心ばかりを置き去りにして、奔流の如く時は過ぎ、即位の日まで一週を切った。
数日来、マイクロトフは、暇を見付けては鍛錬場で剣を振るうようになっていた。ここまで来ると、少し前までのように騎士然として街の警邏に出向くのは難しい。自らが城を出れば、それだけ周囲の負担が増すと分かるだけに、ようよう叶った「騎士としての生活」にも、一先ず終わりを告げねばならなかったのだ。
許されるものなら、日がな街を巡り巡っていたかった。
もしかしたら、何処か往来の角で想い人と鉢合わすのではないか。たとえ彼が命を奪うために現れるのだとしても、今いちど会えたなら、今度こそ離さず留め置くのに───
そんな切ない願望も、終に実現せぬまま露と消えたのである。
カミューとの間に聳え立つ壁を壊すため、今のマイクロトフに出来ることはもう何もない。精神誠意を尽くしてくれている部下を信じて待つしかない。
ただ祈りながら待つ日々が、こんなにも長くつらいとは思いも寄らず、今ひとつ、皇王制廃止という懸案を抱えていなければ、いっそ焦燥に押し潰されていたかもしれない。
未来を考えている間だけは離別の痛みを忘れられた。マイクロトフが描く数年先のマチルダ、そこには騎士団衣を纏った華やかなる青年の姿が在ったから。
その横にはマイクロトフ自身が、周囲に信頼する騎士たちが居並び、微笑み合っていたから───
それでも、ふとした拍子に心が揺れる。そんなときには剣を握って鍛錬場に立った。かつてマチルダの基盤を築いた大剣から力を呼び込もうとするかのような、静かな戦いであった。
こうした皇子の様子を、即位を間近に控えるがゆえの不安定と取ったのか、手隙の騎士が鍛錬相手を申し出るようになり──無論、時期が時期だけに真剣を使う訳にはいかなかったが──マイクロトフはありがたくこれを受けることにしたのだった。
今宵も、夕食前の僅かな時間を惜しんでマイクロトフは鍛錬に臨んだ。立ち合いの相手を勤めるのは、青騎士団の第七部隊副官である。互いに一礼した後、間合いを広げていく二人を、従者フリード・Y、そしてゲオルグ・プライムが鍛錬場の端から見守っていた。
初め息を潜めていたマイクロトフが、剣の握りを変えるなり一気に攻撃に出る様に、ゲオルグがポツと呟いた。
「本当に良い腕だな、あの皇子は」
たちまち従者は顔を輝かせる。ええ、と応じた声音は我が事のように誇らしげだ。
「学問やら責務の合間に積まれた鍛錬で、あれだけの剣腕……、この先、殿下が騎士の皆様と同等の訓練を受けられたら、どれほどの剣士におなりかと、わたくし、少し恐ろしい気もするほどです」
それはゲオルグも認めざるを得なかった。たとえ模擬刀であっても、当たればまるで無傷とはいかない。このため、騎士には無意識の遠慮がはたらくだろうと最初のうちこそ考えていた。
けれど実際に対戦が始まると、やや認識は改まった。天賦の才、正にそんな言葉が相応しい。歴戦の勇たるゲオルグにして、マイクロトフは稀有な剣士としか言いようがないのである。
真っ直ぐで裏がない、どちらかと言えば読まれ易い剣筋ではあるけれど、それを上回る力がマイクロトフには存在した。手心を加えるどころか、騎士は防戦一辺倒を余儀なくされ、ひたすら後退を続けているのだ。
「正直、今の殿下は騎士隊長位を与る皆様に匹敵する力を持っておいでではないかと思われます」
再びの従者の意見に、かもしれない、とゲオルグは心中で同意した。尤も、マイクロトフの剣は実戦によって磨かれたものではない。そういう意味では、経験に富んだ上位騎士隊長には、まだまだ及ばないかもしれないが。
「王になっても名を残しただろうが、剣士としてはそれ以上になるかもしれんな」
賛辞を与えながら、だがゲオルグは微かに眉を寄せている。気付いたフリード・Yが小首を傾げた。
「ゲオルグ殿?」
「いや……」
一瞬だけ口篭って、彼は腕を組んで息を吐いた。
「こうして何度か皇子の剣を見た。おまえさんが留守にしている間、魔物相手の実戦にも立ち合った。良い腕だ、しかし今日のは少々いただけない」
我武者羅にも映るマイクロトフの打ち込みの苛烈に目を当てたまま、厳しい調子が続く。
「良くも悪くも正直過ぎるな、あの皇子は。心の乱れがそのまま剣筋に出ている」
そこまで見取ることが出来ずに瞬く従者を残して、ゲオルグは立ち合いに割って入った。マイクロトフの決めの一閃を自剣の鞘で止め、終了を宣言する。
続いて息を切らせている青騎士に向き直り、軽く犒いの言葉を掛けると、騎士は粛として二人に礼を払って鍛錬場から出て行った。どうやら彼も、皇子の徒事ならぬ気配を感じ取っていたようである。
騎士を見送った後、ゲオルグはマイクロトフを諌めた。
「気持ちの均衡を保つために剣を振るのが悪いとは言わん。だがな、皇子。ああも荒れた剣では、幾ら打ち合ったところで逆効果だ。ただでさえ相手は、おまえを傷つけぬよう心掛けねばならず、最初から不利を負っているというのに」
対戦相手同様、息を乱したマイクロトフが、見る間に大きな体躯を縮ませた。
どんなに無茶な打ち込みを見舞っても、騎士は防御に努めるのみで、決して報復めいた攻撃に転じようとはしない。そのため、いつしか自制を失い、力に酔い痴れていたのに気付かされたのだ。
「……申し訳ありません」
素直に非を受け入れ、悄然と項垂れながら唇を噛む。見詰めるゲオルグの眼差しが和らぎ、穏やかな声が問うた。
「どうした、何か気になることでもあるのか」
どう説こうかとマイクロトフが思案する間に歩み寄った若者が、悩める主君とゲオルグを見比べた後、おずおずと口を開く。
「……お戻りが遅いのを気にしておられるのです」
聞くなりゲオルグは眉を寄せた。
「待つのが苦手な性分なのは分からないでもないが、気にしたところでどうなるものでもあるまい。グリンヒルに赴いた騎士連中が抱えた困難は承知しているだろうに」
「あ、いえ、そうではなく……侍医長のお嬢様の方です、ゲオルグ殿」
ゲオルグは虚を衝かれた面持ちで瞬いた。少し考えて、ああ、と呟く。
「……あの青い騎士隊長の兄さんか」
亡き侍医長の娘に話を聞くため、嫁ぎ先の村へ独り向かった青騎士団・第一隊長。距離だけを鑑みれば、疾うに戻ってきても良い頃なのに、街道の村で別れたきり何の連絡もない。
娘に会えずに時間を取られているだけなら良いが、道中で魔物の襲撃でも受けたのではないか───今朝方からマイクロトフは、そんな懸念を従者に零していたのだった。
説明を聞いたゲオルグは、やれやれと嘆息した。
「図太そうに見えて、妙なところで繊細な気遣いのはたらく男だな」
「……まったくでございますな」
不意に割り込んだ声に三者が向き直ると、何時の間にやって来たのか、青騎士団副長が立っていた。
「斯様に案じられたと知れば、さぞや憤慨するでありましょう。あの者は、わたしなどを遥かに上回る、青騎士団随一の剣才を誇る男ですゆえ……。つとめの途中で、魔物の襲撃如きに命を落とすような迂闊は犯しませぬ」
冗談半分、本気半分といった口調。彼は笑み混じりに続けた。
「侍医長の娘御が他所に居を移したか何かで、更に追跡を続けていると考えていただいた方が宜しいかと」
「そうだな、分かっている。いや、分かっているつもりなのだが……」
マイクロトフも笑もうとした。しかしそれは硬く強張ったものに終わった。
カミューに去られて、改めて思い知らされたのだ。心許した人間が目の前から姿を消す───その、如何ともし難い打撃と、遅れて広がる空虚を。
もう二度と、あのような思いはしたくない。誰一人として失いたくない。そんな切なる願望が、無用なまでの屈託を掻き立ててしまうのである。
言葉にならなかった皇子の胸中を察して、青騎士団副長は語調を変えた。
「……それはさて置き、幾つか御報告したい旨がございます。場所を移しませぬか?」
「でしたらわたくし、食事の手配をして参ります」
間髪入れずに応じて駆け出したフリード・Yをぽかんと見送り、不意にゲオルグが笑い出した。
「まったくもって従者の鑑だ、大事なことを知っている」
そうして彼は、見上げるマイクロトフの肩を親愛たっぷりに叩いたのだった。
「腹が減ると、思考が暗くなるものだ。憂いているより、図太く構えている方が似合っているぞ、騎士団長」
並んだ料理の皿を見詰め、フリード・Yはひっそりと息をついた。
ほんの少し前まで、皇子の食事は寂しいものだった。極稀に宰相グランマイヤーが同席する他は、相伴に与るのはフリード・Yひとりだったのだから。
そこにカミューが加わり、騎士が加わった。初めのうちこそ不可欠だった毒見の作業も、青・赤騎士団内に皇子の敵はいないとカミューが言い残したあたりからか、自然と行われなくなっていった。
今も、皇子の食事を運ぼうとしているのに気付いた数人の騎士が手伝いを申し出てくれた。そんな彼らを疑うことなく感謝を述べられる今の自分がフリード・Yは嬉しかったし、こうしてマイクロトフが自分以外の人間と──たとえ話題は穏やかならぬものであっても──語り合いながら食事を取るようになった点にも、寂しさ混じりの満足を覚えていた。
「早速ですが、御報告致します。ああ、マイクロトフ様……どうぞ召し上がりながらお聞きください」
前置きを受けて急いで皿から手を離した皇子に苦笑しながら副長が言う。
「グリンヒルに赴いた赤騎士団の部隊より、早馬が着きました」
「ほ、本当ですか?!」
食器を取り落としそうになったフリード・Yに、すまなそうな一瞥が注いだ。
「いや、フリード殿……そちらではなく、グランマイヤー様に同行した第八部隊騎士からの伝令なのだよ」
もっとも、と小声で付け加える。
「知らせを聞いたときには、わたしも同じ気持ちだったが」
伝令は、特に指示がない限り、所属する騎士団の上位者の許へ出頭するのが常だ。この騎士も例に洩れず、赤騎士団副長との対面を求めたが、生憎と不在であった。そこで騎士は、報告の内容を鑑みて、青騎士団副長の執務室へと赴いたのだった。
指揮系統の交錯を手短に説かれ、マイクロトフは眉を寄せた。現在、赤・青両騎士団の位階者の行動はすべて把握しているつもりだ。今日、赤騎士団副長が城に居ないと判断されるような理由が思い当たらなかったのである。
「何か急を要する事態でもあったのだろうか……」
これにはゲオルグがさらりと応じた。
「ああ……、多分そいつはおれが頼んだ野暮用だろう」
不思議そうに見詰める三者に、肩を竦めながら言い添える。
「少々調べ物を、……な」
「調べ物とはいったい何を?」
皇子の率直な問い掛けには無言の微笑みのみが返った。フリード・Yが不満そうに顔をしかめ、主人の意を代弁するかのように乗り出した。
「ゲオルグ殿、そんな秘密主義者みたいな……。気になります、わたくしたちにも教えてください」
「そう言うな。空振りに終わる場合を視野に入れ、余計な心労を抱かせまいとする気遣いだぞ。実際、皇子は思ったよりも繊細な質らしいし。目処がついたら話すから、今は流しておけ」
闘技場での一幕を引き合いに出されては退くしかない。主従は不承不承といった風情で黙り込んだ。平然を貫くゲオルグを見遣った後、青騎士団副長は改めて背を正した。
「では、伝令からの報告に移らせていただきましょう。第一に、ワイズメル公主殿の御葬儀は滞りなく執り行われたとのことです」
盟友国の君主という顔の裏で、忌まわしき陰謀の一翼を担っていた男。にも拘らず、副長がアレク・ワイズメルに敬称を用いたのは「死者に遺恨を残すなかれ」といった騎士の教義の遵守であった。
「テレーズ殿の御様子はどんなだったろうか」
半ば独言じみたマイクロトフの問い掛けに、すかさず副長は答える。
「御立派に喪主をつとめておいでだったという話です。テレーズ様の気丈かつ聡明な御人柄には、列席者一同、たいそう感じ入っていたようで」
それから、彼はやや声を潜めた。
「実はマイクロトフ様……、葬儀に参列した各国の代表は、即位式にお招きした方々と重なっております。つまりですな、即位式参席のため自国を出立する直前にワイズメル公死去の報を受け、先ずグリンヒルに向かったとでも申しましょうか……」
成程な、とゲオルグが首を捻る。
「トゥーリバー、サウスウィンドウ、ティント……グリンヒル以南の国には通り道だからな」
「はい。新国主の即位と公主の葬儀、斯様な重大事が連続するのは異例です。四年ぶりに即位するマチルダの王と誼を通じておきたい、公主を喪ったグリンヒルに対しても礼を失す訳にはいかない。然れど、この期に及んで国主級の要人がマチルダとグリンヒル、二箇所に赴くというのは難しく……、苦慮した末、各国代表は───」
「式のハシゴ、か」
ははあ、とゲオルグが先読みすると、副長は神妙に頷いた。
「弔事の穢れを落とした後、グランマイヤー様の御帰還に合わせてマチルダ入りする、という方向に決したとのことです。マイクロトフ様には事後承諾という形になってしまいましたゆえ、グランマイヤー様から陳謝の文をお預かりしております」
言いながら差し出された書状を手に、マイクロトフは堪らず相好を緩めた。
事後承諾も何も、他に選択肢はない。デュナン湖周辺諸国でも、風習上は弔事が優先される。けれど四年も皇王不在だったマチルダには、このうえ即位式を先延ばしにすることは出来ない。かと言って、国賓待遇で招いた参席者が揃って欠けるようでは国威に傷がつく。
これらすべてを兼ね合わせて、各国の代表たちは最善と思われる道を考案してくれたのだ。そしてその意向を、信頼する宰相が受諾したのだから、異があろう筈はなかった。
ふと、フリード・Yが口を挟む。
「ええと……国賓の皆様は全員でマチルダ入りなさると仰いましたか?」
「トラン共和国のみ、例外となるがね。彼の国にはワイズメル公の葬儀の知らせが間に合わなかったらしい。他は、揃ってグリンヒルを出立される」
穏やかに答えてから、副長は続けた。
「何れの国々も個別に友好条約を結び合っているものの、こうして複数の国主級要人が一堂に介す場はそうそうない。相互理解を深める意味でも、行動を共にするというのは良い機会だよ、フリード殿」
「ええ、それはそのように思いますが」
同意しつつ、若い顔は気遣わしげだ。
「大丈夫でしょうか? その……、国を背負う方々が\まって移動なさるなんて、危険はないのでしょうか」
そちらか、と言わんばかりに青騎士団副長は目を細めた。
「賓客の方々、御一同ともに護衛を随従させておいでだ。そこへグランマイヤー様に同行した赤騎士団の数小隊も加わる。なまじの暴漢では返り討ちに遭うのが関の山というものだよ」
マイクロトフも苦笑気味に補足する。
「ミューズのアナベル代表など、一大隊もの護衛に伴われておられる筈だからな」
「……その件なのですが、マイクロトフ様。外交特使フィッチャー殿に約束しておられましたな、護衛のミューズ兵はロックアックス外に待機させる、代わりに騎士を護衛に充てがう、と」
ああ、と重々しく頷いて眉を寄せるマイクロトフだ。
首府都に大量の他国兵を入れれば、無用な混乱が起きかねない。けれど、稀代の指導者アナベルが万が一にも害されぬようにと細心を払うミューズの意向も理解出来る。
故にマイクロトフは特使に誓った。付き従う護衛と同じだけの武力、同じ誠意をアナベルに捧げ、彼女の安全を保証する、と。
その後、青騎士団は白騎士団に代わって即位式典の警備を担当することになった。このため、赤騎士団の方から人員を捻出して貰う方向で一応は決しているけれど、数々の問題を抱える今、負担であるのは否めない。
知らず嘆息した皇子を見詰めていた青騎士団副長が、くすりと笑みながら小声で言った。
「アナベル代表殿は噂に違わぬ傑物……とでも申しましょうか、肝の座った御方だったようですぞ。ジェス副代表の意向を容れるフリをなさったのか、国許をお出になる際には一大隊を伴っておられたものの、グリンヒルに向かう途中で大半を返してしまわれたそうです」
「何?」
これにはマイクロトフもフリード・Yも呆気に取られて瞬くしかない。副長の笑みはいっそう大きくなる。
「何でも、「こんな大所帯で旅していたら逆に目を引く、代表ひとりの護りに兵を割くより、ハイランドへの警戒に回してこそミューズ国家に対する忠誠だ」と一喝なさったそうな」
ぷっと吹き出し、だがすぐにゲオルグは真面目顔で付け加えた。
「それに今ひとつ、他国との均衡にも配慮したのだろうな。ミューズ国軍の大隊と言えば、かなりの数になる。兵をゾロゾロ引き連れて、示威行為と取られるのは厄介だ、とも考えたに違いない」
はい、と青騎士団副長も笑みを納めて同意した。
「伝令騎士の話では、各国要人の護衛としてグリンヒル入りした人員は、それぞれ十数名あまり……、距離的に最も遠く、山岳地を経由するティントのグスタフ国王陛下でさえ五十も連れておいでにならなかったらしいのです。一大隊同行では、さぞ悪目立ちしたでしょう。アナベル殿は先見の明がおありですな」
それから彼はマイクロトフに目を向けた。
「……という訳で、マイクロトフ様。御一同は、此度の伝令に一日遅れて───既にグリンヒルを出立済と思われます。大人数ゆえ、移動には時が掛かります。第八隊長の見立てでは、到着は即位式前日になるのではないかと。グランマイヤー様が皆様と相談なさった旨、その書状にも記されておりましょうが、予定されていた晩餐会は延期を希望する、と……」
晩餐会、と首を捻ったゲオルグにはフリード・Yが囁いた。
「即位式の前夜に、国賓の皆様と、式にもお招きしている著名人や識者の方々を交えた会食が予定されていたのです」
マイクロトフは宰相からの文を開いてみた。几帳面な文字でしたためられた文面に一通り目を通した後、「分かった」と呟く。
「各国の代表は、式の後もロックアックスに留まる心積もりでおられるようだ。滞在予定に差はありそうだが、式の翌日なら揃っておいでだろう。そのように手配出来るか?」
「はい、マイクロトフ様。急ぎマチルダ内の出席予定者にも知らせを送りましょう」
実直に拝命の礼を取り、青騎士団副長は言い添えた。
「それから、これはアナベル殿からの伝言です。「御即位の祝賀に進呈する馬一頭、護衛兵を返した際に、そちらを経由して先にお届けすべきだったのに、うっかりグリンヒルまで伴ってしまった。念入りに喪を清めた上で帯同するので、申し訳ないが、今すこしお待ちいただきたい」───伝令騎士が出立する直前に、こっそり囁かれたそうです」
「豪胆なだけでなく、細やかな御人柄なのだな……」
カミューが残した馬に寄り添い、厩舎を出たがらない愛馬の代わりとなる駿馬を心待ちにしていた。すべては騎士として、つとめに臨むために。
アナベルがわざわざ一言入れてくれたのは、「マチルダの皇子は頻繁に馬を使う」と聞き及んでいたからだろう。警邏外出の機会を失ったマイクロトフには、この一月弱のはたらきを認められたようで、胸に染みる一節だった。
「到着時には礼を尽くしてお迎えせねばな。街の入り手までおれも出向きたいのだが……」
やはり騎士の負担になるだろうかと気遣いながら問うと、副長はにっこりした。
「皇太子殿下として、そして青騎士団長としても、マイクロトフ様が足を運ばれて方々をお迎えするのは、我がマチルダが各国に贈る最大の誠意の証となりましょう」
それに、とゲオルグを一瞥しながらの言が続く。
「騎士のみならず、心強い味方も付いておられますゆえ。懸念に過ぎるのは、マイクロトフ様らしさの損失かと」
振られたゲオルグが笑いながら片手を挙げた。
「……契約の範囲内だな。せいぜい励もう」
嬉しげに破顔するマイクロトフを見遣ったフリード・Yが、そのとき唐突に気付いた。主君の手放しの喜びよう、そこに仄かな期待がちらついている、と。
複数名からなる国賓の到来にロックアックスの街は沸くだろう。誠実なるマチルダ皇太子が一行の出迎えに臨むだろうことは、誰にとっても難しい想像ではない。
だからマイクロトフは、彼の青年が現れるのではないかと期待しているのだ。各国要人に誠意を示したいという意識の裏側で───おそらく自身も、そうとは気付かぬままに。
どうか、とフリード・Yは胸中で唱えていた。
どうか、すべてが明らかになるように。
誤解による宿怨が溶け、マイクロトフの横に再びカミューが並ぶように。
そしてこの真っ直ぐな皇子に、彼の人が在ったときと同じ、力強き笑みが溢れるように───
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