議員たちとの閣議を終えて西棟の居所に戻る足取りは軽かった。付き従う青騎士団副長の顔も明るい。目を細めて主君の横顔を見遣り、彼は小声で切り出した。
「順調なはこびで宜しゅうございましたな、マイクロトフ様」
過日、宰相グランマイヤーが初めて皇王制廃止の意向を持ち出した当初、会議の席には懸念と困惑が吹き荒れた。
直系王族がマイクロトフただ一人という現状から、このままでは皇王制存続が難しいと誰もが認めている。けれど、長年続いた体制を崩すには勇気が要る。しかも、何故このような即位間近の時期に、という驚きが強かったからだ。
不安はあれど、大旨では賛意に傾かざるを得ない───それが前回の閣議の向きであった。ただ、マイクロトフも同席しての今回は、日を置いたのもあってか、前よりも建設的に話が進んだ。
もっとも、何もかも順調だった訳ではない。
マイクロトフが示した将来の展望は、騎士団による統治だ。暫くの間は騎士団内に相応の役職を作り、現在の議員を留め置くという提案は、彼らには今ひとつ快諾し難いものである。
議員たちには、皇王不在の間、グランマイヤーと共に国政を支えてきた自負がある。にも拘らず、補助職に追い遣られるようなものだ。自身らの発言力が奪うのかと、あからさまに不満を浮かべる議員も居た。
ここでマイクロトフにとって幸いだったのは、赤騎士団の若い騎士の実兄をはじめとする数人の議員とよしみを通じていたことだ。マイクロトフの描く統治のかたちを予め伝えられ、これに賛同した彼らの仲立ちがあったからこそ、話し合いは穏便に進んだと言っても良い。
「根回しは重要なのだな。おれだけでは、場を納められたかどうか」
他人事めいた感嘆口調で呟くマイクロトフに副長はにっこりした。
「納められますとも、我らやグランマイヤー様を相手に熱弁を振るわれたときと同じになされば」
「無理だな」
さらりと返して、笑みながら首を振る。
「あのときは心許した人間ばかりだったから言いたいことが言えた。だが、議員が相手では……とても言葉で納得させられるとは思えない。根本的に論述は苦手なのだ、いつも教師を嘆かせていた」
そんなことはなかろう、と副長は思う。
皇子は数人の議員を味方につけたのだ。彼らも、他の議員のような不安は持っていた筈である。
けれども、公の集まりではなく、信頼する仲間の騎士の実兄も居るという気安さも幾許かはあったろうが、ともあれマイクロトフは彼らを味方に引き入れた。
論述の巧みで納得させたのでないなら、それは熱意だ。マイクロトフが語る未来のマチルダに希望を見たから───だから議員たちは協力しようと考えたのだろう。
真に人を動かすのは権威でも財でもない。
何ものにも怯まぬ強固な意志、信念が持つ輝きなのだ。副長は、若き皇子を眩しげに見詰めた。
「それはさて置き、マイクロトフ様。騎士団文官として発言権を残すにしても、彼らの権限が今とは及びもつかぬものとなるのは必至。多かれ少なかれ、その点での不満は燻り続けましょう。よくよく意思の疎通を図り、円滑な関係を築けるよう、配慮せねばなりませぬ」
そうだな、とマイクロトフは頷いた。
今は赤騎士の実兄が繋ぎ役を担ってくれているが、これは縁故に頼った苦肉の策、飽く迄も当座の凌ぎだ。先々は、騎士団側からも交渉や説得に秀でた者を出して、対等に話し合う関係を作っていかねばならない。
漠然とした想像でしかないが、自身には不向きな役だと思えて嘆息した。
「どうにも……赤騎士団の副長殿のような人物向きのつとめだな」
「同感です。が……、決して公私を交える御方ではありませんが、部下の長兄、それも此度のように力を貸してくれた人物が相手側の主軸にいるというところで、やりづらさは否めませぬな」
粛々と言って、副長は薄く微笑んだ。ちらと窓の外に目線を移して低く言う。
「……もう御一方、折衝役に最適な人物を存じております。たいそう若く、騎士としての経験も持たぬながら、この上もなく優れた人物を」
カミュー、と呟いてマイクロトフは目を細めた。
世事に長けた海千山千の議員を相手に、艶然と笑みながらゆったりと話を進める青年が目に浮かぶ。
流暢な話術と柔らかな声で相手の心を解き、それでいて突き刺すような厳しい意見も厭わない。なまじ騎士の訓戒に染まっていないだけに、中立の立場で思案することも出来る。
どんな相手でも、どれほど難しい交渉事も、カミューならば巧く納めてくれそうだ。だが───
「……何はともあれ、先ずは騎士団に引っ張り込まねば」
皇子の声音に悲哀がないのを認め、副長は微笑んだ。
「マイクロトフ様の望みは我らの望み、何としても叶えたいものです」
幾度となく交わされた遣り取り。そのたびに、自身同様、騎士らがカミューを愛しているのを痛感するマイクロトフだ。
失われた「家族」の代わりになりたいと願う男たちの誠心が伝わるよう、ひっそりと瞑目しながら祈り、それから語調を変えて切り出した。
「それにしても、ゴ……叔父上が何も仰らなかったのは気になる」
名を言い直し、敬語を捻り出したのは、廊下の先に数名の白騎士が見えたからだ。
足を止め、壁の際に寄って皇子を遣り過ごそうとする一団。白騎士すべてを敵対視しようとは思わないが、味方の奮迅のはたらきを考えれば、もはや僅かな危険も冒せない。心のうちに渦巻くゴルドーへの感情を、たとえ欠片であっても、その配下に窺わせる訳にはいかなかった。
白騎士たちの横を通り抜け、少ししてから周囲を憚る含み声が応じた。
「……少しお待ちを。部屋に戻ってからに致しましょう」
今日の閣議にはゴルドーも参席した。マイクロトフを殺して統治の全権を手中にしようとする男には、皇王制廃止という案件は重大事である筈だ。なのに彼は、あっさりと「異論なし」と宣言したのである。
一旦は即位するという部分で、マイクロトフが解任権を行使する気だとは察しているだろう。今の時点では何も言えなかったのかもしれないが、一つ二つは口を挟んでくるに違いないと身構えていたマイクロトフには肩透かしを食ったような心地である。
観察力に優れた赤騎士団副長に意見を求めたいところだったが、彼は閣議後、「暫しの間、失礼を」と言い残して、早々に退出して行ってしまった。
この間から何やら妙に慌ただしく動いている赤騎士団副長には、他には分からぬ心労が蓄積しているらしい。仔細が説かれる日を待つと決めたものの、気掛かりなマイクロトフだった。
西棟の部屋では、ゲオルグ・プライムのおおらかな笑顔が待っていた。
フリード・Yは午前中から礼拝堂へ赴いたまま、未だ戻っていない。昨日、司祭長マカイにも「次代皇王」の意を知らせておくべきだという話が出て、朝になってフリード・Yに文を持たせたのだ。
退くと決めて即位する王。これは、皇王家を重んじ、聖なる式典を差配しようとしているマカイには晴天の霹靂だろう。文だけにとどまらず、己の意向を深く理解するフリード・Yを差し向けたのは、マカイに対するマイクロトフのせめてもの誠意であった。
とは言え、慣習上フリード・Yは堂内に立ち入れない。片やマカイは、文を読んで仰天しても城に駆け付けられない。扉の内と外で長々と問答を繰り返す姿が想像され、やや二人に申し訳なさを感じもしたが。
「どうだった、会議の方は?」
卓上の皿に積まれた焼き菓子を頬張りながらの問い掛けに、マイクロトフは苦笑を返す。
「順調です。寧ろ、順調過ぎるくらいです」
「それは重畳。で……、問題の御仁の反応は?」
それが、と今度は青騎士団副長が答えた。
「マイクロトフ様とも話していたのですが、呆気に取られるほど無反応で。いえ……無条件に賛同した、と言った方が宜しいでしょうか。皇王制廃止後、マチルダが騎士団統治制を取っても、自らの天下になる訳ではないと分かっておりましょうし、心中穏やかではいられぬと思うのですが」
「これまで尽く、おれの意見には難癖をつけてきた男とは思えなかったな」
揶揄気味に響いたマイクロトフの補足に、だがゲオルグの表情は厳しい。
「あちらさんも背水の構えといったところか。正念場だぞ、皇子」
「ゲオルグ殿?」
「分からんか? 奴にとっては、皇王制の廃止だの、その後の騎士団統治だのは無意味だ。新皇王が即位したときが己の最後。ならば、取る道は一つしかないだろうからな」
「それは、マイクロトフ様を……」
不快のあまり言葉を濁す青騎士団副長に軽く首肯し、なおゲオルグは考え込む。
「ゴルドーは落ち着いているように見えたか?」
「は、はい。少なくとも、表面上は」
ふむ、と顎を撫でて目を閉じる。
絶対の窮地を間近に控えて、一応の冷静を保っている。それは、つまり───
「……当てが出来たと見るべきか」
小声の独言はマイクロトフらには届かなかった。ほぼ同時に扉が鳴ったからだ。
入室してきたのは件の若い赤騎士である。たまたま外出していたところ、帰還した青騎士団・第一隊長と鉢合わせたため、先触れ代わりに伝えに来たと語った。
「そうか、戻ってきたか。良かった」
安堵を隠さぬ皇子に、自身も笑みを誘われつつ若者は続けた。
「それでですね、「白騎士団員の目に止まらぬように入城したい、力を貸せ」と言われたので、警邏帰りの青騎士に壁になってくれるよう頼みました。おれ一人じゃ、とても隠せそうになかったので」
律儀に頭を下げられて、青騎士団副長は困惑げに瞬く。人目を避けるなら、騎士一人、幾らでも手段がありそうなものを、「壁」とはまた大袈裟な、と考えたのだ。
反応を見た若者は、くすりと笑った。
「すぐに分かります。驚かれると思いますよ」
悪戯っ気たっぷりな言い様だ。「気を持たすな」と一同が口にするより早く扉が開き、長身の騎士隊長がひょいと顔を覗かせた。
「ただいま戻りました。いやどうも、大変遅くなりまして」
いつもながらの軽い調子で会釈して、空いた席に着くなり思い出したように言い添える。
「ああ……、部隊指揮の無断放棄もお詫びします。土産に免じて、処罰と相殺していただければありがたいのですが」
「土産?」
反射的に復唱して、しかしマイクロトフはすぐに首を振った。
「無事に戻ってくれただけで良い。だが、黙って一人で動くというのは……以後、控えて欲しいぞ」
「皇子はな、おまえさんの帰りが遅い、魔物にでも遭遇したのではないかと、えらく心配していたんだ」
「ゲオルグ殿!」
頬を染めるマイクロトフを一瞥し、騎士隊長は首を傾げる。
「心配……と言われると、魔物に食われて原型を留めていないわたしが、哀れ野晒しになっている、とか?」
「い、いや、そこまで具体的には……」
「論外です」
ぴしゃりと一蹴して、騎士はにやりとした。
「この非常時に、のんびり屍になどなっていられない。人手が足らぬ不便は、此度わたしも痛感致しましたからな。一人の方が身軽に動けると考えていたが……間違いでした。何人か連れて行けば良かった。そうすれば報も送れたし、連行に苦労することもなかったものを」
「連行?」
副長が穏やかに遮った。
「先程から、土産だの連行だのと……いったい何の話だね? 肝心な目的は───侍医長の娘御には会えたのか?」
すると男は、ぽりぽりと頭を掻きながら思案に暮れた。横目で若い騎士を見遣る。
「君は何も説明してくれていないのかね」
「そんな暇なかったですよ。牢に白騎士を近付けないよう、仲間に声を掛けて回ってからここへ来たし……」
ますます怪訝を増すマイクロトフらを眺め遣り、ふむ、と渋い顔で切り出す騎士隊長だ。
「御報告することが多いので、順を追っていきます。心ばかりの土産に、ならず者を三名連行しました。殿下は前に顔を合わせておいでですな───御母君の郷里に向かわれる途中で」
思いも寄らぬ一言に唖然とする一同の横、ゲオルグだけが戸惑いがちに眉を寄せる。気づいた赤騎士が短く説いた。
「ええと、少し前に殿下を暗殺しようとした奴が居たんです。殿下とカミュー殿が撃退なさったんですが」
カミューが、と繰り返して、ゲオルグは先を続けるよう騎士隊長に促した。
「向かった村に居合わせたのです。間抜けた連中だ、仕事にしくじったなら、とっととマチルダから去れば良いものを」
最初に我に返ったのは副長だ。
「だ、だが……まだ手配書は各村に回っていないのではないか?」
たかだか半月あまり前の出来事なのに、その後の激震で早くも記憶から零れ掛けていた事件。
査察の名目で祖父母が眠るマチルダ最北の村に向かうさなか、マイクロトフは、ゴルドーに雇われたと思しき刺客の集団に襲われた。
そのとき遭遇した二十名を越える敵の顔を、カミューの記憶に従って赤騎士団・第一隊長が描いたのだ。版刷りに掛けてマチルダ中の村に送ることになっているが、未だ完了の知らせは来ていない。副長の困惑はもっともだったが、これにはさらりと答えが返った。
「わたしは人相書きを目にしておりましたから。版刷りに回す前に、元絵を見せていただいたのです。これまで個人的な親交があった訳でなし、そんな特技をお持ちとは知らなかったが……巧いものだと、顔を覚え込むほど眺め入ってしまった」
そこで青騎士隊長は剣呑とした覇気を立ち昇らせた。
「戦いながら人相を記憶したカミュー殿には及ばぬにしろ、わたしも覚えは悪くない方です。連中には、部下がたいそう世話になりましたからな」
再び赤騎士がゲオルグに耳打ちした。
「第一部隊の青騎士が、殿下を護ろうとして怪我をしたんです」
「……まあな、言葉通りの「世話」には聞こえなかった」
コソコソ声の遣り取りには頓着せず、騎士隊長は続けた。
「事情は後ほど御説明するが、わたしも村をうろつく時間が多かったのです。酒場から出てきた連中を偶然見掛けて、人気のないところまで追い、そこで───」
自身の目前に翳した手を、ぐいと握る。屠殺人が鶏の首でも絞めるが如き動きだった。実際、騎士隊長には似たようなものだったかもしれないと一同には感じられた。
「少しばかり撫でてやったら、喋る喋る。あの折、我らが少しばかり手を貸した井戸も、あれくらい水が出れば良いのですが」
「……手荒な真似をしたのか?」
知らず、おずおずといった調子になりながらマイクロトフが問うと、男は即座に破顔した。
「無論、騎士の訓戒に従い、先に手は出しておりません。しかしながら、向かってくる敵は倍返しで持て成すのがわたしの主義です」
次いで男の瞳が暗く輝いた。
「あのとき、従者殿の回復魔法がなかったら部下たちの命はなかった。本音を言えば、三倍返しでも飽き足りない。そこを譲って、肋の二本や三本で許したのだから、わたしとしては破格の恩情です」
「ぶ、部下思いなんですね……」
怖じ気に憑かれた様相で、若い騎士がぷるりと身を竦ませる。騎士隊長は平然と嘯いた。
「まあね。とは言え、後に証言に立たせる点を考慮すれば「撫でた」跡が明白なのは宜しくない。拷問の上の自白強要と取られぬよう、気は遣った」
「それでアバラですか」
「そう。外から一見しただけでは分からない」
やれやれ、と青騎士団副長が嘆息する。咎めた方が良いような気もするが、騎士隊長の心情も理解出来ない訳でなし、上官としては複雑なところであった。
「村を出るまで、村長宅の納屋に繋がせて貰いました。連行するのに馬も借りましたし……手隙のときにでも殿下の御名で、礼状の一つも送ってやっていただきたいのですが」
「分かった、そうしよう」
「今ひとつ。連中に、包み隠さず喋ったら死罪だけは勘弁してやると言いました。まあ……たかが騎士一人の口約束ですので、事が済んだら煮るなり焼くなり、御気の済むようになさってください」
これにはマイクロトフも吹き出した。
「騎士たちが受けた痛手を思えば死罪相当だろうが……約束は約束だ。おまえの名誉のためにも、命は取らないでおこう」
「一生雑役で扱き使ってやれば良いんですよ、死ぬより辛いと思うくらいに」
若者の鼻息荒い意見に苦笑を浮かべ、それから副長は表情を引き締めた。
「それで? ゴルドーに雇われたと吐いたのか?」
「いえ……ゴルドーも、連中と直接契約を交わすほど馬鹿ではなかったようで。ですが、雇い主の名は出ました。我々にも馴染みのある御仁……、白騎士団の第三隊長殿です」
一瞬の沈黙。
皇王印・製作職人殺しの真相を闇に葬った男。あるいは直接、職人を手に掛けたかもしれない白騎士。
ここまで来れば仮定で終わらない。彼は間違いなくゴルドーの企みに従っている。しかも、相当に深く重い位置で。
「……捕えるか?」
低い、絞り切ったマイクロトフの問いに副官は眉根を寄せる。
「どうしたものでしょうな。事を動かすなら、一気に畳み込むべきでは……。此度の「尻尾」だけは絶対に失えませぬ」
「うちの副長にも話してからの方が良くありませんか? 三人は牢の一番奥に留置するよう手配してあります。白騎士団員が覗きに来ることもなさそうだけど、牢番にも存在を伏せるよう念入りに頼んであるし……急ぐ必要はないと思うんですが」
成程、とマイクロトフらは頷いた。騎士隊長が「壁」を要してまで入城を伏せようとした意味が分かったのだ。
三人の刺客はゴルドー追求のための重要な札だ。こちらが手中に納めたと知れば、ゴルドーも動くだろう。刺客の口を塞ぐのが不可能と断じれば、白騎士隊長の方を切り捨てかねない。
逆に、隠匿したままなら詮議の場で隠し玉として使える。敵の意表を衝き、尚且つ態勢を整える暇を与えず波状攻撃を繰り出す───戦術の基本だ。
「……詮議の席で証言するという点も受け入れているのだな?」
マイクロトフの問いを受けて、騎士は肩を竦めた。
「いつでも何処でも、聞かれただけ話すと言っておりましたな。何なら、詮議直前に再度わたしが確認を入れましょう」
「よせよせ、大事な場の前に怖がらせるんじゃない」
くすくすと笑いながらゲオルグが言った。
「まあ、皇子が顔出ししておいた方が良いかもしれないな。命は保証する、正直に語ってくれまいか……とでも優しく請えば、飴と鞭だ、素直に応じそうじゃないか」
はい、とマイクロトフは頷く。もっとも、心情的には騎士隊長に近いものがあるので、「優しく請う」という節には若干自信がなかったが。
騎士は報告を再開した。
「という訳で、時は急くし、一応は怪我人なので、馬を与えてやったのですが……」
「よく逃げ出そうとしませんでしたね」
若者の何気ない感想に、男はむっつりと返す。
「したとも、村を出た直後に。懲りない奴らだ。まあ、その後はおとなしく付いてきたがね」
どんな攻防があったのか想像しようとして、だがマイクロトフは押し止めた。味方にすれば頼もしいが、敵に回すと恐ろしい───方向性に多少の差異はあれど、周囲の騎士らに共通する言葉だ。
「このとき、……そして村に滞在している間も、部下を伴わなかったのを悔いました。連行に手が掛かる、一報入れようにも入れられない。戻りが遅いと気を揉んでいただいたようだが、わたしも同じです。これほど思うに任せぬのは久々だった」
一息入れるように男は左右に首を振る。
「……侍医長の娘は然して労せず見付けられたのです。と言うのも、彼女の夫がこれまた医者で、村では知られた人物だったので。教えられた家を訪ねたまでは良かったが、ここからが大事でした」
早く結果を知りたい。だが、知るには何やら竦む。
それが一同の偽らざる心境だった。青騎士隊長の独特の話し調子も相俟って、いつしか誰一人として結論を急がせようとはしなくなっていた。
マイクロトフも、辛抱強く──かなりの割合で騎士の体験に興味を持って──耳を傾け続けた。なかなか核心に近付かない物言いが、痛撃に見舞われるマイクロトフを思い遣っての躊躇だったと、このときはまだ気付けずにいたのである。
「問題の娘が直接迎えてくれたのですが……いきなり卒倒されまして」
「卒倒?」
はあ、と男は嘆息する。
「予め申し上げておくが、尋問の構えで相対した訳ではありません。「殿下の代理で訪ねさせて貰った、亡き父君について少々お伺いしたい」と告げただけです。ところが彼女は蒼白になってその場に座り込んだ。弱り目に祟り目とは、このことですな。そのまま産気づいてしまって」
───途方も無く奇妙な一節を聞いた気がして、男たちはぽかんとした。ええと、と若い赤騎士が首を捻る。
「それって……子供が生まれる、あのお産ですか?」
「他に何かあるかね?」
むっつり返して騎士隊長は肩を落とした。
「ちょうど臨月に入っていたらしいのです。侍医長はかなりの高齢になってから妻を娶ったため、娘ともだいぶ歳が離れていました。つまり、娘には初産だった訳です。良く分からないが、ああしたものは精神的な影響を多々受けるそうですな。何と言うか……、弾みで始まってしまったといった感じで」
「そ、それはまた……」
「隊長が赤ん坊を取り上げたんですか?」
邪気のない問いには凍れる視線が送られた。
「出来るか、阿呆。夫は医者だし、幸いにも在宅していて、慌てて飛んできたから、助かったと胸を撫で下ろしたのも束の間、これがまるで使いものにならなかった。うんうん唸っている妻を見た途端、腰を抜かしやが……っと、失礼、腰を抜かしてしまったのです」
荒っぽい口調が零れ出たのは、緊迫と焦燥、夫への憤りと同情とが混濁したためだろうと、マイクロトフは密かに思った。
「た、大変だったのだな……」
心底からといった声音で副長に慰労され、男は微かに笑んだ。
「ええ、まったく。騎士人生もそこそこになるが、あれほど狼狽えたのは初めてです。「村の外れに産婆がいる」と夫に泣き付かれたが、下手に動かしたら死なれそうで、とても連れて行けそうにない。呼びに行きましたよ、立てない夫の代わりに」
「…………」
「しかも、この産婆というのが本当に歳を召された人物だった。わたしも暫くは村の噂のタネですな───産婆を背負って、血相を変えて走る騎士、と」
ぐっ、と潰れた息を吐き、慌ててマイクロトフは片手で口を塞いだ。笑ってはならないと必死に己を諌めるが、ふと視線を移せば、他の男たちも思い思いの方向に顔を向けて吹き出すのを堪えて苦闘している。
反応を予想していたのか、騎士隊長は無表情のまま一同の発作が納まるのを待った。
「……何とか産婆を連れ帰った後、布だの湯だのを用意しろと顎で扱き使われ、最後には夫とふたり、部屋から追い出されて。「悲鳴が聞こえる」と震え上がるものだから、夫を家の外に連れ出しました。なかなか進まないので、途中何度か蹴り飛ばしそうになった。民間人への暴力を禁じた教えを暗唱しつつ、かろうじて堪えましたが」
「う、うむ。然様、如何なる理由があろうと、それは許されぬ。力なき民の助けとなるのが我ら騎士のつとめなれば」
青騎士団副長が喘ぎながら声を絞る。今はとにかく、この話題を終わらせねば、まともに息がつけそうになかった。
「それで、無事に生まれたのか?」
「未来のマチルダ騎士候補が一人」
このときばかりは険しかった顔が綻んだ。小さな命が無事に世に生まれ出た。それは、彼のように冷めた──ように見える──男にとっても、喜ばしいことであったのだ。
「……とは言え、予定より早く産気づいたのが悪かったのか、母親の方の回復が思わしくなかったのです。寝込んでいる横で、あれこれ問い質す訳にもいかない。そこで、話が出来そうになったら声を掛けてくれるよう夫に頼んで、宿を取りました。気は焦るが、待つしかない。知らせを送りたくても、部下が居ない。村の者にでも頼もうかと思いましたが、ミューズ国境近くの村ともなると、なかなかロックアックスまで行く者が居ないのです。こういうときに限って行商人も通り掛からず、八方塞がりとしか言いようがなかった」
成程と、漸く笑いを納めた男たちが納得する。
これで便りの一つも寄越さなかった事情が明かされた。マイクロトフは魔物の襲撃を案じたが、騎士隊長はそれ以上の苦難を舐めていたのだった。
「そんな訳で、待機の暇を持て余し、騎士道が説く奉仕精神を実践しながら日を過ごしました。民家の柵を直したり、屋根の修理を手伝ったり……付近に出没する魔物の駆除にも励みましたな。そうして毎日ふらついた結果、ならず者連中に出くわしたので、まるで無意味ではなかったでしょうが」
「そう───そうだな、善行は報われる。天が見ているのだろう。本当に御苦労だったな」
やっとまともな慰労を口にした皇子を一瞥し、騎士隊長は小さく会釈した。
それにしても、とゲオルグが首を捻った。
「どうしてその娘、それほどの衝撃を受けたのだろうな。父親が皇王家の御抱え医師だったなら、騎士が訪ねて来たくらいで驚かなくても良いんじゃないか?」
「それは」
青騎士隊長は、それまでとは顔つきを一変させた。矢庭に硬くなった面持ちが、否応なく座を緊張へと追い遣る。
「侍医長が遺言を残していたからです」
「遺言が───あった、のか」
震え声で復唱した上官に、静かな眼差しが注いだ。
「ええ、副長。我らが望んだ核心についてです」
← BEFORE NEXT →