愛が試されるとき・14 ──淫獣の囚われ人──
「カ…………ミュー……────」
それは凄まじい苦闘だった。
マイクロトフの身体は右に揺れ、左に傾き、のたうち回っている。しかし、その足は一歩、また一歩と着実に結界の縁に向かって進んでいた。
「カミュー、大丈夫か? マイクロトフを呼んでやれ、カミュー!」
フリックは結界の外に出るなり崩れ落ちたカミューの横に膝をつき、肩を掴んで励ました。だが、彼はすべての力を使い果たしてしまったかのように眉を寄せ、固く目を閉じている。
フリックは『いやしの風』を施した。幾分カミューの表情は和らいだが、うっすらと開いた目は未だぼんやりしている。
「精神的な疲労はそんなに簡単に癒せないよ。それよりフリック、あんたは風の魔法の準備をして」
「何を使う?」
「何でもいいですよ、もう。景気良くいきましょう」
カーンが断言する。
「これでうまくいかなかったら、わたしたちは皆で心中なんですから」
「よせやい。男ばっかで心中なんて、縁起でもねえや」
ビクトールはユーライアをカミューの手に握らせた。馴染んだ剣の感触が、微かにカミューを身じろがせる。
「マ……イクロトフ…………」
洩れた呟き。二度目は更に大きくなる。
「────マイクロトフ」
「そうだ、おまえの半身を呼んでやりな」
「…………マイクロトフ」
「あなたの為に彼は戦っています。さあ────」
「マイクロトフ……」
「……涙ぐましいね、恥ずかしいけど効果的だ」
「さあ、もういっちょう!!!」
カミューの身体はもがき苦しむ男の方へと向けられた。その視界には最愛の男が映っているはず。励ますようなビクトールの手が肩を揺らした途端、悲痛な声が絶叫した。
「マイクロトフ────!!」
「ぐ………………おおおおおおおおおお!!!!!」
この世のものとも思えない野獣の叫び。
知性をかなぐり捨てた獣の咆哮だった。
マイクロトフの片足が結界の縁を踏む。そして次の足が外に出る。
刹那、男の身体は背後に引っ張られるようによろめいた。
だが、彼は倒れなかった。唇から、耳から白煙が噴き出していく。
「…………本体だ…………」
「シュールですねえ…………」
更にマイクロトフの足が踏み出すと、煙は彼の身体を包むほどの量となった。
「……っ……カ…………ミュー…………」
唇がうめいたとき、その身体は結界を越えていた。
錐揉み状態になって倒れ込むマイクロトフを、カーンが受け止めて素早く縁から引き離す。すでにその全身は満身創痍だ。獣に打たれ、掻き毟られて衣服はあちこち破れている。覗いた肌は無数の引っ掻き傷で血を流していた。
だが、困憊していながら男の顔は輝いていた。きっぱりした意志の光、生真面目で無骨な表情、紛うことなき彼らの仲間。
マイクロトフはカーンの手を押し退けるようにして這った。唯一求める相手に向かって。
やや呆然としていたカミューも、同様にビクトールの腕から零れ出る。這いつくばりながら互いを確かめ、固く抱き止めたときに白煙となった存在が結界の中を荒れ狂うように飛び回り始めた。
『────何故だ』
声が響く。
すでに人の身体を失った淫獣が、一同の心に直に意識を送り込んでいるらしい。
『何故、吾を選ばぬ───カミュー………何故、吾が無力な人間に劣るというのだ…………』
ルックが『蒼い門』の魔法を唱え、並んだフリックも旋風を呼び始めた。
しっかりとマイクロトフの腕に抱き締められたカミューは毅然と答えた。
「……かつてわたしはマイクロトフを選んだ。真なる選択は、やり直すことなど出来ない」
「────教えてやろうか、淫獣」
ビクトールが揶揄する。
「人間にはな、魔物の想像も及ばねえ力ってもんがあるんだよ」
『な、何だと…………?』
「そいつはな、『愛の力』ってんだよ! よーく覚えておきな!!!」
『空虚の世界』から招き出された召還獣が怒号と共に漂う靄に攻撃をかける。
『かようなもので、吾が倒れると────』
「思ってないさ、貴様はこの世界にいちゃならない存在なだけだ!!」
フリックが呼んだのは『かがやく風』、その疾風は召還獣が引くのに合わせて魔物を直撃した。
淫獣オーランドは聖なる風に煽られて、為すすべもなく異世界へ引き摺り込まれていく。
『ぐ……わあああああああああぁぁぁぁぁぁ………………』
断末魔の悲鳴を長く伸ばした白煙が吸い取られ、そして後には沈黙だけが残された。
「やった…………のか?」
ビクトールが息を飲んで呟いた。
「……一応、みたいだね。何なら、もう一度『蒼き門』の魔法を唱えてみる? 奴が現れるかどうか」
どすんと腰を落としたフリックは溜め息混じりに首を振った。
「…………今は勘弁して欲しいな…………」
「同感だぜ」
『かがやく風』は味方の癒しも同時に行う特殊魔法だ。ビクトールの肩の傷も、マイクロトフの裂傷だらけの身体も今はその痕跡をとどめていない。しかし、誰もが疲労困憊の極地にいることは確かだった。
一同はほとんど放心状態だったが、はたと気づいて抱き合う二人に目を向けた。両膝を折って座り込むマイクロトフは、彼らの視線に気づかぬほど必死にカミューの背を擦っている。
「カミュー……────カミュー」
「大丈夫か、マイクロトフ?」
掛けられた声に、彼はようやく顔を上げた。疲労を滲ませてはいるが、望みを成し遂げた誇りに笑みを浮かべている。
「カミューはどうだ?」
男の腕の中で僅かな身じろぎがあったが、こちらは答えられるほどの力が残っていない。微かに頷く気配が見えただけだった。
「…………さっさと戻ろうぜ。あったかいモンでも食って、休まないって手はねーよ」
「またそれか。おまえはなあ…………」
フリックが呆れたような笑いを零したとき、マイクロトフが叫んだ。
「カミュー? カミュー、大丈夫か! しっかりしろ、カミュー!!」
マイクロトフの胸の中でぐったりと沈み込んでいく茶金色の髪が見える。慌てて進み出たカーンが覗き込み、ほっと安堵の息を吐く。
「気が緩んだのでしょう、大丈夫ですよ」
忌まわしき魔獣は去った。
疲れ切った子供のようにマイクロトフにもたれて目を閉じるカミューは、それでもひどく安らいだ寝顔をしていた。
「ほい、お待たせ。ほかほかの肉マンだぜ」
ドアを開けて、トレイに山盛りの肉まんを乗せたビクトールが戻って来た。
さすがにこの時間ではハイ・ヨーも眠っている。彼に用意出来るのはこれが精一杯なところである。
「……もっとマシなもの、なかったの?」
「何でもいいさ、気が抜けたら腹が減った」
「生きて夜食を取れるだけでも十分ですよ」
三者三様の答えを返す仲間である。
彼らはビクトールの部屋に集まってへたり込んでいた。傷は回復しているが、やはり体力は著しく消耗していたのだ。
「…………今そこで、シュウに会ったぜ」
「戻ってきたのか?!」
「ああ────ま、お互い疲れてたからな。ましてこっちの事情は明かせねえんで、奴の話を聞いただけだけどよ」
「それで?」
「────あいつは戻らない」
三人は沈黙した。
「何でもシュウが言うには、あいつの強さが紋章の力を上回って、運命を変えたそうだ。あいつは────ジョウイと行ったんだとよ」
「ジョウイと…………」
「それともうひとつ、いい知らせだ。あのお転婆娘、生きてたぞ」
「ナナミが!!」
フリックは目を輝かせ、そして幾度も頷いた。
「そうか……そうなのか。じゃあ、あいつらは昔みたいに三人で……」
「嬉しそうにナナミのところへ向かった、ってよ。二人一緒に……な」
ぱくぱくと肉まんを頬張りながら彼は締め括った。
カーンがしみじみと呟く。
「……人の強さが運命を変える……何となく、今の我々にも言える言葉ですね」
「ああ、カーン。おまえさんの結界は本当にたいしたもんだったぜ。あの化け物を見事にマイクロトフから引き離したもんなあ」
ビクトールの賛辞に微笑んでから、彼は少しだけ複雑な顔になった。
「ひとつだけ────不思議なことがあったんですよ。確かに淫獣は不完全な覚醒ではあったのでしょうが、実に凄まじい魔力を持っていた。あれほどの『魔』の強さは見たことがない。けれど……あのとき、カミューさんがマイクロトフさんを望んだ瞬間から急激に魔力が落ちていったんです」
「そうだね、ぼくも感じた。あれは何だったんだろう? それまではむしろ、上がっていくくらいだったのに」
「それなんだがよ」
ビクトールは咀嚼する合い間に切り出した。
「昼間マイクロトフにも言ったんだがよ。あの化け物、マイクロトフに同調しすぎて、何て言うか…………カミューに惚れちまったんじゃねえかなあ」
「何だと?」
不満そうにフリックが遮る。
「脅し上げて…………その…、散々な真似をやらかした奴が、カミューに? ふざけるなよ」
「いえ……案外それは正しいかもしれません」
カーンは静かに頷いた。
「契約を持ちかけたとき────あのとき淫獣がカミューさんに語り掛けていた口調……、何だかマイクロトフさんそっくりに聞こえました。こう……、人間が好きになった相手を口説いている風にしか聞こえませんでしたよ」
「奴がこれまでどんな人間に取り憑いてきたのか知らねえが、今回初めて知ったんじゃねえかな……『命を賭けても相手を守りたい』ってくらいの感情をよ」
「ええ。それをカミューさんからも感じたのでしょう。ほら、『手に入らないものは尚更欲しくなる』って言うじゃありませんか。淫獣はカミューさんの頑なさに執着して、結果マイクロトフさんの意志の暴走を許してしまったんだと思います」
「カミューがマイクロトフの名を呼ぶたびに、マイクロトフの奴は根性出しただろうが、あの野郎には『テメエじゃねえ!』って言われてるのと同じだもんな。がっくりくるだろうぜ」
「……ふん、自業自得さ」
フリックは吐き捨てる。
「嫌がる奴を無理矢理手に入れようなんて姑息な真似をするからだ」
大量の肉まんは次々と男たちの胃袋に入っていく。
文句を言いながらも一緒になってぱくついているルックは、表には出さなくとも相当の緊張を堪えていたらしい。
「それにしても、さ……大丈夫な訳?」
「あん? 何だルック、もっと食え」
「……二人にしといて平気かな」
少年の懸念にビクトールは爆笑した。
「なーーーに言ってやがる!! これだから、お子様は困るぜ!!」
「────何だよ」
「苦難を乗り越えて再開した恋人たちがすること、ったら一つ!だろうが」
「だから、何さ?」
「阿呆。まずはぎゅーーーーっと抱き締めてだな、それからぶちゅーっっとな。……んでもって、一発…………」
「────下品。だから品性のないクマって嫌なんだよ」
露骨に顔をしかめるルックの頬が、微かに紅潮している。その様子を笑って見ているカーンの横で、フリックが小さく洩らした。
「…………カミューは立ち直れるだろうか」
一斉に仲間の視線が向けられる。
「その……、あんな目に遭った訳だし……それに、出来るならおれたちにも知られたくなかっただろうに。あいつが張り詰めた顔の裏に、ああいう脆い一面を持ってるとは思わなかった……」
「マイクロトフの顔を見るたび思い出すだろうしね」
「心の傷、ってのは難しいからなあ……」
「へー、あんたでもそういうデリカシーがわかる訳?」
「…………るせえな」
言い争っているクマと少年に苦笑して、カーンが強く言った。
「大丈夫ですよ。皆さんも見たでしょう? 淫獣を消し去ったのは、結局あの二人の強さと絆です。カミューさんは自らを塞いだ殻を破ってマイクロトフさんを望んだ。マイクロトフさんはそれに応えて魔物の拘束を振り切った。どちらも並みの精神力ではありません。どれほど傷ついたとしても、二人一緒なら乗り越えるでしょう。人間というのは結構しぶといものですよ」
朗らかに言い切った男に、やがてそれぞれが同意した。
「……そうだな。おれたち──いつのまにかあいつらを二人にしておいたもんなー」
「二人で何とか出来るって信じているんだろうな、無意識に……」
「ああもう、戦争は終わったのに何でこんなバトルまでしなきゃならないわけ? ぼくは帰る、絶対明日帰るからね」
死闘を演じて仲間を救い出した男たちは、口々に語り合い、笑い合いながら夜明けを待つ。
朝陽とともに、一緒に戦ったもう二人の笑顔が揃うといい────
そう強く念じていた。
はい、とりあえず落着までアップです。
ここまで来るのに年越したのは痛かった……。
後の祭りですけどねえ。ところで、ふと気づきました。
オーちゃん、一生懸命名乗っているのに、
結局誰も名前を呼んでくれなかった……(笑)
何て気の毒だったんでしょう。
ご冥福をお祈り致します。さて、次回はやっとこさっとこ最終回。
でも未だに製作中。
大丈夫か、自分……(苦笑)