最後の王・91


人々が闇の懐に抱かれて安息にたゆたう頃、欲と華やぎに彩られた世界も一日を終えようとしていた。
北側に設えられた窓の近くに小椅子を持ち寄り、目視出来ぬ彼方に鎮座する巨城を見遣っていたカミューは、階下の物音が途絶えたのに気付いて息をつく。
次いで、階段を上る密やかな足音が静まり返った屋内に響いた。廊下を挟んだ部屋に入ったレオナが、何故か再び階下へと下りて行く。少しして戻ってきた彼女は、忍びやかに部屋の扉を叩いた。廊下に灯りが洩れていたから、と微笑んだ女の手には小さな木箱が下げられていた。
「手はどう?」
「大丈夫です、すぐに水で冷やしましたし……利き手でもありませんから」
答えを予期していたようにレオナは苦笑する。
「火魔法を宿しているのに火傷したんじゃ、洒落にもならないよ。見せてごらん、薬を塗り直しておこうね」
回復魔法札を使っても良いが、どうせ「気を遣わないでください」で通すだろうし、そのあたりの遠慮深さには諦めがついたよ───レオナはそんな言いようで揶揄した。
命じられるまま、カミューは従順に場所を移す。寝台に腰掛けると、横に並んだレオナがそっと左手を取った。木箱から出した薬を丁寧に擦り込みながら、低く言う。
「そんなに騎士と顔を合わせるのが怖いかい?」
黙していると、赤い唇が笑みを象った。
「あたしが何か余計なことを言うんじゃないか、って? それで気が気じゃなかったんだろう?」
ロウエンが鍋をひっくり返すのは何度も見てきた。けれど、物腰柔らかく、殊更注意深そうな青年が熱した鍋をまともに掴んでしまったのは、他に意識が彷徨っていたからだとレオナは察していたのである。
カミューは弱く笑んだ。
「……あなたには隠せない」
手に包帯を──やや大袈裟な処置だが──巻いている女から目を逸らし、ふと首を傾げる。
「ロウエン殿は休まれたのですか?」
「それがねえ」
レオナは大きく溜め息を零した。
「下で潰れてるよ。客と飲み比べしちゃってね。一応、布団は掛けてきたけど」
「お連れしましょうか。風邪を引かれてはいけませんし」
「やめておいた方が良いね、後で照れて大騒ぎしそうだから」
吹き出して、ゆるゆると首を振る。
「珍しくもないのさ。少し酔いが冷めると目を覚ます……、途中で起こすと煩いから、いつも放っておくことにしているの」
それでも真冬には寝かさないようにしないとね、と言い添えて、レオナは包帯の端を止めた。礼を受け取る間もなく立ち上がろうとした女の耳に、独言めいた声が滑り込んだ。
「……人を殺したのは本当です」
感情もなく淡々とした一言。レオナは浮かせ掛けた腰を敷布に沈め直した。
「カミュー?」
「ここへ来る前、わたしは人を───白騎士を殺しました」
俯いたまま、カミューは白い包帯に瞳を当てて続ける。
「その現場を別の騎士に見られました。だから……わたしを置いていては、あなた方の立場が危うくなります」
「殺したって? あんたが騎士を?」
そこでレオナははっと目を瞠った。確信が押し寄せたように身を乗り出す。
「カミュー、あんたがこの国に来たのは……親御さんたちの仇を追って?」
「…………」
「親御さんたちは騎士に殺されたのかい?」
はい、と瞑目して項垂れる。レオナは片手で口元を覆い、何とか衝撃を堪えようと努めた。それから慄然を払うように声を絞る。
「……どうして? グラスランドで暮らしていたんだよね、何でマチルダ騎士が……?」
それはこちらが聞きたい、とカミューは自嘲気味に顔を歪めた。
───どうして。
どうして、あの村でなければならなかったのか。
ただ国境の山岳を越えたところに位置していたというだけで、何故、踏み躙じられねばならなかったのか。
「気を悪くしないでおくれよ、何ぞマチルダで悪事をはたらいて追われた……訳じゃないよね」
ひどく躊躇がちに洩れた言葉に、カミューは目を閉じた。
「昼間お話ししたのが正しいかもしれません。押し込み……に近いでしょう」
そんな、とレオナは憤慨もあらわに唇を噛む。
「あなた方が御存知の赤騎士団員とは違う。騎士にも色々いるのです。わたしもそれを、この街に来て知りました。昔はマチルダ騎士と聞くだけで吐き気がするほど嫌悪したものです。けれど、その殆どは巷に囁かれるままの、誠実で誇り高い剣士なのだと……わたしの「親兄弟」を殺したのは、ほんの例外だったのだと知りました」
「カミュー……」
「でも、わたしは……どんな人間であっても、騎士と名のつくものを殺しました。だから逃げねばならない───ここに居ると見顕される訳にはいかない」
吐き出すように言って顔を覆った青年を、暫しレオナは凝視していた。それからおずおずと呼び掛ける。
「そうかい、そんな事情がねえ……。でもね──いいかい、追い出そうとして言ってるんじゃないよ──そういう話なら、長く街に留まっているのはまずいんじゃないのかい?」
「……残っているのです」
「え?」
「まだ一人、残っているのです」
口にするほどに裂かれるようだった。
レオナには、いつか語る必要が生じるだろうとの予感はあった。けれどこればかりは正直に洩らすことは出来ない。狙う相手が、民に望まれ、王位に立とうとしている男であるとは。
「こんな筈ではなかったのに……もっと巧く果たせると思っていたのに。最後の一人があまりに遠くて、どうしたら良いのか分からない」
完全に独言と化した呻きを洩らす青年に、痛ましげな面持ちでレオナは囁く。
「……ねえ、カミュー。こんな話を聞いたことがあるかい? ずっと昔、遠い遠い東の国の話らしいけれどね───」

 

それは、肉親や主筋の人間を殺傷されたものの仇討ち行為が公然となっていた国の話。
故人の無念を晴らすことは誉れとされ、これを行わない家人が後ろ指をさされるような時代だった。
逃げた敵の後を追うものは、周囲から晴れがましく送り出される。返り討ちを恐れて、身分が高いほどに多くの供を従えて、親族中の鼓舞に送られて旅立つ、そんな一大行事でもあった。
殺めた犯人はひたすら逃げる。捕まれば一貫の終わりだ、形振り構わず逃げ続ける。
片や追っ手は、罪を贖わすべく、野を越え、山を越えて追い掛ける。故人への愛惜も然ることながら、空手で戻れば国中の笑いものだ。討たねば戻れぬ、そんな意識が執念となって彼らの背を押す。
幾歳月もが費やされるうち、大勢で出立した追っ手側も、一人、また一人と脱落していく。最後に残るのは未練断ち切れぬ、故人のごく近親者のみ。
敵の足跡を追い掛け続け、最後にこれを討ち果たしたときには、既に己の人生の殆どを注ぎ込んでいて、残されたのは虚しさだけだったという。

 

「……あなたも無意味と思われますか」
静かに耳を傾けていたカミューが、穏やかな眼差しをレオナに向けた。
「剣の師にも言われました。たとえ仇を殺したところで、誰も返らない、何も戻らない。わたしもそう思います。他の誰かがそれを志していたなら、同じように諌めたかもしれない」
でも、と声を震わせる。
「そのために戦う力を磨いた。今のわたしが在るのです。無意味と言うなら、何故わたしはここに居るのか。生きて、敵の許に辿り着いたのか───」
「……分かるよ」
「いいえ、あなたには分からない。誰にも分かっては貰えません」
頑な拒絶に、だがレオナは厳しく言い募った。
「分かるよ。あんたが許せずにいるのは、仇の騎士でも誰でもない、自分自身なんだってね」
虚を衝かれ、カミューは瞬いた。まじまじと見詰める琥珀色の瞳からゆっくりと視線を外してレオナは続ける。
「あんたはずっとそうやって自分を責めてきたんだね。家族中で一人だけ生き延びた、って。親御さんたちはどう思うだろう? 縁もゆかりもない子供を大事に育ててくれるような人たちだ、せめてあんたが無事だったのを喜んでくれないかい?」
「それは───」
「あたしはね、別に仇を討つのが無駄だとか、そういうことを言ってるんじゃない。恨みとか、悔しさとか、確かに当人にしか分からないよ。でも……だったら、どうしてそんなに悩んでいるのさ? やると決めたなら、何をそんなに苦しんでいるの。迷いがあるから、虚しいと思っているから───そうじゃないのかい?」
「わたしは……」
言い掛けて、カミューは再び俯いた。
目を伏せる一瞬に視界を横切ったもの、壁に吊るされた漆黒の上着。長い沈黙を経て、沈痛が口を吐いた。
「復讐のために、仇の子に近付きました。街に来た当初は今ひとりの敵───討ち果たした方の騎士の所在が分からなかったので……情報源として利用したのです」
同時に「敵」とも見做していたが、と心のうちで付け加える。
「父親は善人の仮面を被った非道な男だったのに、その人はまるで違った」
その一瞬、カミューの瞳に、そして声音に、静かな情感が灯ったのにレオナは気付いた。
「馬鹿がつくくらいお人好しで、疑うことを知らなくて……わたしの意図など知らず、いつも真っ直ぐな目をわたしに向けてきた。あの目に見詰められるたびに、欺き続ける自分の醜さを突き付けられるようだった」
「…………」
「その身には父親と同じ血が流れているのだと、何度も自分に言い聞かせました。でも……」
───でも。
それは、殆ど天啓のようにレオナの胸に降りてきた。切れた言葉の先に、優しい声が重なった。
「好きに……なったんだね、その人を」

 

 

カミューはのろのろと顔を上げた。女を見遣り、壊れたように微笑む。
「そんな……筈はないんです。最初から分かっていたのだから。憎い男の血を引いた、決して心を許してはならない相手なのだと。だから、そんな筈は───」
レオナは眉を寄せて、宥めるように青年の手を取った。
「人に惚れるってのはそういうものさ。世界中から爪弾きにされる悪党だと分かっていても、止められないときもある。ましてその娘には何も非がないんだ、惹かれたって、何もおかしくないんだよ」
何かが身体の奥から迫り上がるようにカミューは思った。けれど、涙かと思われたそれは、深い溜め息に留まった。
虚ろに笑んだまま、ぼんやりと宙を仰ぐ。
「……何を間違えたんだろう」
すべて計算づくだった筈なのに。
あの男に心を傾けまいと、幾度も自戒に努めたのに。
幾重にも張り巡らせた鎧のうちに滑り込んできた男。
おそらく、そうしているとは本人も知らず、剥き出しの心に触れ、それがさだめであったかの如く、あまりにも自然に、何時の間にか寄り添うようになった最後の敵。
「わたしは、何を間違えたのかな……」
内に溢れ返っていた思いを吐露した今、カミューに残るのは荒漠とした野に置き去りにされたような空虚のみだ。あれほど胸を苛んでいた皇王への憎悪も、もはや遠くに移ろう幻じみていた。
レオナは青年の懊悩を理解した。核心が伏せられていたため、微妙に違え取った部分もあるが、残る仇の「娘」への想いと復讐心の狭間に立たされたカミューが、道を選びかねているのだと考えた。
握った手に力を込め、励ますように囁く。
「何も間違っちゃいないよ。あんたは故郷で、血縁より確かなものを知っていたじゃないか。だけど……分かっているよね? 父親を殺したら、今度はその娘にとって、あんたが仇になるんだよ」
関係を錯誤したままレオナは諭し続けた。
「何処かで終わらせないとつらいよ、カミュー。そうだ、恋仲なら、いっそ連れて逃げておしまいよ。二人で幸せに暮らしてさ、……そのうちに父親への恨みも薄れる日が来るかもしれないじゃないか」
「連れて逃げる……?」
カミューは顔を上げて仄かな苦笑を浮かべた。すべてを忘れて、あの男と二人、しがらみを逃れて静かな箱庭に憩う我が身を過らせたのだ。
叶うべくもない、偽りの安穏。
「……その人への想いがすべてに勝れば、わたしの旅も終わらせられるのでしょうか」
「少なくとも、今とは違った道が開けるような気がするよ。傷つけたくないから迷っているんだろう?」
傷つけるどころか、殺そうとしていた───干からびた声が胸中で叫ぶ。
なおも口を開こうとしたとき、扉外に大きな足音が鳴り渡った。無造作に開いた扉の向こう、赤らんだ顔のロウエンが仁王立ちで二人を見据えている。
「何だよう、おれには悪さするなとか言っておいて……。気を付けなよ、姐貴。カミューったら、クソ真面目そうに見えて案外と女っ誑しなんだからさあ」
呂律の回らぬ舌で言い放つ妹分に、レオナは顔をしかめた。
「何を言ってるんだかねえ、酔っ払いが。ほら、自分の部屋にお行き。ちょっとロウエン! そこで寝るんじゃないよ、しっかりおしったら!」
その場に座り込もうとしている女を見て、躊躇いを残す面持ちながら、レオナは立ち上がった。ちらとカミューを振り返り、真摯に言う。
「苦しいだろうけど、もう少しだけ頑張って考えてごらん。あんただけじゃない、その娘の一生も懸かっているんだからね。グラスランドの親御さんは、きっとあんたの幸せだけを願っている筈だよ」
ロウエンの様子を気にして、最後は駆け足で切り上げると、レオナは戸口に急いだ。妹分に肩を貸し、叱咤しながら歩き出す。
扉が閉まった刹那、カミューは拳で敷布を打った。きつく噛み締めた唇から、やがて呻きが洩れ落ちる。
ふらりと立ち上がって壁際に進み、懐かしい色の布地に額を押し当てて呟いた。
「……わたしの負けだな、皇子様」
自らの言葉が耳を掠めるなり、憑きものが落ちたような心地になった。我武者羅に掻き集めようとしても、心の何処にも妄執の残り火はない。憎い皇王の影も重ねられず、後には静かな慕情が残るばかり。
最初から勝てない相手だったのだ。
もともと恨みがあった訳ではない。ただその血脈を絶とうと、それだけが「彼」を屠ろうとする理由だった。
ルシアが思い留まったように、カミューもまた、血縁がすべてを決めるのではないと分かっていた。けれど、気付かぬ振りをしてきたのだ───今までずっと。
「負けたんだ……おまえにも、自分自身にも」
吊るされた上着の裾を抱き締めるカミューの唇には笑みが張り付いていた。
もう、嘆く気にもなれなかった。あまりにも愚かしい結末に感情が擦り切れてしまったように。
偽りで築いた関係に、たった一つ、小さな真実が潜んでいた。存在を否定されながら、それは常にカミューの奥底に息づいていたのだ。気付いてくれ、目を逸らさないでくれと幾度も扉を叩きながら、主人の応えを待っていた。
疾うに裏切られていたのだ、己自身にさえ。北の村で、鏡に映す文字を記したときから。
無意識に書いた一節は、芽生えていた想いの現れ。避け難い絆に囚われた心が書かせたものだった。
魔性に支配された男を命を賭して取り戻したのも、請われるまま夜を分け合ったのも、彼に惹かれていたからこそなのだ。
皇王家最後の一人、敵と見てきた筈の男。
だがもう、自分を騙せない。直視してしまった真実からは逃げられない。
出会うべきではなかった。知ってはいけなかった。
なのに止められなかった。
本当に、何をどう違えたのか、人の心とは何と不確かで脆いものだろう。どれほど噛んでも、自嘲は終わりなく込み上げてくる。
戻る道はなく、進む道までも失ったカミューには、亡き人々へ手向けが見つからなかった。
───許してください。
鳴咽を堪え、愛する一人一人を過らせながら詫び続ける。

許してください、わたしのすべてで償いますから。

自らを痛む涙が、初めて溢れて眼裏を焼いた。悔恨を溶かした雫は、それなのに苦々しいほど温かかった。

 

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やっと赤の陥落です。
何か決定的な理由を与えようかとも思ったけど、
突然スコーン、ってのもアリかなと思って、
こんな形に相成りました。

 

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