開店まで間があるというのに、扉前には結構な人だかりが出来ていた。
ざわめきを聞き止めて、やれやれとロウエンが息をつく。
もともと人の集まる店ではあった。安くて美味い酒と料理、心地好い語らいを求める男女が訪れずにはいられぬ店。東七区の入り手、レオナの酒場の評判は、奇縁から店の一員となったロウエンにも誇らしく思われるものだった。
けれど、このところの盛況振りは女たちを困惑させる。満座の客の尊崇の眼差しが、二人を戸惑わせ、居心地の悪さを掻き立てるのだ。
そんな頓着には無縁といった様相の客たちが、今宵も閂を取り去ると同時に雪崩込んできた。
先を争うように席に着くのは、主に娼館の用心棒といった面々だ。雇われ先の店が本格的に稼動する前に腹ごしらえを済ませておこうという塩梅である。こうした客層は以前と変わらない。ただ、爆発的に数が増え、態度にも変化が生じたのだ───あの、数日前の一件から。
「御邪魔させて貰いますよ、レオナの姐さん。先ずは麦酒を四つ、頂けますかい?」
「こっちには三つ、宜しく」
「五つ頼みます」
「おれたちにはワインを一本。えーと、300ポッチくらいの赤、ありますかね?」
立て続けに飛ぶ要求に、レオナが杯を用意する。酒を注ぐなり、太い声が明るく笑った。
「ああ、良いっすよ。姐さん方の手を煩わせるまでもねえや。注いで貰えりゃ、てめえで運びますって」
ほぼ連日の遣り取りである。配給を待つ戦争難民さながらに、一列に並んで麦酒の杯を受け取って行く男たちを見送って、レオナは嘆息した。
「何度も言うようだけど……「あねさん」は止めてくれないかねえ。堅気の商い人に聞こえないじゃないか。前みたいに「女将」とか、名前で呼んでおくれよ」
しかし客らは、互いの連れと顔を見合わせ、笑みながら首を振る。
「娘っ子たちだって、そう呼んでるじゃないスか」
「そうそう、ロウエンだって「姐貴」って……」
「……「ねえさん」と「あねさん」じゃ、かなり違うよ。ロウエンは……付き合いが長くて、慣れただけ」
そんなレオナの不満も、野太い笑い声に一瞬で掻き消された。
「姐さんは姐さんですよ。この東七区が誇る女傑を、名前でなんぞ、畏れ多くて呼べねえや」
「色狂いの騎士を撃退した勇敢なるレオナの姐さんと、妹分ロウエンに、乾杯だあ!」
何処からともなく上がった叫びに唱和する声、声、声。
早々に諦めて調理場に逃げたロウエンも、これにはぐったりと肩を落とすばかりだった。
数日前、民を庇護する筈の騎士、しかも隊長級の人物が娼館で剣を抜いて、主人や用心棒たちを斬った。騎士は、逃げた娼婦を追ってレオナの店にまで踏み込んだ───
この区で事件を知らぬ人間はいない。先王の死後、傲慢と怠惰ぶりが目に余る白騎士団への非難も相俟って、噂に歯止めが掛からなかったのだ。
重傷を負った娼館の店主や用心棒も、身を呈して店子を庇った献身を称えられたが、恐怖で放心していた娼婦たちに代わって彼らを魔法札で治療して回ったレオナとロウエンには、それ以上の賛辞が与えられた。何しろ二人は、店主たちの命を救っただけでなく、凶刃から弱き娘を護り抜き、挙げ句、白騎士に陳謝させるまでに至らしめた「英雄」だったのだから。
「これも言い飽きたけど、あの馬鹿を撃退したのはおれたちじゃないんだってば」
知らず洩れたロウエンの呟きを逃さず、客の一人が大仰に応じてみせる。
「はいはい、姐さんの遠縁の坊やだ、ってんだろ。そんな親戚がいるだけでも凄ェことに変わりはないぜ」
「目が醒めるような美形だってのは本当かい? おれたちにも拝ませてくれよ」
「人見知りが酷いんだっけか? 勿体無いなあ、そんだけ美人なら男でも良いけどな、おれは」
笑う男をロウエンはじろりと舐めつけた。
「……そういうバカを言う奴がいるから、危なくって人前に出てこないんだよ」
日々叫ばれる賞賛に辟易として、何度も説明したのだ。
白騎士隊長を屈服させたのは少し前から同居している青年なのだと。幸運にも青年は、白騎士隊長にとって頭の上がらぬ人物を知っていた。「これ以上の暴挙を重ねるなら、その人物に訴える」と攻撃された騎士は、結果、傷つけた店主たちに頭を下げざるを得なかったのだ、と。
だが、肝心な「殊勲者」が一向に姿を見せないのでは、感謝や賞賛がレオナたちに向かうのも詮無きだ。相も変わらず、店が開いている時間帯には自室に引き篭る青年を、このときばかりは厄介に思うロウエンだった。
ひとしきりの騒乱が過ぎて、用心棒たちがそれぞれの店に引き取って行くと、今度はパラパラと女たちが入ってくる。取り敢えず「一仕事」終えた娼婦たちだ。なまめいた倦怠を纏う彼女らも、以前にもましてレオナたちへの好意を深めていた。問題になった娼館に身を置く女たちは尚のこと、せめてもの礼とばかりに連日足を運んでくる。
「おはよう、レオナ姐さん、ロウエン。調子はどう?」
一気に華やいだ店内に軽やかな声が舞う。
「変わらず、さ。勘弁して欲しいね、あの男たちは……開店早々どっぷり疲れたよ」
「妙に崇め奉られるのは御免だ、って何度も言ってるのにさ。あいつら、聞く耳なんて持っちゃいないんだから」
「無理もないわよ、何処でもその話で持ち切りだもの。あの白騎士隊長、あんまり頻繁に来るから、そこそこ有名だったのよ。他所の店にも噂が聞こえてくるくらい」
一人が言うと、別の女がワインの杯を干しながら呼応した。
「いばりくさってる奴に限って、上の人間には諂うんだよね。頭を下げたところ、見たかったな」
「それよりあたしはレオナ姐さんの親戚の子を見たいわ。何処かの貴公子みたいな美青年だって話は本当? あの店の旦那さんや用心棒たちが、そりゃあもうベタ褒めしてるけど……。素敵よね、まるで白馬の王子様じゃない」
うっとりと呟いた一人に、年嵩の女が向き直る。
「あの娘の身になってごらんよ、そんな浮ついた台詞なんて言ってられないんだから。まったくねえ、客として来る騎士にも良い人はいっぱいいるのに。あの白騎士が来るたび、あの娘は泣いてたよ。助けられて本当に良かったよ」
哀れな娘と同じ店で働く女と知り、レオナが眉を寄せながら問うた。
「様子はどう? まだ寝込んでいるのかい?」
非道な執着に晒された娘は、あれ以来ずっと臥せっているのだ。先日レオナらが見舞ったときにも、弱々しく礼を口にするばかりで、すぐに意識を混濁させてしまった。
問われた女も暗い顔になった。
「お医者の見立てじゃ、特に身体に悪いところはないって。酷い目に遭ったからだよ、精神的なものだろうねえ。旦那たちも下手したら死んでたところだし、自分を疫病神みたいに思い込んじまっているみたいでさ。毎日ベッドで、ぼんやりしてるよ」
客を取れる状態にない娘を、だが娼館の主人は鷹揚に遇している。一命を取り止めた用心棒たちも「気にするな」と励ます。それがまた申し訳ないと、娘の心は内へ内へと向かってしまっているらしい。
良くないねえ、とレオナは呟いた。
「とは言っても、こればっかりは周りがどうこう出来るものじゃないし……」
「せっかく旦那や男連中が気にしてないんだから、もっとこう……「嫌な客が消えた、万歳」ってな訳にいかないものかね」
ロウエンらしい意見が女たちを苦笑させる。
「あの娘にも、そのくらいの図太さがあれば良いんだけどね」
「何だってぇ? どういう意味さ」
「気持ちが強い、って褒め言葉だわよ。それはともかく……その親戚のお兄さん、店に来てくれないかしら。浮ついた台詞と言われようと、やっぱり仲間を助けてくれた恩人だもの。御代はいらない、張り切ってお相手しちゃうわよ、あたし」
たちまち目を剥いて否を叫ぶロウエンを、レオナは溜め息混じりに見守った。何がなし、常と変わらぬ他愛もない遣り取りに浸り切れないのだ。
白騎士隊長の非道という脅威は去った。幸いにも死人が出るのは食い止められたし、「二度と立ち入らず」との言質も取った。ともあれ区には、日常的な喧騒が戻ったと言える。
けれど今なお、癒えぬ傷を抱えた者が居るのだ。無体を憎むと同時に、若い娼婦の一刻も早い本復を願わずにはいられぬレオナであった。
階下のさざめきに重なるように、羽筆が紙を滑る乾いた音が続いていた。
几帳面な文字が記すのは、様々なグラスランド料理だ。実際に口にしたものもあれば、聞き齧っただけの品もある。この何日か、カミューは思いつく限りの料理を紙面に書き記そうと努めていた。
「宿賃代わりに目新しい品書きを」とロウエンに請われ、教えた料理はどれも評判が良いという。「売上に貢献」云々は置いても、女たちに報いるすべを持たぬカミューには、こうして知識を提供する他、感謝の示しようがなかったのである。
開店前、ロウエンと並んで調理場に立っても、作れる料理は一品か二品だ。彼女が調理法を記憶するのにも限界はある。
客の訪れに先んじて自室に引き取ってからの長い夜を、覚書を書き止めることに充てようと思い立って数日。走る筆の合間に零れる溜め息の分だけ、書の厚みは増していく。
どれだけ書いたところで、役に立つかどうか分からない。それでもカミューは、ひたすらレシピを綴り続けた。そうして筆を取っている間は、レオナやロウエンと同じ世界に繋がっているのだと感じられたからかもしれない。
夜半過ぎ、店が最も混み合う刻限。
コツリと窓が鳴った。
はっとする間もなく、二度目の音。カミューは表情もなく立ち上がった。
開け放った窓から覗くと、店の小さな裏庭に黒ずくめの人影が立ち尽くしている。即座に寝台の下からロープを取り出した。幾日か前、納屋で見付けて忍ばせておいた品だ。
ロープの片端を寝台の足にしっかと結び付け、いま一方の端を掴んで、カミューは窓から舞った。一度だけ壁を蹴り、そのままひらりと着地する。すかさず嘲笑が囁いた。
「グラスランド出と聞いたが……流石は野育ちと言ったところか。コソ泥としても充分やっていけそうではないか」
「戯言は結構です」
ぴしゃりと言って、カミューは影を睨み据える。対峙するのは白騎士団・第三隊長、二度と顔を合わせたくないほど嫌悪しつつ、待ち侘びた人物であった。
指定通り、レオナたちが慌ただしく立ち働いている時間ではあるが、何時ひょっこり勝手口の扉が開くやも知れず、カミューは軽く会釈して男を木陰へと導いた。自身の立ち位置が戸口から死角となっているのを確かめた後、白騎士は低く切り出した。
「ゴルドー様は計画の遂行をお望みだ」
───短い言葉。
それを願っていたのか、あるいはそうでなかったのか、一瞬カミューにも分からなかった。
ゴルドーの答えが否なら、もはや手はなかった。最後の道が用意されたのは、すべてを終わらせよとの、天の慈悲だったのかもしれない。
「この期に及んで別の刺客を手配するのは不可能だ。光栄に思うが良い、ゴルドー様は貴様に賭けると仰せになられた。手段も、事後についての貴様の申し出も、すべて受けられるそうだ」
淡々とした声音が、後半の一節に差し掛かったときのみ、忌ま忌ましげな気配を交えた。ゴルドーと白騎士隊長の間にどんな遣り取りが交わされたにせよ、カミューがゴルドーの「お抱え」となる点については未だ賛同しかねる騎士の心情の現れだろう。
「……実行の手筈は? 礼拝堂には侵入出来るのでしょうか」
カミューが問うと、騎士はいっそう声を低めた。
「南二区───どの辺りか分かるか」
「ロックアックスで最も南寄り、街門に近い地区ですね」
「そうだ。念のため地図を書いてきたが、深緑の屋根の、今は使われていない屋敷がある。即位式前夜、日の変わる頃に、その屋敷へ来い」
差し出された紙片を手にカミューは小首を傾げる。
「礼拝堂とはまるで逆方向になりますが……?」
「わたしも詳細を説かれた訳ではないが、抜け道があるようなことを言っておいでだった」
これは初耳であった。即位式の警備案にも、そんな抜け道を想定しての策は記されていない。あるいは白騎士団長にのみ伝えられる情報なのだろうか───そう思案を巡らせて、カミューは自嘲した。賭けを打つ以上、今はゴルドーに頼るしかないのだ。
「分かりました。ただ……、不安材料がないとも言い切れませんね」
「不安材料だと?」
「日が変わる刻限と言えば、この辺りでは人の行き来が多い時間帯です。まるで人目につかず、といくかどうか」
騎士は一瞬の沈黙の後、にやりと頬を緩めた。
「そうか、貴様……知らなかったのか。即位式前日、日没と同時に、首府都ロックアックスは祈念の慎みに入る」
「祈念の慎み?」
「平たく言えば「新王の御代に栄えあれ」と祈る儀式だな。余程の危急でない限り、住民は外出を控えるのが慣例で、商い事も日没までとされている。そこからが稼ぎ時となるこの区には、面白からぬ取り決めだろうが」
若き新皇王を一目見ようと、国外からも人が集まってきている今、東七区は連日たいそう賑わっている。そんな折の休業は、歓楽街に並ぶ店には痛い決め事だろう。
だが、レオナたちからそうした話を聞いた覚えはなかった。一夜の損失を上回る新王への期待があるから、言の葉に上らなかったのに違いない。
人気のない暗い街をゆっくりと進む己が姿を想像し、カミューは静かに目を伏せた。
終焉へと向かうに相応しい、何と物寂しい道行か。
夜陰に響く靴音は、葬列の鐘にも似て聞こえそうだ───
白騎士隊長の指示は続いた。
「但し、騎士の巡回は通常通り行われる。見咎められたら斬って捨てろ」
南二区と呼ばれる地域の巡回は、確か赤騎士団が担当だった。思い返せば仄かな疼きが胸に灯る。
屈託なく傍に寄り、明るく笑み掛けてきた若い騎士。
剣を交えて技量を確かめ、跪いて誠心を差し出そうとした騎士隊長。
いつの日にかカミューが騎士を従え、王の横に並ぶ姿を夢見ていると語った副長。
欺き通すにはあまりにも真っ直ぐだった男たち。
心を寄せてはならないと自らを諌めても、彼らはただ眩しかった───
「間違いなく伝えたぞ、くれぐれも齟齬のないようにな」
「……御足労をお掛けしました。区内の人間に見顕されぬよう、お戻りください」
踵を返そうとしたカミューは、ふと、建物を見上げる騎士の眼差しに足を止めた。
「如何なさいました?」
聞かずとも分かる気がした。脆い月明かりが映す男の瞳は憎悪に猛っている。
「虫螻どもが……」
押し殺した独言の響き。カミューは小さく息をついた。
「まだ根に持っておられるのですか」
「当たり前だ!」
騎士は憎々しげに唸る。
「誉れ高き白騎士団の第三隊長ともあろうわたしが、よりによって淫売宿の者どもに礼を取ったのだぞ!」
「……真なる栄誉の前の瑣末事と、納得なさった上での仕儀だったのでは?」
うんざりと返すカミューだ。
まったくもって、あれは薄氷を踏むような顛末だった。
怒りに任せて娼館で剣を振るった騎士。事を納めるために詫びを入れさせるところまでは了承させた。しかし、男の気性からしても穏便に策が進むとは思えず、人目に触れるのを避けたいところを、敢えて店まで同行せねばならなかったのだから。
先んじて娼館に向かっていたレオナらの処置により、店主らは命を取り止めていた。一度は──渋々と、ながら──心を決めた騎士は、だが、いざという段になって懸念通り陳謝を躊躇った。
同じ訓戒の許に生きながら、何故こうも矜持の方向が異なるのかと、カミューは自らが知る騎士たちを過らせつつ、やむなく代弁に臨んだ。
騎士が如何に悔いているか、感情的に剣を抜いた己を恥じているか。これより先は身を慎み、騎士道の本分を取り戻すよう努めるゆえ、此度の件を流して欲しい、と。
店の者たちは呆気に取られていた。大怪我をした直後だったため、思考が働かなかったのかもしれない。代わりに騎士を責め立てたのは、怒り納まりやらぬロウエンだった。
無力な娘に剣を突き付け、冷えた目で見下ろしていた男の突然の変心。素直に信じろというのが無理な話だ。そこでカミューは、店までの道中に練った札を切らざるを得なかった。
この白騎士とは共通の知人がいる、と。
もしカミューがその人物に今回の件を囁けば、騎士は芳しからぬ立場に陥りかねない。故に、店主たちの寛容に縋らねばならず、こうして恥を忍んで戻ってきたのだと。
保身のための陳謝と知って、かろうじてロウエンの憤りは鎮まった。心から悔いているというよりは、よほど真実味があったからだろう。
「共通の知人がいる」という説は、同時にカミューと騎士隊長が顔見知りであったことへの理由にもなった。
「……それで、その「知人」は誰ということにしたのだ?」
白騎士隊長の問いにカミューは微笑んだ。
「彼女たちはわたしが傭兵を生業にしてきたと知っています。ですから、前に仕事絡みで知り合った御方、とだけ言いました。あなたとはその人物の家で顔を合わせたことにしてあります」
「あの御節介な連中が、よくそれで納得したな」
「こうした街で商いをしている人間の習性ですね。「仕事」に関しての詮索は禁忌であるという意識が染み付いている」
「成程、策士め」
くつくつと含み笑って騎士は再び建物を睨んだ。
「勝ち誇っているが良い、それだけ報復の旨味も増すというものだ」
拳を握り、嗜虐に打ち震えながら紡がれる呪詛。
「澄まし顔の女将やロウエンとかいう女、そしてあの淫売。わたしを敵に回した虫螻の末路を、この区の連中すべてに思い知らせてやる」
不意に男は暗い瞳を光らせた。
「そうだ、貴様に始末させるというのも一興だな。信じ切っている貴様に刃を向けられたら……そのときは女どもめ、どういう顔をするだろう」
当てられた視線の中、カミューは艶然と微笑んだ。
「……レディを刃に掛けよと仰せですか。報酬は弾んでいただけるのでしょうね?」
「望みのままだ。せいぜい尻尾を振って、よりたっぷりと信頼を勝ち取っておけ」
用件は済んだ、とばかりに騎士は背を向けた。上着の襟を引き上げて顔を埋めると、足早に歩み去って行く。
程なく闇に溶けた男の残像を見据えたまま、カミューは微かに唇を上げた。
自身の痛みに酔うあまり、失念しかけていた。
まだ、すべきことが残っている。
恩ある者、力なき者のために、しておかねばならないことが。
「おまえなら、「騎士のつとめ」とでも言うのかな……」
殺すためでなく、護るため。
かつて剣の師ゲオルグが幾度も口にした言葉が、漸く胸に落ちてくる。拒み、退けようとした教えに温かく包まれる一瞬、琥珀の瞳は誇らかに輝いた。
果たすよ、と小さく呟く。
騎士の名は持たぬけれど───
おまえに恥じぬ己であった証に、わたしは為すべきつとめを果たす。
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