馬上から魔物を一閃し、怯んだ隙に駆け抜ける。
グリンヒル出立以降、通してきた戦法が怪しくなったのは、森の抜け道を三分の二ほど行ったときだった。
赤騎士団・第一部隊所属の騎士は、同行する皇子の従者の体調について充分に留意するようにと、直属上官から指示されている。
命じられるまでもなく、元よりそのつもりだった。
従者フリード・Yも、皇子に仕えるものとして、それなりの武術訓練は受けてきている。けれどそれは、他者が駆け付けるまでの場凌ぎ程度、騎士の鍛錬には遠く及ばない。
なまじ主君が武に優れていたため、死にもの狂いで剣腕を磨いてきたとは言い難く、皇子の傍らに影の如く侍ることがこれまでの彼のつとめの大半であったのだ。
こんな騎馬行軍は未経験、魔物を斬り分けて道を進んだこともない。フリード・Yは決して泣き事を口にしなかったが、刻々と疲弊していく様は若い騎士の目にも顕著だった。
「大丈夫ですか、フリード殿?」
手綱を絞って速度を緩め、手にした松明を後方へと巡らせながら若者は問うた。
背後からの強襲に備えて、フリード・Yを先に行かせるよう心掛けているのだが、何時の間にか順序が逆転してしまう。不慣れな手綱捌きに操られる従者の馬は、無駄な力配分に終始しているため、騎士のそれに比べて息も荒い。
「頑張ってください、もう少しで抜け道を出ます。そうしたら魔物も減るし、一休み出来ますから」
のろのろと騎士の馬に並んだものの、眼前には暗い木立ちが広がるばかりで、フリード・Yの心を何ら和らげてはくれなかった。
往路の疾走時にも無様を晒した。
だが、グリンヒル滞在を経て充分に休息は取ったつもりだったし、熟練した赤騎士団員の行軍には付いて行けなくても、同世代の若者になら何とか───そんなふうに描いていた図式が脆くも崩れ、今や失意すら沸いてこない。虚ろに騎士へと笑み掛け、ぐったりと肩を落とし、掠れ切った声でポソと言った。
「覚書をお渡ししますから、どうぞあなただけでも先に行ってください」
「何をとぼけたことを言ってるんですか。そんな真似したら、おれは隊長や殿下に殺されますよ」
「でしたら、一筆書きますから」
「冗談言ってる暇があるなら───」
騎士はそこで松明の柄をフリード・Yの馬の尻に打ち付けた。
「走って!」
咄嗟に振り向いたフリード・Yの目に、翻った松明の火が襲い来る触手を払い除けるのが見えた。ヒイラギの形を模した魔物だ。再度伸びた枝の攻撃を、今度は剣で斬り捨てて、若者も自馬に前進を命じる。
駆け出した馬にしがみつくフリード・Yの手にも松明は握られているが、それで前途を照らすどころか、落とすまいと努めるので精一杯だ。
そのうちに、薄くしか開いていられない目が前方に子供のような影を捉えた。追走する騎士も気付いて、鋭く怒鳴った。
「フリード殿、前!」
分かってはいるのだが、馬が言うことを聞かない。止められず、ならば避けて通り抜けようと方向を僅かに変えたところへ、逆に影が回り込んだ。
あっと思った次には衝撃が走り、馬は一気に速度を落とした。玩具のように跳ね飛んだ小さな姿に呆然としていると、横に駆け込んだ騎士が松明を頭上に翳して影の軌跡を追いながら呆れ混じりの口調で言った。
「……お見事。魔物を馬で蹴散らすのは、なかなか難しいんですよ」
「あ、あれ、あれって……」
「ドレミの精ですね。単体で出てくるなんて珍しいな、おれにコブを負わせた奴なら良いのに」
この界隈における最大の難敵である。満面の笑顔で応じた騎士は、だが強張ったフリード・Yの顔を見て眉を寄せた。
「……って、知らないで蹴ったんですか」
「わ、わたくし、てっきり子供を蹄に掛けてしまったのかと……」
「夜中の抜け道を一人で歩いてる子供なんていませんよ。それにあの変な格好。一発で分かるじゃないですか」
「見る余裕がなかったんです」
そこまで来て、騎士は笑い出した。馬を並べて隣を進みながら軽く揶揄する。
「じゃあ、今度からはもう少し分かり易く指示します。「魔物だ、蹴散らせ」とか」
「もう一度やれと言われても、出来そうにありませんが」
悄然と返して、フリード・Yは低く言い添えた。
「わたくし、決めました。これが終わったら、本当に精進します。剣も馬術も……死ぬ気で鍛錬に励みます」
「……そんなに気負わなくても良いと思うけどなあ」
今の疾走が効いたのか、辺りは様相を変じていた。森の終わりだ。
不意に木々が途切れ、先に現れたのは深い夜空───煌く星の海が二人を迎えた。
いま少し行ったところにマチルダ側の入国査証場がある。普段は置かれていないのだが、今は式典を控えて、臨時の審査が行われているのだ。
担当しているのは赤騎士団。そこでなら充分に休めるが、駐屯中の仲間にあれこれ説明するのも面倒なので、替え馬を求めるだけにしようというのが騎士の意向だった。
無論、フリード・Yに否はない。と言うより、考えたり意見する力が出ない。促されるまま、抜け道を出てすぐの、開けた地で馬を下りた。
散々醜態を見せた相手だ。もう騎士に対して虚勢を張っても意味がない。フリード・Yは、どさりと座り込んで息を弾ませ、若者が甲斐甲斐しく二頭の馬の世話をするのを見守った。
それから二人で、グリンヒルから持参した僅かばかりの食料を分け合い、乾いた喉を潤した。
「明ける前にグリンヒルを出て、真夜中まで掛かって漸くマチルダ領……すみません、足を引っ張ってしまって……」
干し肉を勢い良く食い千切っていた騎士がパチパチと瞬く。
「何を減り込んでいるんです? 比較的魔物が少なくて、足を止められなかったのも幸いしたけど……速い方だと思いますよ、これ」
そうして彼は表情を和らげた。
「確かに速いに越したことはないけど、魔物に殺られちゃったり、着いた途端に寝込んだりしたら意味がない。おれたちみたいに事情を知る数少ない戦力が欠けたら、それこそ大事ですからね。体力の配分も考えて、その中で最善を尽くせば良いんじゃないですか?」
はあ、とフリード・Yは感嘆の溜め息を洩らした。
「大人ですねえ。わたくしなど、気ばかり焦って……」
前半の述懐には堪らずといった顔で吹き出し、若い騎士は首を振った。
「そうするしかなかったんです、赤騎士団員は」
ゴルドーが白騎士団長に就任した際に行われた人事異動。財力や家名、そうしたものを手中に集めるための所属替えを拒んだ赤騎士団・位階者たち。
これによって不遇の時代は始った。嫌がらせとしか取れぬ過酷な任務下命に耐えつつ、ひたすら新王による是正を待った。
理不尽に立ち向かうため結束は強まり、不屈の覚悟が広がって。彼らは、淀みを薙ぎ払う風を希いながら現在に至ったのだ。
押し殺していた願望に従うと決めた力強き男、異邦から訪れた聡明なる青年、二つの風が騎士団を覆った暗雲を捩じ開けた今、騎士たちに見えるのは正されるべき未来だけなのである。
「……まあ、そういう意味ではゴルドーにも功があるかな。うんざりするほど働かせてくれた御陰で、体力も養われましたよ。おれは先代白騎士団長の時代を知らないけれど、先輩たちはさぞ腸が煮えたでしょうね。良い燃料になったんじゃないかな」
飽く迄も軽い調子だが、フリード・Yの脳裏には、前に闘技場で目にした光景が浮かんでいた。
満身創痍で帰還した赤騎士団・第一部隊。傷だらけになりながら、けれど一人も欠けずに戻った彼らの意地を、何としてもゴルドーに知らしめてやらねばならない。
「……わたくしたちは何処まで来たのでしょうか」
静かに呟く。途端に赤騎士は呆けたように返した。
「何処って、抜け道を出たところ───」
「いいえ、そうではなく。何処まで陰謀に近付けたのでしょう。ゴルドーを追い落とし、カミュー殿に戻って来ていただけるのでしょうか」
そっちか、と安堵したように息を吐いて騎士は首を捻る。
「おれも考えるのはあんまり得意じゃないんですが」
先ずは五年前、企みの発端。
破損を隠蔽すると騙った現在の白騎士団・第三隊長の申し出によって、マチルダ皇王の偽造印章が作られた。
これを使った偽りの命令書によって騎士がグラスランドへ向かう。命令の主旨は侵攻路の確保。山岳越えという、今までの常識を覆す経路でグラスランドに攻め入る目論見だった。
その過程でカミューの村が襲われる。豊富な水を持つ村を、侵攻の際の拠点とするためであった。
しかしこの計画は、カミューと剣士ゲオルグ・プライムによって先行部隊が壊滅的な被害を受けたために頓挫した。生き残った四人の騎士が逃げ帰り、一旦は企みも覆い隠された。
その一年後に皇王が死亡。最初のグラスランド侵攻計画時から用意されていた毒物による非業の死だ。
同時に白騎士団長が失踪し、その委任によってゴルドーが新たなる白騎士団長の座に就いた。
以後、皇王の遺児を排除する試みが繰り返され、皇太子マイクロトフは強運によってそれを乗り切ってきた───
「アルバート殿からお預かりした覚書を見る限り、第三白騎士隊長がゴルドーの指示で皇王印を注文し、職人殿を殺したのでしょうが……、白騎士とゴルドーを繋ぐ証拠はありませんよね。これでは詮議に掛けたところで言い逃れられてしまうのでは……」
フリード・Yが切々と零したが、騎士はひらりと片手を振った。
「逆ですよ、逆。だからゴルドーの陛下暗殺を立証しなきゃならないんです。ゴルドーを追い詰めれば、白騎士の口も割り易くなる。どちらか片方だけじゃ駄目なんだ、双方向から網を締めないと」
───それには更に困難がある。
皇王死亡以降のゴルドーとワイズメルの共謀についてはテレーズの手元に確たる証拠があるが、五年前にも両者が結託していた証、ワイズメルからゴルドーへと暗殺用の毒が送られた事実を手に入れねばならないのだ。
「全部一気に暴いて、陛下は侵攻に関わっていなかったのだと確実に示さないと、あの人は戻らない」
きつく唇を引き結んでフリード・Yは頷いた。
「……となると、隊長殿が毒の流れを掴んでくださるのを祈るしかありませんね」
テレーズによってもたらされた事実を、昨夜二人が興奮気味に報告する間、黙したまま表情一つ変えなかった赤騎士団・第一隊長。自らに掛かる責任の重さをいよいよ痛感したかの如く、面持ちは厳しかった。
「でも、考えようによっては本当に運が強いですよ、おれたち」
沈痛な空気を払拭する明るい声音が言う。
「アルバート殿の父上にしろ、ワイズメルにしろ、文書を残してくれていたんですから。五年もの間、隠されてきた企みなんだ。昨日今日調べ始めたおれたちが、こうやって核心に迫りつつあるのは、運に味方されているとしか思えない」
「ええ、本当に……」
「これも聖マティスと聖アルダの御導き……とか、言う人も居るかもしれないな。マチルダはマイクロトフ殿下を必要としていて、多分その横にカミュー殿も並べたいんだ」
それを聞いてフリード・Yは知らず微笑んだ。
「あなたもそう思われますか」
「それは勿論。国の運命が大きく動くときに、こんなふうに関われて光栄ですよ」
ちょっと忙しくて大変だけど───そんなふうに付け加えて若い赤騎士は星空を見上げた。
冷えた、しかし穏やかな空気が頬を撫でる。泥を吸ったようだった四肢に、微かながら力が戻ろうとしていた。
「もう少し休んだら出発しましょう。査証場で馬を替えて、後は一気にロックアックスを目指します」
はい、と応じてフリード・Yも宙を見遣った。
北の街で待つ主君。此度の成果が、彼の心を少しでも弾ませてくれるよう願いながら。
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