窓の外には薄闇が迫っていた。
それほど話し込んだ感はなく、だが確実に日は落ちている。ふとした拍子に窓辺を見遣ったフリード・Yが落ち着かなげな表情になったのを見たところで、マイクロトフは前々からの決め事を漸く思い出した。
「フリード、そろそろ行った方が良いのではないか?」
従者に呼び掛けると、カミューが微かに小首を傾げる。
「外出の予定があったのかい?」
フリード・Yは戸惑い気味に両者に目を向け、こくりと頷いた。
「はあ……実はその、今夜は自宅の方へと……」
皇子の従者というつとめ柄、彼が城下の生家に戻る日は少ない。特に、ゴルドーの害意が明白になったこの一年あまりは、皇子の身を案じて、私生活など無いも同然の生活を送ってきたフリード・Yなのだ。
ただ、今日は護衛が増やされる日とあって、久方ぶりの宿下がりを決めていた。それを聞くなり、カミューは短く息を吐いた。
「彼ひとりに多くを背負わせ過ぎだよ。わたしのように期限付きならともかく、ろくに休みも取れないなんて労働条件が厳し過ぎる」
マイクロトフが苦笑する傍ら、即座に従者は胸を反らせた。
「いいえ、カミュー殿。それは違います、わたくしは強制されて御側に侍っているのではありません。殿下は未来のマチルダ皇王、わたくしは殿下にお仕え出来るのを誇りに思っており、自ら進んで───」
そこでカミューが軽く吹き出した。澄んだ琥珀に真っ直ぐに見詰められたフリード・Yが、ぴくりと硬直する。
「手短な物言いというものを教えてあげるよ、フリード・Y。「好きで側に居る」、下々の人間にはそれで十分通じるものさ」
はあ、と若者は神妙に首肯した。
ひとたび蟠りが消えてしまえば、カミューは実に魅力的な人物だ。主従が知らぬ、王城の外の香りを持つ青年、それを遅ればせながらフリード・Yも認めるようになっていた。
これまで権威を負って生きてきたマイクロトフは無論のこと、その従者にとってもカミューの率直は新鮮だ。最初は無礼としか映らなかった振舞いも、見方を変えれば、それだけカミューが己の心に正直であるとも取れる。非を非、否を否と言い切る存在は、王城の中では貴重なのだ。
つまりフリード・Yは、この時点で完全に新しい仲間に心を許していた。開かれたばかりの交流を置いて宿下がりするのを躊躇う気持ちが生じていたのである。
「ええと、つまり……そういうことです。わたくし、やはり殿下の御側から離れるのは……」
「何を言っている、フリード」
呆れたようにマイクロトフは遮った。
「何ヶ月ぶりの帰宅だ? 親御殿とて楽しみにしておられるだろうに」
「しかし、殿下」
「いいから行け、ゆっくり話でもしてこい。何なら明日も休んで構わないぞ、外出の予定はないからな」
「はあ……」
フリード・Yは依然考え込んでいる。そこでマイクロトフが目を細めた。
「……刻一刻と待っておられるのではないか? 例の話もあるだろうし」
「殿下!」
驚愕して従者が背を正すのを見てカミューが首を傾げた。
「例の話?」
「縁談だ」
含み笑いながら答える。
「フリードにはラダトに将来を誓った人がいるのだ。グランマイヤーの親戚筋の女性で、その縁で知り合った。二人とも婚姻する歳には及んでいないが、正式な約束だけでもしておこうという話が進んでいて」
「お、お止めください、殿下! そのように懇切丁寧に説かれては……! わたくし、ヨシノ殿とは、まだ───」
真っ赤になった従者に笑み掛けてカミューは言った。
「それはそれは……隅に置けないな、フリード・Y。いいじゃないか、照れなくても」
「カミュー殿まで! そんな話は早過ぎます、わたくしたちは文にてのお付き合いで十分なのです」
「そう言うな、フリード。添うと決めたなら、早いも遅いもなかろう。何事にも心積もりは重要だぞ」
「その通り。魅力的な相手なら尚のこと、文通だけじゃ不足だね。しっかりと捕まえておかないと」
双方から揶揄された若者は言葉に詰まり、ひたすら狼狽えるばかりだ。そのうちに、あまりの動転ぶりを哀れに思った面持ちで、カミューがさらりと救助の手を差し伸べた。
「まあ……冗談はともかく、せっかく代行が就任したんだ。皇子様の世話はわたしに任せて、親孝行してくるといい」
「は、はあ……」
そこまで来ると、夕食の席に着いて待つ両親の姿が浮かんでしまい、頷かずにはいられなくなる。フリード・Yは今一度マイクロトフを上目で窺い、ヒソと言った。
「それでは殿下、お言葉に甘えて一晩だけ失礼させていただきます」
「親御殿に宜しく伝えてくれ。それから、手数だが、退出のついでに食事の手配を頼む。カミューの分も一緒にこちらに運ぶように、とな」
ふと、カミューが割り込む。
「食事の毒見は? 給仕は信用出来るんだろうね?」
一見では甘い色合いに映る琥珀の瞳が、冷徹な観察者のそれとなっているのに気付いたフリード・Yは、この青年が予想以上に心強い味方であると確信した。
皇子に忍び寄ろうとする危険に逐一嗅覚をはたらかせる姿勢は、まことに頼もしい限りである。あの、一瞬だけ見た鋭い剣技といい、身に宿した火魔法──いざ思い出すと、僅かながら好感が陰ってしまうが──といい、確かに宰相が口にしたように、カミューは逸材と呼ぶに相応しい人物に違いなかった。
フリード・Yはにっこりした。
「それは大丈夫です、カミュー殿。殿下のお食事はグランマイヤー様の奥方様のお手製ですから、毒見の必要はありません。給仕係は奥方様付の幼い侍女が請け負ってくれていますし」
ふうん、と軽く往なしてカミューは考え込んだ。
要するに、宰相グランマイヤーは家庭をも巻き込み、全身全霊で先代の一粒種を護ろうとしている訳だ。眼差しから冷えたものを消した彼は、実直そうに背を正している若い従者に向けて神妙に宣言した。
「逼迫具合が良く分かったよ。せいぜい気を入れて仕事に励むとしよう」
乳兄弟の不在は、思いがけずマイクロトフに緊張をもたらした。
側に付き従うのが当たり前になっている若者だ。居れば何かと騒々しいが、居なければ居ないで落ち着かない。まして今、目の前に座っているのは知り合ったばかりの異国の青年で、そのくせ旧知の仲であるかのように親しげに言葉を投げてくる相手だから、胸弾むのは確かなのだが、どうにも座りが悪いような心地は否めなかった。
「その、カミュー……食前に軽く一杯どうだろう?」
皇子の目が向けられたキャビネットの棚に並ぶ酒瓶を一瞥し、カミューは薄く笑う。
「わたしが仕事中なのを忘れていないか、皇子様?」
「弱いのか? それとも下戸か?」
「まさか。食前酒の一杯や二杯で酔っていては、こんな稼業はしていられないよ」
カミューは椅子上で大きく伸びをした。しなやかな獣が寛ぎ切ったような仕草だ。マイクロトフは既視感めいたものを覚えて息を飲む。
あのときもそうだった。馬上でのんびり構えていながら、咄嗟に攻撃へと転じた鋭利は、いったい何処で切り替わったのかと未だに悩めるところだ。
おそらくそれはカミューの戦術のひとつなのだろう。隙を曝しているように見えて、常に五体には緊張を漲らせている。傭兵とはそういうものなのだろうか、とマイクロトフは想像を巡らせた。
棚を漁り、一瞬だけグラスランド産の品がないのを惜しみつつ、好みの酒を取り出す。執拗なまでに磨き抜かれたグラスを手に戻ったところでカミューが問うた。
「そっちこそ良いのかい? 成人未満じゃないか」
声音に潜むのは揶揄の響きだ。マイクロトフは憮然と返した。
「自慢ではないが、おれを子供扱いするのはグランマイヤーと乳母くらいのものだ」
成人と見なされる歳まで残り一月、けれどこれは飽く迄もマチルダにおける判断で、デュナンでは更に年少で成人扱いされる国もある。そして何よりマイクロトフは、未成年と見るのが至難な、世間の標準からしても格別大柄な男だった。
まあね、とカミューが満たされた杯を受け取りながら笑う。
「少々騙された気分だよ」
「どういう意味だ?」
「即位を控えた皇太子の護衛───グリンヒルでこの仕事を紹介されたときには、風にも耐えない、繊細で可憐な皇子様を想像したものさ。それが、頑丈そうで、しかつめらしい大男ときては……往来で見たときはがっくりしたよ」
ここは気分を害するべきなのだろうか、と束の間マイクロトフは思案した。が、カミューがあまりにも朗らかに笑んでいるので、取り敢えずは流した。それ以上に琴線に触れる一節があったのも一因である。
「ならばおまえは、あの時点でおれが皇太子だと分かっていたのか?」
「まあね、確信とまではいかなかったけれど。ロックアックスは治安が良いと聞いている。それが白昼、往来で囲み討ちときては……どれだけ権高い貴族の御令息でも、そこまで恨みを買うとは思えないからね」
すると、先程顔を合わせたときに見せた表情は驚きではなく、予想が的中したことへの満足だったのか。やれやれ、とマイクロトフは首を振った。
同時に、心に温かなものが滲む。ならばカミューは、仕える相手と予期しながらも遜ることなく振舞っていたのだ、と。
「おまえには……本当に権威とか地位といったものが意味を為さないのだな」
心からの好感を込めて言ったが、いらえは淡白であった。
「王を戴かぬ蛮族の出だからね」
間髪入れず続ける。
「そろそろ飲んでも良いかな? 皇子様の御健勝と、わたしの仕事の無事を祈るけれど」
ぽかんとしたマイクロトフだが、やがて口元を綻ばせた。
───まったく、何故こうも心惹かれるのだろう。
怖じず諂わぬ直裁的な物言いを、こうまで快く感じるとは。
自らには、そんざいに扱われるのを好む傾向があったのだろうか、などと小さな疑念を覚えるマイクロトフだった。
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