝そうにマイクロトフが首を傾げる。
「────希望通り、怒ってもらえたのか?」
マイクロトフは一気に真っ赤になった。
「ビクトール殿!!」
意味がわからず戸惑っているカミューに、ビクトールは笑いながら告げた。
「カミュー、こいつはなあ。早くおまえに元通りになって、バシバシ怒って欲しかったらしいぜ?」
「……………………そうなのですか?」
あのとき、虚無に飲まれていたカミューには周囲が交わしている言葉が完全に理解出来ていたわけではなかった。何とはなしに琴線に引っ掛かった言葉に従い、微かな反応を見せていただけにすぎないのだ。当然、道場でそういう会話が交わされていたことを知らない。
「そうそう。言ってたよね、クサい台詞をさ」
ルックがしみじみと応じた。不思議そうなカミューに、くすりと唇を上げる。
「────怒ってるあんたって、可愛いんだって?」
一瞬反応出来ずに瞬いたカミューだが、次にはマイクロトフを睨み付けていた。
「おまえは────そういうことを人前で…………!!」
「わ、悪かった。もう言わない!」
「だいたい、どうしてそういうことを平然と口に出来るんだ! 言葉にする前に考えろと、いつも言っているだろう!」
「か────考えたが、出るのだから仕方ないだろう?」
「考えたっ? どうやって考えたというんだ、おまえは!」
低レベルで言い争っている二人を唖然と見詰めていた仲間が、終に耐え切れずに吹き出した。仲間の爆笑を受けて、二人は沈黙した。
仲間たちは嬉しかったのだ。
あれほど傷つけられた青年が、こうして前と変わらぬ笑みを見せたことが。
そして、マイクロトフにだけ晒されていた本質をこうして見ることが出来たことが。
それは、カミューの心が彼らにも向けて開かれていることの証明だったから。
「いい、いいよ。幾らでもやってくれ。なるほどなあ、怒ってるカミューは人間らしくて可愛いやなー」
ビクトールが笑いの合い間に全身を揺すりながら言うと、マイクロトフはキッと彼を睨んだ。
「ビクトール殿! その言い方は止めて欲しい。カミューはおれだけの……」
「ああ……もういいから、おまえは黙っていろ」
カミューが頬を染めたまま男の胸に肘鉄をかませる。
「さーて、そのうちシュウに御呼ばれするぜ? その前にメシでも食っておくか」
「またそれ? あんた、全身胃袋で出来てるんじゃないの?」
「……シュウ軍師が戻られたのですか?」
「ああ、メシ食いながら説明してやるよ」
「疲れましたねえ。でも、気分は爽快ですよ」
「同感だな。どんな強大な魔物でも、人の意志の力に及ばないんだって分かったからな」
「…………お二人には随分怪我をさせた……」
「おまえが馬鹿力なのをしみじみ感じたよ、マイクロトフ」
「────こいつのお相手するのはしんどいだろ、カミュー」
「ビ、ビクトール殿………………」
「何を言う、ビクトール殿! おれはいつも心底、気を遣って優しく……」
「だから、おまえは何も言うな!」
「……まあまあ、いいじゃありませんか。その優しさがカミューさんを救ったわけですから」
薄く笑いながら会話を聞いていたルックだったが、ふとカミューの袖を掴んで一同から引き離した。
「……あのとき、ぼくに助けを求めに来たんだろう?」
「ええ、……もっと早くそうすれば良かったと後悔していますが……」
丁寧に答えた彼に、少年は更に言った。
「だけどね……ひとつだけ。結局ぼくらはほんの少し手を貸しただけだ。あの魔獣を消したのは、あんたとあの直情男だよ」
少年の言葉にカミューは目を見開いて、それから静かに微笑んだ。
「ありがとう、ルック殿……」
「けど、あんたも結構しぶといね。昨夜なんか、何度も駄目かと思ったんだけど……まさか一晩で立ち直るとは思わなかったよ」
カミューは更に顔を輝かせた。
「ええ」
その目がビクトールらと語り合っている男に向かう。
「────そのくらいでないと、とてもあの男とはやっていけませんからね」
今度はルックが苦笑する番だった。
なるほど、人とは相当に複雑で、案外タフな生き物であるらしい。
この世ならざる邪悪な力に、愛は試された。
そして二人はそれに応え、見事に勝利してみせたのだ。
笑い合いながら部屋を出る六人は、ただ一夜の死闘を忘れない。
その勝利は生涯誇らしく胸を飾ることだろう────
────人の願いは、すべてを変える力となる。
……とりあえず終わりました。
総合後記で思いっきり言い訳と
ちょっとだけ予告を致します。