最後の王・93


湯気の昇る椀から顔を上げ、ロウエンは長い溜め息をついた。
「このスープ、効くなあ。頭がすっきりしてきたよ」
小皿に料理を切り分けていたレオナが、これまた嘆息混じりに言う。
「二日酔いのくせに、よく食べられるもんだねえ」
ロウエンは既に数個の空揚げを流し込んでいる。挙げ句、メインとなる料理が分けられるのを待って、自身の前に皿を迎える場所を空けようとしていた。
小声の指摘を聞き止め、ロウエンは胃のあたりを擦った。
「頭が重かろうが、腹は減るんだよ、姐貴。それにさ、この空揚げ、意外とさっぱりしてるし」
レオナは、どうしようもないと言いたげにと首を振った。
妹分の意見も分かる。卓に積まれた空揚げは、店で出してきた品とはいっぷう変わった味だ。例のグラスランド産の香草を刻んで塗してあるが、それが程良い刺激となっている上に、油分を感じさせない効用も担っているらしい。
「……肝心な作り方は覚えたんだろうね?」
問うてみると、ロウエンは小さく苦笑した。
「さっきまで頭が呆けてたから、ちょっと……」
そこへ最後の皿が運ばれてきた。トマトを基調とした何気ないサラダだが、盛り付けが実に華やかで、女たちの目は輝いた。
微笑みながらカミューが言う。
「調理場に立っているのもお辛そうでしたからね、後で覚書を記しておきましょう」
「……この酔い醒ましのスープの作り方も頼むね」
椅子を引く青年へと、ロウエンがちらりと感謝の目を向けた。すると彼は、困ったように唇を綻ばせた。
「レディが翌日に残るまで酒を呷るのはあまり感心しませんが……」
「レディ、って……カミュー、あんたね、おれに気障っぽい台詞吐くには十年早いぜ。何なら飲み比べしてみるかい?」
「酒代をロウエン殿が持ってくださるなら。でも、これでも強い方ですから、負けない自信はありますよ」
「言ったな? ようし、それじゃ勝負しようぜ。……この酒が完全に抜けたらね」
二人が言い合うのをよそに、ひとり主料理に取り掛かったレオナがポツと言う。
「これは……キャベツの芯を繰り抜いたのかい?」
「はい。挽いた鶏肉と刻み野菜を詰めて、スープで炊いてみました」
「上品な味だ、ワインが欲しくなるね。それにこっちのサラダも……綺麗だ、女の子が喜びそうじゃないか」
「ホント、あんたの感覚って、男にしておくのが惜しいほど洒落てるよ。これも品書きに追加決定かね、姐貴?」
そうだね、と相槌を打ちつつ、レオナはそっと青年を盗み見た。
口元には笑みを絶やさず、今までにないほど口調は明るい。けれど頬は仄白く、眼差しは気掛かりなほど静か過ぎて、内に何を思っているのか量り知れない。
昨夜、抱えていた秘め事を洩らして、喘ぐように肩を震わせていたカミュー。復讐心と愛情の狭間に立たされた苦悩はレオナにも想像出来ないではない。そんな葛藤とどう戦ったのか、一夜を経て姿を見せた彼は、これまでとは何かが違った。
いつものように店の卓に書物を広げて座して、昼食を作る二人にそれとなく注意を払っていたところ、相変わらず丁重な物腰ながら、この日、カミューの調子には砕けた親愛が感じられた。
昨夜のロウエンの武勇伝──客との飲み比べ──に揶揄めいた感想を口にしたり、自らの好みの酒を挙げてみたり。前はロウエンに軽口を浴びせられると困惑する素振りが見られたのに、同様の軽口で受け流す場面も多々あった。
もともとロウエンは開けっ広げな性格ゆえに人と馴染むのが早い。カミューも彼女の勢いに巻き込まれてはいたが、傍目で見るレオナには、最後の線で垣根のようなものが感じられていたものだ。
なのに今日はそれがない。遠慮とか負い目とか、そんなふうに呼ばれる何かが薄らいだかの如く、カミューの態度や物言いは、いっそ不自然なまでに明るかった。
不意にロウエンが咀嚼を止めてカミューを見遣る。
「何だよ、作った本人の食が進んでないじゃないか」
はあ、と頷いて彼は返した。
「起き抜けはあまり入らなくて……」
「そういやあんた、寝起きが悪そうだよな。下りてきて暫くはボーッとしてるし」
「……そこそこ真面目に働いているつもりですが」
「それは認める。特に今日は、えらく張り切ってくれたよな。鍋に向かう気合いってヤツを感じたぜ」
他愛ない会話。笑いながら聞いていても良い筈なのに、何故か不安を覚える。レオナは、黒く変じた前髪の下に見え隠れする琥珀の瞳を窺い見ながら静かに尋ねた。
「カミュー、あんた……寝てないのかい? それで食欲がないんじゃないの」
青年はすぐに淡く笑んだ。
「いいえ。ただ……眠りが浅かったのでしょうか、今になって少し眠気が……」
「太陽が真上に出てるときに眠いなんて、あんたもこの区の生活に染まってきてるなあ。だったら寝てきなよ、起きたら食べられるように、ちゃんと残しておいてやるからさ」
ロウエンに言われて、カミューは少し考えた。既に手を付けていたサラダのみ平らげ、それからレオナに向き直り、優美に一礼する。
「そうさせていただいても構いませんか?」
「良いよ、勿論。ゆっくりお休み」
「店を開ける前に起こしていただけますか、掃除を手伝わせてください」
これにはレオナも笑みを零した。
「あんたはまったく……。良いから、お行きよ。ああ……、皿はそのまま置いておいて。洗い物くらいしないと、女将としての立場がないからね」
サラダの皿を取り上げようとしていたのを制すると、一瞬だけ迷うように瞬いて、カミューは今いちど頭を下げてから階段へと向かった。軽い足音が上階へと去って行く。動きを見るに、体調はかなり改善されているようだとレオナは思った。
二階の扉が閉まる音を待って、ロウエンが空揚げを頬張りながら呟いた。
「……何か、妙な感じ」
「え?」
「カミューさ、変に明るいと思わない?」
ずっと感じていた違和感を正面から突き付けられて、レオナは目を瞠る。
「あんたも気付いたのかい?」
そりゃあね、と唇についた油を拳で拭いながら頷くロウエンだ。
「姐貴、昨夜あいつの部屋に居ただろ。何の話をしてたの?」
泥酔していたが、そこは覚えていたのかと息をついて答える。
「何ってほどの話はしてないよ、……身体の具合とか、そんな程度」
───あの件について、洩らすつもりはなかった。妹分に隠し事をするのは初めてで、やや気が咎めないでもないが、ロウエンの性分を考えると黙す方が無難な気がする。
レオナ自身、あれこれと意見せずにはいられなかったのだ。輪を掛けて面倒見の良いロウエンのこと、知れば黙っていないだろう。
カミューには考える時間が必要だ。その模索を、これ以上侵してはならないとレオナは考えたのである。
「ふぅん……。昨日は身の上話をしてくれたし、それで少し気が楽になった、って感じなのかな」
ロウエンは頬杖をついて、階上を見遣った。
「薄暗けりゃ気になるし、明るけりゃ気になるし、色男ってのは罪だよなあ。まあ、暗いよりは明るい方が良いんだろうけど……」
そうなのだろうか───レオナは目を細めて料理を啄んだ。
吹っ切れたような朗らかさが引っ掛かる。
一晩考えて、何らかの結論に達したのか。復讐よりも愛する人を選び、その人と共に未来を築こうと決めたゆえの明るさなら、心から祝福してやりたい。
だが、本当にそうなのだろうか。
カミューが見せている笑顔が、本心からのものなのだという確信が持てない。何かが欠けている、歪んでいるように思えてならないレオナなのである。
ともあれ、もう少し様子を見るしかないだろうと首を振り、ややあって昼食を終えた。片やロウエンは、二日酔いとは思えぬ量の料理を腹に納めて唸っている。少しでも腹を軽くするためか、彼女が率先して片付けに立ち上がったときだった。
大きな音を立てて店の扉が開いた。転げ込んできた娘が、床から悲痛な声を上げる。
「助けて、姐さん、ロウエン……!」
驚愕して束の間だけ固まったものの、相手が白騎士隊長に付き纏われている娘だと見取るなり、二人は慌てて駆け寄った。
「どうしたの!」
「ちょっとあんた……怪我してるのかよ!?」
娘の片袖にはべったりと鮮血がこびりついている。支え起こしたロウエンに、娘は小刻みに首を振った。
「あたしじゃない、あたしは……」
興奮のあまり上手く喋れないようだ。レオナはすぐに扉を施錠した。そのまま娘の横に膝を折り、宥めるように乱れ散った髪を撫でた。
「大丈夫、落ち着いて話してごらん。何があったんだい?」
声音の中の優しい励ましが効を奏したのか、喘ぐように息を切らしながら、切々とした声が語り出す。
「あいつが……、あの白騎士隊長が来たの。身請金を上乗せして言ったのに気付いたみたいで、旦那さんを責め立てて……旦那さんが認めた途端、剣を抜いて───」
二人は凍り付いた。唇を震わせてレオナが問う。
「斬った……のかい? この血は旦那の……?」
様相を思い出したのか、娘は激しく戦いて、支えるロウエンの腕にしがみついた。反応から、問い掛けへの答えは明らかだった。泣きじゃくりながら娘は続けた。
「兄さんたちに逃げろって言われて、それで店から出てきたの」
異変を知った娼館の用心棒たちは、次に騎士の意識が向かうと思しき娘を逃がそうと試みたのだろう。
「だけどあたし、逃げる場所なんて何処にも……。来ちゃいけないと思ったけど、あたし、ここしか……」
「良いんだよ。もう大丈夫だから、泣かないで。あたしの所為だ、あたしがあんな策を考えたから……」
「旦那が身請金を一桁多く言ったのは、ちょっと豪気すぎたかもな。けど姉貴、誰の所為でもないよ。騎士のくせに、私情で街の人間を斬るなんて、そいつがいかれてやがるんだ」
嫌悪も露わに吐き捨て、瘧のように戦慄く娘の背を擦りながら、ロウエンはレオナへと目を向けた。
「姐貴、どうする? 次に騎士が巡回に来るまで、まだ相当時間があるぜ」
「用心棒たちが白騎士を宥められるとは思えないし、のんびり巡回時間まで待っていられないね。ロウエン、あんた裏から出て、赤騎士か青騎士を引っ張ってきておくれ」
「わ、分かった。隣の区で捕まるかな?」
「……だと良いけど。とにかく探して」
「この娘も連れて行く?」
娘の足では、娼館からレオナの店まで、そこそこ時間が掛かる。しかし、用心棒たちが足止めをした訳だし、駆け込むところは見られていない筈だ。瞬時にレオナはそう思い巡らせた。
「あんた一人の方が速いよ、ここに隠しておいた方が良さそうだ。あたしは回復魔法の札を持って、旦那の方を見に行ってみる」
「危ないよ、まだ白騎士がいるかもしれないのに!」
ぎょっと目を瞠って止めるロウエンへの応えは毅然としたものであった。
「あたしの意見を要れた結果、こんな目に遭ったんだ。怪我しているなら放っておけない。用心するよ、あんたも気を付けて行くんだよ」
おう、と勇ましい掛け声を上らせてロウエンが厨房脇の扉へと駆け出し、片やレオナが娘を立たせて奥へと進ませようとした刹那、再び扉が鳴った。外から戸板を打つ激しい音が、三人の足をその場に縫い付ける。
幾度目かの殴打の後、扉は凄まじい勢いで蹴破られた。バタンと内側に倒れた板を踏み付けて入ってきたのは、醜悪に顔を歪ませた騎士である。レオナに抱えられながら相手を見定めた娘は、掠れた悲鳴を飲み込んだ。
「逃げられると思ったか、淫売めが」
日々顔を覗かせる赤騎士たちとは異なる色彩を纏う男。
だが、装束のみならず、本質も大きく異なっているのは瞭然だ。男には、レオナらが知る騎士が持つ品性も慈愛もなく、代わりに残忍な猛々しさだけが漲っている。剣は鞘に納められていたが、白い騎士装束には微量ながら返り血が飛んでいた。
一応は人目を気にしてか、白騎士は蹴破った扉を掴んで戸口に立て掛けた。真昼という時間帯が禍し、隙間に覗く往来に人の行き来はない。誰かが気付いて助けを呼んでくれる、そんな期待は出来そうになかった。
「……どうしてここが分かったのか、という顔だな」
白騎士は陰湿に含み笑った。
「店の男たちに聞いた。簡単なものだ、金で雇われた連中など、少し痛め付ければ容易く口を割る。貴様が最近この店によく足を運んでいると、懇切丁寧に教えてくれたぞ」
今にも崩れそうな娘を渾身の力で支えながら、レオナは気丈に問い質す。
「まさか、殺したんじゃないだろうね」
「殺す?」
白騎士は芝居がかった仕草で両手を広げて見せ、ふるふると肩を揺すった。
「あんな手応えのない連中、殺す価値もない。軽く遊んでやっただけだ」
「よくもそんな───」
裏口手前で足を進めていたロウエンが、包丁を片手に戻ろうとする。気付いたレオナが厳しく言った。
「行くんだよ、ロウエン」
「けど、姐貴!」
大急ぎで騎士を探して取って返しても、とても間に合わない。ロウエンには、狂気の縁に立っているような男の前にレオナたちを残したまま行くことはとても出来なかった。
遣り取りを聞いて、白騎士は僅かに首を傾げた。ははあ、と合点がいったふうに頷き、片頬だけで笑う。
「……思い出したぞ。女将、貴様……赤騎士団副長の情婦だな。成程、赤騎士を呼びに行こうとでも言うのか」
「誰が情婦だって?」
キリリとレオナは目を剥く。呼応するようにロウエンが怒鳴った。
「姐貴を侮辱したら、おれが許さないぜ! 男が皆、自分と同じだとでも思ってるのかよ? 副長さんはなあ、あんたがひっくり返って逆立ちしたって届かないくらい立派で高潔な人だよ! だいたい、あんたは何なのさ? 騎士が、護るべき街の人間に剣を向けるってのはどういう了見だい!」
「……護るべき街の民?」
激昂したロウエンの叫びなど聞こえぬふうで、鼻先で笑いながら男は首を振る。
「淫売宿の関係者など「民」の勘定には入らん。人をたばかり、法外な金を吸い上げようとする卑しい虫螻は」
その「虫螻」に散々世話になったくせに───喉元まで出掛かった言葉を、すんでのところでロウエンは飲み込んだ。騎士の左手がするりと鞘を撫でたからである。
「……まあ、わたしも些か愚かだった。呈示された額を鵜呑みにし掛けたからな。考えてみれば、そんな貧相な小娘に巨額の投資をする置き屋があろう筈もない」
「貧相って……てめえ、いい加減にしろよ!」
そこまで来てロウエンの忍耐は完全に絶ち切れた。小走りに店内を横切って男へと向かおうとする彼女に、娘が必死に飛び付いた。
「ロウエン、駄目!」
「許せねえんだよ、こういう奴は! 何を言っても良いと思いやがって!」
「駄目、やめて! 兄さんたちが三人も居て敵わなかったのよ、あたしなんかのために怪我しないで!」
白騎士は、ふっと息をついた。
「つくづく下品な女だ、貧相な淫売と良い勝負だな。まあ、良い。店主は金額を偽った詫びに、貴様をタダで譲ってくれるそうだ。来い」
全身でロウエンを押し留めていた娘がぴくりと動きを止める。そろそろと振り返り、騎士を見るや否や、涙を迫り上がらせた。
「だ、旦那さんが、あたしを……?」
「もう貴様はいらないと、それは快く応じてくれたぞ」
男の薄笑いから娘を向き直らせ、レオナは腕に抱え込んだ。
「快く? 力づくで承諾させたんだろう? この娘を連れて行ってごらん、騎士団に訴える。区の人間すべての名で、あんたを訴えてやるからね。この娘や旦那にした仕打ちが公になれば、白騎士隊長だろうが、ただじゃ済まない筈だよ」
「やれば良い」
白騎士は一歩足を踏み出した。
「虫螻共がどれほど集まって騒ごうが、痛くも痒くもない。どうせなら、今ここに赤騎士団員でも連れて来てはどうだ? わたしは、全マチルダ騎士の頂点におられる白騎士団長ゴルドー様から格別に目を掛けていただいているのだ。下位序列の騎士団員を呼んだところで無意味だと、存分に味わえるぞ」
それより、とロウエンの握った包丁を一瞥する。
「武器を持っているなら、女だからと容赦する必要はなくなるな。さっさと来い、淫売め。手間を掛けさせれば女将たちがどうなるか、頭の悪い貴様でも分かるだろう」
聞くなり、打たれたように娘は怯んだ。助けを求めたばかりに、レオナらまでもが危地に陥っているのを改めて思い知らされたのだ。
彼女はそろそろと腕を突っ張り、レオナから身を離した。俯き、涙混じりの声で言う。
「ありがとうね、二人とも……何度も迷惑を掛けて、本当にごめんなさい」
「冗談じゃないよ、行っちゃ駄目!」
両側から止める二人を振り払い、今にも卒倒しそうな顔色で娘は歩を進めた。だが、男の間合いに入った途端、頬を張り飛ばされて、よろめいたところを髪を掴んで引き倒された。
そのまま騎士はすらりと抜刀し、憎々しげに吐き捨てた。
「散々遊んでやった恩も忘れて、よくも馬鹿にしてくれたものだ。貴様には身の程というものを思い知らせてやろう」
「やめて! 身請金のことはあたしが入れ知恵したんだよ、その娘は悪くないんだから!」
娘の顔に突き付けられた剣先に、堪らずレオナが叫んだ。じろりと彼女を睨んだ男は、だがすぐに娘に視線を戻した。
「……そうか。ならば、この店で仕置きをくれてやるのも一興だな。まあ、命だけは助けてやる。貴様のような売女には何の未練もない。二目と見られぬ顔で、この先、惨めに生きていくが良い」
もはや悲鳴も上げられず、大きく目を見開いたまま、自らを捕えた悪夢が牙を剥く瞬間を待つばかりの娘であったが。

 

「───離しなさい」
店内に穏やかな声が響いた。
コツンと階段を踏み締める音が続き、騎士は刃を止めて顔を上げた。
「剣を納めて、手を離しなさい」
上階から二つ折れして店側へと伸びる階段。その、最後の数段を残したところに立ち尽くす美貌の青年。
全員が反射のように目を向けていたが、カミューを知るレオナやロウエン、そして娼婦の娘さえもが息を詰めずにはいられなかった。細身の肢体には、未だかつて見たことのない、薄赤い輝きのようなものが纏わり付いていたからである。
それが紋章の熱を伴う殺気であるとまでは思い至らない。ただただ、覚えのない冷たい気配に呑まれ、青年を取り巻く紅の不穏を凝視するしかない。
独りレオナだけは、あれほど騎士に姿を晒すのを避けていたカミューが自ら現れたという別なる驚きに打たれてもいた。
たとえ髪色を変えたところで、ここまで真正面に向き合えば意味がない。まして彼が殺した仇は、男と同じ白騎士団員だという話なのに───。
一方、騎士は闘気に対して顕著に反応した。娘に向けていた剣先を青年へと移して呼気を殺す。剣を佩いているのを素早く見定め、再び青年の顔に目を戻したときだ。微かに表情が変わった。
「貴様……?」
大急ぎで記憶を探っているらしい様子を見るなり、形良い唇が綻んだ。
「……わたしを御存知ですか。ならば話は早そうですね」
予感はあった。
巨大な石城で初めて白騎士団長と対面した日、傍らに在った顔───影のようにゴルドーに従っていた白騎士。
ゴルドーの側近、それは皇子暗殺の加担者と同義である。だとしたら、男がカミューの「立ち位置」を知っていても不思議はない。
「そうだ、貴様は……だが、何故こんなところに……」
独言めいた調子で呟く騎士に向けて、三たび彼は命じた。
「そのレディから離れなさい。弱きものに礼を尽くす、それが騎士の教えではないのですか」
「レディ……だと?」
予期せぬ闖入者に呆け気味だった男が我に返って瞬く。
「この女を言っているのか? 男と見れば誰にでも媚び諂う淫売が、「レディ」だと?」
「……やめて」
鷲掴まれた髪を乱暴に揺らされ、娘は啜り泣きを洩らした。
「金さえ払えば何でもさせる、何処でも喜んで足を開く、男なしでは生きられぬ、こんな卑しい雌犬───」
ピシリ、と騎士の眼前で小さな火花が弾けた。何が起きたか分からず、騎士は呆気に取られて言葉を切った。カミューは表情ひとつ変えずに静かに呟く。
「……あなたは同じ匂いがする」

 

───抵抗も出来ぬ弱き村人を無慈悲に斬り殺した騎士たちと。

 

「わたしの「烈火」が嫌う匂いだ……」
身のうちの魔性が初めて爆発した瞬間にも似た、真紅の怒りがカミューを覆い尽くそうとしていた。
青年の周囲が赤く染まっているのは、今や誰の目にも見紛いようがない。騎士は知らず娘の髪を離し、次いでその掌にじっとりと汗が滲んでいるのに気付いた。
カミューは段上から男を見据えて低く言った。
「こんなところで力を使わせないでください。あなたも、わたしと話したいと思っておいでなのでは?」
「う……」
完全に気圧されて男は呻く。カミューは女たちに視線を向けた。
「レオナ殿、ロウエン殿。彼女を店に送り届けて、休ませて差し上げてください」
「でも……カミュー、あんた……」
「大丈夫、店を開ける刻限までには済ませます。行ってください」
艶やかなる青年の笑み。だがそれは、今までのように好ましいものではなく、さながら死を司る力が形を成したようにレオナには映った。
姐貴、と小声でロウエンが促す。
「旦那たちは怪我してるんだろ、急がないと手遅れになるかも……」
そうだ、と心中では同意しているのに声が出ない。カミューと白騎士、この二人を同じ場に留めてはならないような、そんな焦燥に苛まれてならないのだ。
はきとせぬレオナに焦れたロウエンは、騎士の足元に崩折れた娘を引き戻して、次いで据え付けの棚から回復魔法札を掻き集めた。
「姐貴!」
「あ、ああ……そうだね、立てるかい?」
ようよう意を決して娘の腕を取ったレオナを見届け、娘の今一方の腕を掴みつつカミューを振り仰いだロウエンが、初めて苦しげな顔を見せた。
「本当に大丈夫なんだろうね、カミュー?」
どこまで体調が戻っているのかを憂いながらの問い掛け。カミューは微笑む。途端に彼を包んでいた覇気が和らぎ、周囲を染めていた紅も薄れ、消えていった。
「……ええ、勿論。話し合って、引き取っていただくだけですから」
そうして白騎士へと戻した瞳には、当事者同士にしか分からぬ秘密の色が満ちていた。
脇を通り過ぎる女たちに、騎士は忌ま忌ましげな一瞥を投げたが、距離を取って見詰める青年に絡め取られたかのように身体は動かない。
立て掛けてあった扉をずらして往来へと踏み出す一瞬に、もう一度だけレオナは振り返った。ゆっくりと残った段を下り始めたカミューは、もはや彼女の知る優しげな青年ではなかった。穏やかさはそのままに、彼はすべてを一変させていたのだった。
後ろ髪を引かれる面持ちのレオナ、そして女たちが視界から消えるのを待って、カミューは白騎士隊長に会釈した。
「どうぞ、お掛けになってください。立ち話には長くなりそうですので」
だが騎士は動こうとしない。カミューは卓の一つの椅子を引き、腰を落ち着けた。優雅に片手を向かいの席に差し伸べ、ゆるゆると笑みを浮かべる。
「そう警戒なさらずとも……。同じ御方を主人に持つ仲ではありませんか」
すると騎士は片眉を上げた。やや力を抜き、剣を下げる。
「やはり貴様、ゴルドー様の……。髪を染めたな、咄嗟に分からなかったぞ。姿を偽り、こんなところに潜伏しているとは思いも寄らなかった。貴様には、ゴルドー様に代わって聞きたいことが山程ある」
「……でしょうね」
カミューはしどけない溜め息を洩らした。
「順を追って御説明申し上げます。それにしても良かった、ここでゴルドー様の側近にお会い出来るとは、わたしも思いませんでした。これでやっと道が開けます」
「どういう意味だ」
椅子の脇まで歩み寄ったものの、未だ警戒を消し切れぬのか、屹立したままの男に向けて、カミューは艶然と告げた。
「無論、契約履行への道ですとも。わたしが、皇太子暗殺のために雇われた刺客であるのをお忘れですか?」 

 

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うーむ、こんなところでも
マングースっぽいな、赤……。

 

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