愛が試されるとき・13 ──淫獣の囚われ人──


 

ふらふらとカミューが進み出た。身体を包んだマイクロトフの青い上着が、為すすべも無く見送る二人の魔術使いの目を掠める。
「どうすりゃいいんだ、ルック!!」
喚くビクトールに少年は呟く。
「そんなこと、ぼくに聞くなよ」
「……マイクロトフさんの右手に回復をかけても駄目だろうか?」
「別に彼が右手に存在しているってわけじゃないよ。たまたま動かし易かったってだけで。だったら無意味だよ」
よろめきながら前方の男を目指すカミューに、ビクトールがキレた。
「化け物め、貴様の思い通りにさせるか!!」
『あっ、貴様何をする、ビクトール!』
星辰剣の叫ぶのもお構いなしに、ビクトールは淫獣に向かって剣を投げつけた。それを払い除けるために一瞬無防備になった懐に、すかさず突進する。
胴に腕を回して押し倒すと、馬乗りになって殴りつける。魔物は怒りに吠え、幾倍もの力で殴り返した。血塗れの右手が繰り出されると、ビクトールの頬もまた血に染まった。
フリックが加勢に回る。一度自分がされたように敵の剣を持つ腕を踏み付けて、何とかユーライアをもぎ取ろうとした。しかし、手は張り付いたように柄を離さない。
脳天から火が出そうな一撃を食らってビクトールが男の腹から転げ落ちた。拘束をなくしたオーランドは、続いて敏捷な身のこなしで反動をつけて起き上がる。たまらずフリックも腕から揺り落とされた。
人間ひとりの体重を弾いたマイクロトフの左腕は、さすがに痛めずにはいられなかったようだが、すかさず回復を施したらしい。立ち上がり、体勢を整えるときには軽やかに二人の戦士を蹴りつけ、打ち倒していた。
ぐったりと倒れ込んでうめいている二人に、ルックは歯噛みしていた。
『流水の紋章』最大レベルの『母なる海』だけは、最悪の場合を想定して取っておかねばならないと思う。それを除くと、すでに残された回復魔法はひとつだけ。『優しさの流れ』を使うタイミングを間違えば、全滅の恐れがある。
「────まったく、往生際の悪いことだ……」
息を切らせて淫獣が呟いたのを見て、少年はおや、と眉を寄せた。
これまで魔物は始終淡々と暴力を尽くしてきた。消耗を見せたのはただ一度、あのマイクロトフが反乱を起こしたときだけだ。
だとすると、端ではわからなくなってしまっているが、今もなお騎士の肉体の中で二つの意識が鬩ぎあっているのかもしれない────

 

カミューはすでに結界の内側に侵入を果たしていた。少し離れたところで立ち止まり、淫獣が二人の男を完膚なきまでに叩きのめしている様を見詰めている。さながら主人が仕事を終えるのを待つ忠実な犬のように。

 

「……『守りの天がい』をかけるか?」
「────ちょっと待ってよ」
ルックは躊躇した。防御魔法を唱えることに淫獣はすぐに気づくだろう。この位置からだと倒れているビクトールたちまでカバーし切れない。万一、淫獣が『破魔』を二人に向かわせれば命に関わるかもしれないのだ。
彼らの煩悶をよそに、淫獣は終に動きの止まった二人から顔を上げた。向き直る正面にはカミューがいる。
「待たせたな、愛しき贄よ…………さあ、ここへ来るがいい」
「行っては駄目です、カミューさん!」
「────来い、カミュー」
「行くんじゃないよ、カミュー!!」
交互に呼び掛ける魔物と仲間に、虚ろながらもカミューは戸惑っている。ゆるゆると顔を双方へ向け、困惑した子供のように首を傾ける。
「さあ────おいで、カミュー…………」
忍びやかなオーランドの声が誘った。それは最もカミューの琴線に触れる声だ。ようやく心を決めたように、カミューは男の元へと歩き出す。
「……良い子だ────綺麗で可愛い吾のカミュー…………」
「あ……────」
かつて幾度となく恋人から告げられた不器用な賛辞に、ほの白い唇が震えた。彼は真っ直ぐに魔獣に近寄り、終に手の届くところに立ち止まった。オーランドは満足そうに微笑んだ。
「さあ────おまえの力を吾に貸せ。炎を呼んで、すべてを焼き尽くせ」
「………………炎………………」
「おまえの宿す『烈火』の焔で、吾らを邪魔する愚かな生き物を消滅させるのだ」
「……バ、バカ……冗談……じゃねえ…………」
倒れ伏したビクトールが苦しげに唸る。
「仲間に燃やされて…………たまるか、よ…………」
淫獣は無視して言い募る。
「吾の伴侶よ、おまえの望みを叶えよう────代わりに魂ごと吾のものとなれ」
「けっ、時代……錯誤な野郎だぜ……、古くせえお伽噺みたいなこと、言いやがって…………」
ビクトールの罵声はなおも続く。
「だ……騙されんなよ、カミュー…………そいつは……『良い魔法使い』なんかじゃ……ねえんだ……」
「黙れ、雑魚!!」
オーランドは先程ビクトールがしたように剣を投げつけた。宙を飛んだユーライアは、ビクトールの肩を床に縫いつけた。
「ぐッ………………!!」
淫獣が得物を捨てたのは、もはや勝利を確信しているからだ。強大な攻撃魔法を持つ青年を傍らに取り込んだ今、もう剣を振り回す必要がないと判断したのである。

────回復をかけるか?
ルックは考えた。
だが、回復してもビクトールが刺さった剣から解放されるときに再び痛手を負う。その間にフリックが攻撃を仕掛けたとしても、魔物がカミューを盾にしたらどうすることもできない。

「……さあ、望みを口にするがいい。その望みと引き換えに、おまえは永遠に吾のもの────」
「…………契約、だな……」
カーンが呟いた。
古来より、魔物は契約を好むものだ。それは双方を縛る誓いとなり、破ることは死をもたらす呪いとなる。
カミューが淫獣に魂を捧げるようなことになれば、魔物の言葉通りマイクロトフの精神は致命的な打撃を受け、肉体のすべてを明渡すことになるだろう。
「まずい────」
「何を望む、愛しき者よ? 城が欲しいか、掴み切れぬ黄金か。国が欲しいか? ならばおまえにこの地を与えよう。すべてを滅ぼし、無人となった大地に、おまえの国を建ててやろう────どのようなことでも叶えてやる」
……そうして、マイクロトフの身体を完全に支配した後には破壊と殺戮の使者としての真の力が蘇るのだろう。今、人の形をもってしてもこれだけの化け物なのだ。完全なる覚醒がもたらす恐怖は想像に難くない。
「さあ、言え。おまえの望みを────」
「望…………み……────」
痴呆のように繰り返すカミューには正気の色が見えない。間近で魔物が繰り返し説けば、意味もわからぬままに同意しかねない。倒れたままフリックが声を絞り出した。
「マイクロトフ……マイクロトフ、もう一度────戦って……くれ……!」
「────煩い虫けらめ…………」
ちらりと不快そうに淫獣がフリックを一瞥する。
「望み…………」
カミューの呟きに、再びオーランドは向き直る。さながら媚を売るように優しい声が応じた。
「そうだ────おまえの望み。如何なる望みも叶えよう。言うがいい、カミュー……」

 

そのときだった。
血塗れになった男の右手がゆっくりと上がり始めた。予想していなかったのか、魔獣はぎくりと強張った。その手は静かにカミューに伸びる。掌を貫通した傷からは、まだ血が滴り落ちていた。
「な────またしても…………!」
憎々しげに吠えた魔獣は、だが右手の動きを防ぐことが出来なかった。指先がカミューの頬に触れ、そっと撫でたからだ。
無理に振り払えばカミューが衝撃を受ける。
そしてそれ以上に────
何故かオーランドは己もその行為を望んでいるような気がしたのである。
白い美貌はすぐに血に汚れた。散々ビクトールたちを殴り飛ばしていたものと同一とは思えぬ優しい手が、壊れ物のように、労わるように彼の頬を撫で続ける。
「マイクロトフさん、あなたは……!」
カーンは絶句した。
まだ諦めていないのだ。魔物に身体を操られながら、騎士の精神はまだ戦おうとしている。自らの存在のため、そして唯一の伴侶のために、こうして血を流しながら。

 

「……そうか、『騎士の紋章』が────」
ルックは呆然と口走っていた。
「え?」
「右手に宿る『騎士の紋章』、それがマイクロトフに力を貸している。だから右手だけが彼の意志で動かせるんだ……」

人知を超えた奇跡の力に少年は震えた。
────まだ、やれる。
人の願いはそう簡単に潰せるようなものではない。

 

 

「カミュー…………」
不意に、調子の変わった声が男の口から洩れた。
「カミュー、おれの────『ただ一人の相手』…………」
それが淫獣の言葉でないことは、その表情からわかった。淫獣オーランドは心底仰天しているかのように目を見開いている。
二つの精神が激しく争うように、唇が開閉を繰り返す。その苦闘の狭間に切れ切れの言葉が紡がれる。
「おれが…………背中を……任せたいのは、おまえだけ…………背中を合わせて戦い…………たいのは…………ずっとずっと、おまえ……ひとり……」
虚ろだったカミューの面差しに、微かな痛みが走った。
「好き、だ…………おれ、の………カミュー、怒って…………いても、泣いて……い…ても、おまえ…………綺麗……」
マイクロトフの顔は今や激痛を覚えているかのように歪んでいる。止めようにも止まらないのだろう、立て続けに吐き出されるマイクロトフの言葉に、しまいには左手が口を塞ごうとまでした。
だが、その唇は一瞬の差で手をかわし、切ないまでの情熱を込めた声が叫んだ。
「カミュー、常におまえと共にある!!」

 

ぴくり、とカミューの全身が震えた。
身体を包むマイクロトフの上着ごと自らを抱き締める。上着の感触を確かめるように頬を寄せ、彼は息を吸い込んだ。
「わ、たしの…………望みは…………」
たどたどしい言葉。だが、これまでとは違った口調。
白い頬の半分を染める男の鮮血、彼は片手でその血を押さえた。愛しむように目を閉じ、手を濡らした血に唇を寄せる。
「わたしの────望みは、ひとつ……だけ…………、常に……マイクロトフと……共にあること……その背を守って……生きる、こと…………」
そして、よろめきながら数歩下がる。
「マイクロトフと共に……生きること…………!」
ゆっくりと上がった顔には煌めく意思が漲っていた。しなやかな指が真っ直ぐに男を指す。
「……貴様のものになどならない!! マイクロトフを返せ!!!」
常よりもずっと弱い、細い声だった。
しかし、毅然として誇りに溢れるそれは、まさに仲間たちの知る赤騎士団長のものだ。仲間たちが歓喜したのと同時にマイクロトフの姿をした魔獣が長い悲鳴を上げた。
「う…………おおおおおおおおおお!!!!!」
淫獣オーランドは自らの宿る身体を掻き毟り、七転八倒の苦しみを呈した。唇から洩れるのは獣じみた吠え声のみ。頭を抱え、胸を叩き、足を踏み鳴らして悶え苦しんでいる。
今しかない、とルックは倒れた二人に『優しさの流れ』を唱えた。二人は即座に起き上がり、ユーライアを刺したままのビクトールが腕を回して剣を引き抜いた。
「痛ってーな、ったくよ…………」
顔をしかめて痛みに耐えるが、瞬く間の形勢逆転に声が弾んでいる。
「何やってるんだよ、クマ!! さっさと縄を使うんだよ!!」
「あー? 何言ってるんだ、この野郎のクソ力は見ただろうが。あんな縄なんか……」
「違うよ、馬鹿!! カミューだ、傍に寄らずにカミューだけを引っ張り出すんだよ!!」
意外な言葉にビクトールが振り仰ぐと、カミューは両手で顔を覆うようにしてその場に立ち尽くしている。正気が戻ったのか、あるいは一瞬の幸運だったのか判別出来ない。ただ、間近で暴れ狂っている魔物から遠ざかろうともしないのを見ると、『動く』という動作を思い出せずにいるのかもしれなかった。
「ちっ、牛じゃねーって言ってんのによ」
ぼやきながらビクトールは腰につけていた荒縄を解いて、牛追いの要領で頭上に回すと、輪になった先端をカミューに向けて放った。狙い違わずカミューの身体を捕らえた輪が細い身体を拘束する。
「早く、こっちへ!」
怒鳴られたビクトールはカミューが倒れ込まないように細心の注意を払ってルックらの待つ結界の外に彼を引き摺り出した。
「ようし、よくやったよ。さあ、マイクロトフ! カミューはここだ、追い掛けて来い!!」
「……今度は馬にニンジンか。ったく、ホントに性格悪ィな」
カミューに絡まった縄を解いてビクトールがぶつぶつ言う。
合い間にカーンが『守りの天がい』をかけた。これで万一淫獣が『破魔』を放とうと、間違ってカミューが紋章を使おうと、一度は凌げる。

 

 

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すすすみません、
妙ちくりんなところで切ってしまって。
これで年内の隠蔽は終了……って
怒ります? 怒らないですよね(汗)

次回分はともかく、最終話は
ほとんど書き下ろさないといけないんですが、
どうも最近不調なので
年明けにゆっくり作業したいです。

よかったね、オーちゃん……年越せて(死)

 

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