初めての食事は微妙な空気で始まった。
マイクロトフには日常となっている従者と二人きりの夕食、あるいは宰相や彼の配下の議会員──つまり、味方と判断される人物たち──との晩餐とも違う。食の好みすら分からぬ、出会ったばかりの相手と向かい合った皇子は、並べられた皿にカミューが嘆息するのを見て眉を寄せた。
「どうした? 好まぬ料理でもあったか?」
「いや……」
口篭って、「宰相殿の奥方の手料理ならば当然なのかもしれないが……皇太子殿下の夕餉にしては、普通の食卓だと思っただけさ」
それから彼は大仰に手を振った。
「誤解しないでくれ、褒めているんだ。その……王族というのは、贅を尽くした料理を並べられるだけ並べて悦に入る人種かと思っていたから」
自然と笑みが零れるマイクロトフだ。
「皇王位に就き、政治を与る身ならともかく、今のおれは民の情けで糧を与えられているようなものだからな」
「清貧の志は見上げたものだ。この靴底みたいな大きさの肉は、国民の期待と同じ重さという訳か」
げんなりした視線がマイクロトフの前に置かれた肉に注いでいる。続いて自らの皿に目を向けてカミューは呻いた。
「一度、宰相殿の奥方様に御挨拶する必要がありそうだ。大食漢の皇子様と同程度と思われているようだから」
新任者について、宰相がどれだけ妻に言及したか不明だが、少なくとも彼女は、皇子の護衛というつとめの名から、筋骨逞しい巨漢を想像したようだ。
「靴底」と称された厚手の焙り肉はマイクロトフの大の好物で、これは今日から新顔に囲まれる皇子の気疲れを思い遣った結果であるらしい。
カミューは首を傾げながらも大振りの肉にナイフを入れ、実に優雅な所作で口へと運ぶ。それを見届けてからマイクロトフも食事を開始した。
暫し無言の咀嚼を続け、何か適当な会話の取っ掛かりはないものかと思案していたところ、ポツとカミューが切り出した。
「……王族でなくても、食事中に物騒な話は歓迎されないだろうね」
「程度にもよるが」
前置きして、ついでに先程の逆襲を交えて不敵に笑む。
「おれは風にも耐えぬ繊細な皇子ではないからな、気になることがあるなら言ってくれ」
カミューは琥珀を瞬かせ、苦笑気味に頷いた。
「これまでの「敵」の攻撃手法を知っておきたい。そうそう同じ手を使うとは思えないが、参考にはなるからね」
そこでマイクロトフは記憶を掻き集め、順を追って説き始めた。実際に被った危険を改めて陳列してみると、つくづく自身の運の良さを感じるというものだ。
乗馬中、馬が突然泡を吹いて横倒しになったり、書庫で分厚い書物ばかりを納めた棚が脳天目掛けて倒れてきたり。
早いうちから宰相が毒害については手を打ったものの、地方の村を視察中に、喉を潤そうとした一杯の水で意識を失ったこともある。
「同盟国のミューズに、ホウアンという著名な医師がおられてな。万一に備えてとグランマイヤーが、素晴らしい効き目の毒消しを作っていただいていたのだ。御陰で九死に一生を得た」
騎士たちと剣の試合をしている際中に、相手の握る剣の刃が柄から抜け落ちて、顔ギリギリに飛んできたときは大騒ぎになった。模擬刀ではあったが、急所に直撃を食らえばただではすまない。
「相手を処分したかい?」
「吟味は行われたが、結局その者の仕業という確証はなかった。おれが思うに、剣が摩り替えられていただけだろう」
甘いな、とカミューは呟いたが、執拗に追求するでもなく、続きを促した。
近いところでは、やはり鍛錬中、剣が摩り替えられる事件が起きた。今度は模擬刀が真剣に化けていたのだ。
鞘から抜いて皇子に斬りつけ、片袖を僅かに裂くまでこれに気付かなかった騎士は、己のしでかした──厳密にはそうとも言えないのかもしれないが──不始末に衝撃を受け、現在も身を慎み、兵舎に篭ったままだ。
「これまたお咎めなし、か」
「本人に会えば分かって貰えると思うぞ。こんなことに巻き込まれて誰よりも傷ついている。首を斬れとまで言って詫びてくれた」
「……お人好しだね」
カミューはひっそりと言った。
就寝しようと上掛けを捲り、毒蛇と対面したときに側に居たフリード・Yの仰天ぶりには、堪らずといった様子で薄い肩が震えた。上目でマイクロトフを見詰めながら彼は問うた。
「この部屋には誰でも立ち入れるのか? 何のために廊下に見張りを置いている?」
「それがな」
マイクロトフは渋い顔で、「その日はたまたま窓を開けたまま留守にしていたのだ。その間に外から放り込まれたらしい。寝台に乗っていたのは偶然だろう」
するとカミューはすらりと立ち上がり、窓辺へと向かった。三つある窓を順に巡って外を見下ろし、やがてマイクロトフへと向き直った。親指で軽く背後の硝子を突く。
「窓に格子を張るのが嫌で、おまけに開け放つ習慣があるのなら、外の木の枝を幾つか落とすべきだね」
マイクロトフは困惑して唸った。
「侵入を防ぐためという意味なら、何ヶ月か前に処置した筈だが」
「善処はしているようだけれど、十分とは言えないな。身の軽いものなら何とか目的が果たせそうだ。それに……蛇を放れるなら、小ぶりの魔物だって同様さ」
成程、とマイクロトフは頷いた。
報告を受けたグランマイヤーは、斬り捨てた毒蛇に愕然としていたが、もっと質の悪い侵入者に襲われた可能性もあった訳だ。改めて暗澹としたものが満ちてくる。
そんな皇子を見遣ったカミューが、低く息を吐いた。
「……やっぱり食事が終わってからの方が良かったな。すまないね、皇子様」
「いや、そちらはもう済んだから気にする必要はない」
熱心に語りながらも、結局は食事の手を休めなかったマイクロトフだ。カミューは男の皿を確かめるように覗いて目を瞠る。唖然とした反応を見て、マイクロトフは慌てて言い添えた。
「何かと時間に追われることが多いし、その……」
「戦場の飢えた兵士みたいだな」
カミューは吹き出した。
「ついでに言っても良いよ。狙われている所為で、落ち着いて食事を取れなくなった、と」
「いや、そういう訳では───」
どちらかと言えば、王族としての品格云々よりも、一騎士、一剣士としての習性を身体が受け入れているのだ。
カミューが例えたように、彼らは戦いを前にのんびり舌鼓を打ったりしない。今のマイクロトフは常に臨戦態勢でなければならないので、自然と早食いになってしまうのである。
困り果てて言葉を探す皇子をカミューは暫し観察していたが、やがて静かに首を振った。元通り、マイクロトフの前に座り込むと、やや表情を引き締める。
「本題に戻ろう。ゴルドーという男、あまり賢くないな。それだけ頻繁に行動を起こしながら、今をもって成就出来ないとはね。詰めが甘いとしか言いようがない」
「……その甘さとやらの御陰で、おれは助かっているのだが」
小声で独言を洩らすが、青年は素知らぬ顔で続けた。
「数を重ねるだけ、標的も警戒する。やるからには一度で息の根を止めねば意味がない。これまでとは違って、城内ではなく、白昼の往来と目先を変えたところまでは良いが、その後が御粗末だ。数を集めれば果たせるというものでもなかろうに」
淡々と語るカミューと対峙して、マイクロトフは微かな不安めいたものが兆すのを感じた。脳裏にフリード・Yの言葉が過る。冷酷な死の神の目、目前の琥珀は正にそう呼べる冷たさに煌めいていたのである。
ごくりと喉を鳴らしながらマイクロトフは尋ねた。
「刺客を大勢雇うより、卓越した一人の方が効果的だと?」
それは、つまり───
「……そう。絶対に失敗らない、唯一だよ」
自らのような、と言わんばかりにカミューは不穏に笑んだ。
「蒸し返しになるけれどね、本当にこちらから手を打つ気はないのかい? 攻撃は再大の防御とも言うが」
「ない。言っただろう、おまえにそんな真似をして欲しくない」
「汚れ仕事も報酬のうちだけれど」
「そういうことを言っているのではない」
怒ったように一蹴する。馴染みのない苛立ちが込み上げていた。
ひとたび命じれば、彼は刃を握ってゴルドーに忍び寄るのだろう。冷えた眼差しで、何ら感情も浮かべぬまま、速やかに命を摘み取って。
そんなカミューは耐え難いほど不快だ。
何故そこまで嫌悪を覚えるのか、それは自身の苦い記憶に繋がるから───最初はそう考えた。
けれど何かが違う。それを彼に許してはならないといった、不可思議な、焦燥めいた感情が沸き上がってくるのだ。
「カミュー……おまえはおれよりも一つ年上だったな」
唐突な問い掛けにカミューは怪訝そうに小首を傾げた。
冷徹な気配が消えると、彼は思い掛けぬほど幼げに、無防備に見えるときがある。
この落差は何なのか、どちらが本当の彼なのか。いったいどんな生き方によって今の彼が在るのか。それを知りたいとマイクロトフは強く思った。
けれど、今は押し殺すべきだと本能が囁いている。交流は始まったばかりなのに、一気に踏み込んでは厭われかねない。だから俯き、低く言うにとどめた。
「若いくせに、老練な悪徳策謀家みたいな側付は好ましくない」
必死に考えて探し当てた台詞は、意に反して辛辣に響いてしまう代物で、どうにも気の利いたものとは言えなかった。案の定、言い終えるや否や、青年はそっぽを向いた。
「……おまえだって年齢不詳の老け顔のくせに。始終眉間に皺を寄せているような皇子様に言われたくないね」
間髪入れずに言い返す膨れっ面には、もはや先程の冷淡はない。
気付かれぬように、マイクロトフはひっそりと──冷や汗混じりの──安堵の溜め息を洩らした。
← BEFORE NEXT →