レオナが言ったように、温かな湯に浸して揉んだのが効を奏したのか、身体の重さはだいぶ緩和された。
もう、何かに伝っていないと歩けないという程の難はない。与えられた部屋に戻るなり、置き去りにしてあった愛剣を抜き放ってみたが、支える力の弱さに先端が震えるような無様も起こらなかった。
そのまま上段から一閃、小さな刃鳴りが夕暮れに染まった室内に溶ける。空を切った手応えは、脆く緩やかにカミューの四肢に浸透していった。
続いて、返す刃の勢いに合わせて身を反転させる。跳ね上げた剣先を再度下ろしながら膝を追り、姿なき敵に足払いを掛けて───
そこで体勢が崩れた。画期的な速さで回復しているのは確かだが、まだまだ万全とはいかないらしい。カミューは床に両脚を投げ出して息を吐き、そろそろと剣を鞘に納めた。
腕を伸ばして剣を寝台に置いてから、開脚した間に上体を伏せる。
胸までぴったりと床につけて一呼吸。それから半身を少し浮かせて捻り、右手で左足の爪先を、次に左手で右足の先に触れる。もう一度前屈して、そのまま暫く置いた後、今度は腕立て伏せに勤しみ始めた。
これまでなら汗も滲まなかった所作なのに、呼吸が乱れる。荒い息を吐きながら我が身に鍛錬を強いる様は、思い出したくない男そのもののようだった。
腕の屈伸が三十を越えたところで、それ以上自重を支え切れなくなり、カミューはごろりと仰向けに伸びた。不快な痙攣じみた震えを帯びた片腕を上げて顔を覆って。
───消えろ、と心中で訴える。
そんな目でわたしを見るな、戻る道など何処にもない。
決意を胸に焼け落ちた村を出た瞬間から、これが唯一の道だった。生きて今日まで来たのは、この一念に支えられていたからだ。
おまえの眼差しに揺れたのは、ほんの僅かな気の迷い。思っていたのとは違う人間だったから。だからほんの少しだけ、おまえの中に流れる血を忘れ掛けた。
殺すために近付いたのに、「会えて良かった」などと口走り、真っ直ぐに見詰めてきたから。幼い日、村の大人たちがしてくれたように、優しく腕に包んだりするから───だから忘れられるような心地に陥ったのだ。
草原に消え去る筈だった命を拾い上げてくれた人々。頭を撫でて笑み掛けてくれた大人たち、一緒に転げ回って育った子供たち、産まれたばかりの小さな赤ん坊。
折り重なった亡骸に目を背け、どうして生きていけるだろう。遥か遠い石の街で、悠然と「成果」を待つだけだった男の血をこの世に残し、どうして生き続けられるだろう。
───信じろと言うのか。
己の目で見た蛮行以上に確かなものなどない。
「王の下命」と嘲り告げた騎士の声以上に胸に響くものなどない。
自分は違う、おまえはそう誓うだろう。
けれど王族である限り、いつかは妻を迎えて子を残す。
子が、おまえの孫が、再び草原を見据えるかもしれない。子供を囲み討ち、産まれてくる筈だった命を母親ごと裂くかもしれない。あの惨劇が再び起きぬと、誰が誓ってくれるというのか。
もう疲れた。
恨むのも憎むのも飽き飽きだ。考えるたびに心が膿み、命が削られていくようだ。
悩むのに倦んで魔性の剣を打たせた英雄の気持ちが良く分かる。きっとそのとき、彼もまた疲れ果てていたに違いない───
「……ッ」
不意に左の肩口が疼いた。
カミューは身を起こして、襟元を引いて肌を窺った。けれどそこには常のままの白さが広がるだけで、傷のようなものは見当たらない。
カミューには、それが前に魔剣に刺し貫かれた部分だと分かった。回復魔法によって塞がれ、今は跡も残っていない。さながら残像に導かれるように、魔剣の持ち手が幾度も舌を這わせて愛おしんだ見えない傷跡。
それは痛みと言うより、唇で吸い上げられているときに似た、もどかしい疼きだった。そこから腐り落ちていくような、じんわりとした熱がカミューを苛立たせる。
片手で押さえているうち、だが熱は次第に薄れていった。
何だというのだろう───主人を狙う凶手を、剣に燻る魔性の力が押し止めようと試みているのか。それとも、己の体躯に剣の持ち手の念でも残ったか。
考え込んだが、答えは出なかった。
少しすると、廊下に足音が響いた。ロウエンだ。
レオナはひっそり猫のように歩く。体重をすっかり音に変えて動き回るのは、活発な女の特徴だ。
ふと窓を見ると、何時の間にか外は真っ暗になっていた。埒もないことを考える間にも時は刻々と過ぎていたらしい。女を迎えるべく、カミューはゆるゆると立ち上がった。
「はいよ、夜食を持ってきたぜ」
扉も叩かず勢い良く入ってきた女は、室内の暗さに顔をしかめ、一旦は踵を返した。すぐに戻って来て、部屋の燭台に点灯して回る。
「何やってるんだよ、暗いまんまで……火打ち石は棚の引き出しに入ってるって教えたろ?」
言いながら視線が合うなり、ロウエンは唖然とした。
この上ないほど目と口を開いて、上から下までカミューを眺め回す。ひとしきりの驚きが去ってから、漸くといった様相で声を発した。
「……吃驚した。誰かと思った」
レオナから何も聞かされていなかったのだろう、室内を横切って寝台脇の小箪笥に食事のトレイを置いた彼女は、向き直るなり改めて目を瞠った。
「姐貴が、気分転換になるものを買って来たって言うから、おれはてっきり本か何かだと……。髪染めの薬だったのかい」
ええ、とカミューは薄く微笑む。
暖かげな薄茶色だった柔髪は、草原の闇夜のような色に変じていた。この街で最も多く見掛ける髪色───あの男と同じ、漆黒に。
「へえ」だの「ふうん」だのと声を洩らしながら、ロウエンはカミューの肩を掴んで一回りさせた。正面に戻った途端、息が掛かるほど間近に顔を寄せて眉を顰める。
「……変、ですか?」
唐突に接近されて微かに竦みながら問うと、彼女はトレイと同じ場所に乗っている容器を取り上げた。さっと用法に目を走らせ、蓋を開けて、指で掬った液をカミューの顔へと近付ける。
反射的に身を退こうとしたが、「じっとしてな」と低く命じて、ロウエンは指先で軽く眉をなぞった。もう片方にも同じようにして、染料で汚れた指を自らの衣服に擦り付けて、にっと笑んだ。
「眉だけ元の色のままってのは変だぜ。鏡は見なかったのかよ? おかしなところで抜けてるもんだ。あんた……睫は金色っぽいんだね。近寄ったら分かった」
二度ほど掌の上で弾ませた容器を掴み直し、書かれた処方に見入った。
「ふうん、一度乾けば、洗ったくらいじゃ落ちないんだ。最近の薬は良く出来てるなあ……。でも、「二、三ヶ月は色持ちする」ってのは嘘だね、一ヶ月に賭けても良いや」
ブツブツと独りごちてから、またしても青年の検分に戻る。
「……うん、悪くないかな。前の色に慣れてたから、ちょいと妙な感じだけど……。女の子たちも時々やってるぜ、別人になったみたいで良い気分転換になるんだってさ。病み上がりだからって、篭ってばかりじゃ気が滅入るもんな。さすが姐貴、目の付けどころが違うよ」
どうやらレオナは、今の段階で察している事情を妹分には語らずにいるらしい。身を潜めるための変装を「気分転換」で通してしまうあたり、彼女の機転が窺える。
「で、どう? やっぱり変わった気がする?」
「ええ、かなり」
笑うカミューを見遣りながらロウエンが椅子を引く。自らも寝台の縁に座りながら首を傾げるカミューだった。
「お店の方は宜しいのですか?」
うん、と生返事を返して女は窓を見遣った。
「雨が降って来たからね、今は客が引いてるんだ。姐貴が夜食運ぶついでに休憩してきて良いよ、って。あんたの頭を見せる気だったんだな、きっと」
レオナの悪戯心と取ったロウエンは、乗せられた自分の驚きぶりを過ぎらせたのか、可笑しそうに肩を揺すっている。
視線に誘われるようにカミューも窓を窺った。成程、雨だ。静かな霧雨、闇に音もなく降り注ぐ銀色の───
「……雪になりますか?」
「どうかな。おれもロックアックスに長い訳じゃないし……寒くなってきたけど、まだ雪には早いんじゃないかね」
そこでロウエンは思い出したように手を打った。
「灯りを取りに戻ったら忘れてきちゃったじゃないか。洗っておいた服、乾いてたよ。良かったぜ、上着の方も、縮みも傷みもしなかった。後で持って来る」
微かに身を震わせて、だがカミューは笑み続けた。
「ありがとうございます。でも、自分で取りに行きますから。お店が終わるのは何時頃ですか? 洗い物や片付けをさせてください」
「何だよ、全然変わってないじゃないか」
ロウエンはけらけらと揶揄して首を振る。
「合間合間にやってるし、店を閉めてからが大仕事、みたいにはならないよ。おれはともかく、姐貴は凄く器用なんだ。忙しくしてるようには見えないのに、ばんばん仕事をこなしていくんだぜ。客も姐貴を崇拝してるから、自主的に空いた皿を運んでくれたりしてさ。おれが居候する前は全部ひとりでやってたんだもの、だから、こうやっておれが休憩してても大変でも何でもないわけ」
それから彼女は、胸元で緩やかに合わせられた服の中に手を突っ込み、小さな紙の包みを取り出した。突き付けられた袋を受け取りつつ、カミューは眉を寄せた。
「さっき、昼の女の子が来て、置いていったんだ。「助言の御陰で助かった」って。それはあんたの分。「変な話を聞かせたお詫び」だってさ」
「詫び、って……それを言うならわたしの方です、すぐに席を外すべきだったのに」
「良いんじゃない? 区内にある店の焼き菓子だ。昼は報告に気が急いて思い付かなかったけど、あれから買いに行ったんだって。貰ってやりなよ───「仕事」の合間に、わざわざ届けてくれたんだしさ」
更に女は笑みを深めた。
「分かり易いよなあ、あんたの包みだけリボン付きだぜ?」
言われるまでもなく、紙の袋には小さな赤いリボンが結んである。店の人間の技ではない、少し歪んだ結び目。レオナやロウエンに贈るついでと言うには、可憐な心情がちらついている。
「……気遣いなんて無用だったのに」
小さく呟くと、ロウエンは珍しく真面目な表情になった。
「東七区には様々な店がある。うちみたいな酒場もあれば、肉屋に魚屋、髪染めを売る道具屋に菓子屋もある。色んな人が暮らしているけど、大きく胸の開いた綺麗な服を着た若い女が、どんな仕事をしてるか、一目見れば分かるだろ?」
無論分かるが、答えづらい。黙したまま頷いた。
「中には好きでやってる娘もいるよ。「必要から生まれた最古の仕事だ」とか「短い時間で結構な金になる」とか、言い分だって山程だ。けど、大多数は金のために仕方なく身体を売ってる。あの娘もそう。親父さんの拵えた借金を返すためにミューズの方から流れてきたんだ」
「…………」
「そういう、どうしようもなく花街に堕ちてきた娘は、いつも人の目を気にして怯えている。この区じゃ、みんな優しく助け合っているけどね。あんたは見るからに「外」の人間……あの娘にとっては久々に顔を合わせた、客や騎士以外の「外」の男だ」
ロウエンは一旦言葉を切った。しげしげとカミューを見詰め、再び語り出す。
「……あんた、あの娘に笑い掛けたろ」
「え?」
「何だい、自覚なし?」
ぷうと頬を張って溜め息をつく。
「あの娘が「変な話を聞かせた」って謝ったとき、優しく笑っていたじゃないか。天然なのか、まだ若いくせに末恐ろしい女っ誑しだなあ」
「え、いえ、それは───」
おそらくは伏せる気でいただろう娘は、勢い付いて語るうちに口を滑らせた。身なりで娼婦と分かるのは覚悟していても、あからさまにしないことが彼女なりの矜持だったのだろうに。
泣きそうな顔をして困っていたから、そうしたのだ。侮蔑などしていないと伝えるには、微笑みしか差し出せなかったのである。
どう説いたものかと思案を巡らせる間に、ロウエンが苦笑を零した。
「嬉しかったんだよ、知らない人に親しげに笑い掛けられて。何だかんだ言ったって、どんなに周りの人間に恵まれていたって、花街の女の子は寂しいんだ。ほんのちょっと笑顔を向けられたくらいで菓子を買いに走っちゃうくらい、純粋なのさ。遠慮するより、喜んで貰ってやりな。あんまり自由にならない金で、精一杯の気持ちを届けてくれたんだから」
カミューは押し黙り、粗末な包みを凝視する。暫しの後、小声で呟いた。
「わたしも彼女に何かして差し上げられると良いのですが」
うーん、とロウエンは大仰に唸る。
「あんたがあの娘の客になってやること……と言いたいけど、そいつは却下ね。家主その二としては、若者には健全な生活を営んで貰わないと」
軽く吹き出して、カミューは肩を竦めた。
「先立つものもありませんしね。今のお話、良く分かります。何をするにも金は要る。でなければ、雨露を凌ぐことも出来ず、衣食にも事欠く。金のため、金に縛られて生きねばならない身はつらいものです。あなた方に助けていただかなかったら、わたしだって同様でした。当座を凌ぐため、七軒先の店に駆け込むしかなかったかもしれない」
───少々変わった性癖を持つ客のための店。たちまちロウエンは目を剥いた。
「駄目だよ、カミュー。この先だって絶対駄目。あんたなら、何も男を相手にしなくったって、他の区に暇を持て余した金持ち女がゴロゴロ居るって」
「……それは良いのですか?」
「おれ、地元で金持ち役人引っ掛けて暮らしてたんだぜ? 悪いって言えるかよ」
それは冗談だとしても、とロウエンは語調を改め、もぞもぞと座り直して半身を乗り出す。
「区内の女の子の前じゃ言えないけど、……ああいうことはやっぱり好き合っていないと。あんたは男だから、ちょっと分からないかもしれないけど……人と抱き合うってのはさ、時には子供が産まれちゃうくらい、不思議で神聖な行為なんだよね」
ひどく真面目な顔で言ったかと思えば、ひょいと首を捻る。
「……って、経験あるよな?」
どうしてそんな話に、と訝しがりつつ、カミューは目を閉じる。これは単なる世間話ではない。自らにとって何かとても重要な意味を持ちそうな予感に駆られていた。
「はあ、……まあ、それなりに」
「それなりかよ」
吹き出して、すぐに女は表情を引き締めた。
「おれも随分たくさん男を引っ掛けてきた。その気にさせて金だけ落とさせて……でも、そこまでだ。惚れた男としか、共寝なんてしない。自分を全部、一切合切、晒け出すんだぜ? そんな恥ずかしい真似、惚れてなきゃ我慢ならないよ」
「…………」
「そりゃあね。後がなくなりゃ、やるかもしれない。けど……そうしたら、おれの中の何かが死ぬ。多分、おれにとって凄く大事な何かが壊れちまうんだ。だから惚れた人とだけ───とは言っても、なかなか居ないけどな、そういう相手は」
最後に彼女は含み笑いながら言い添えた。
「こう見えても、身持ちは固いんだぜ、おれ」
「……分かります」
俯きがちに、女から目を伏せたままカミューは返す。
「いえ……、最初にお会いしたときから分かっていました。ロウエン殿は素敵な女性です」
「惚れるなよ? 悪いけど、あんたは可愛い弟にしか見えないからさ」
言いながら立ち上がり、ロウエンは窓辺へと進んだ。僅かに曇った硝子の湿りを掌で拭って独言を洩らす。
「そろそろ暖炉に火を入れた方が良いかな。ちゃんとカーテン閉めなよ、隙間風が入ってくるから」
そして振り向き、真っ直ぐにカミューに瞳を当てる。
「ええとね、つまり何が言いたかったかっていうと……金がないとか、タダ飯だとか、そんな理由で妙なことを考えたりするんじゃない、って話。自分を切り売りするくらいなら、このロウエン様に借金を頼みな。十日で一割……ううん、特別に五分で良いや、用立ててやるからさ」
「───その利子、決して安くないのでは……」
「だったら気張ってレシピを残して。あの料理、評判良かったぜ? 昼の残りが少しあったんで、いつも味見してくれる常連に出したら、美味い美味いって大騒ぎ。他の客も集まってきて、最後は奪い合ってたよ」
ふふ、と笑みを納めて椅子を片付け、彼女は扉へと向かう。
「じゃあ、店に戻る。終わりの時間は日によって違うから、待ってなくて良いからね。寝る前に風呂を沸かし直して、もう一度温まったら?」
去り行くロウエンの背に深々と下げた頭は、扉が閉ざされた後も、暫く動かなかった。耳を澄ませても聞こえない雨音が、脳裏にしんしんと響いているような気がした。
「男だから分からないだろうが」───ロウエンはそう言った。確かに違う。男の身体は、情愛なくとも熱が滾るように出来ている。
どちらかと言えば淡白な質ではあるけれど、カミューも男だ。少し前までだったら、ロウエンの言葉を理解するのは困難だったかもしれない。
だが、今は。
倫理に外れたかたちで他人と肌を合わせたカミューには、彼女の言わんとするところが、漠然とではあるが察せられた。太古から人が繰り返してきた情熱が、どれほど重い意味を持ち、人を変える一瞬であるか。
かつて幾人もの乙女と付き合った。思い出す限り、自ら求めた記憶はない。傭兵として街村を周り、何がしかの縁で知った相手と、短い恋人関係を結んだ。
欲望だけで彼女らを抱き寄せたことはなく、まして将来を過らせたこともなく。献身を捧げる代わりに、乙女たちから束の間の安らぎを得た。
あの男は───あの男に与えられたのは胸苦しさばかりだ。腕に包まれ、憩いめいたものを感じているときでさえ、それは純粋とは無縁だった。カミューの中に渦巻く決意と葛藤が、刹那刹那を汚していたからである。
どうせ殺すのだからと優位に立った気で、男の望むまま身を任せた。しかし、斜に構えたカミューの認識は、初手から覆された。
摂理に背いた代償か、悦びよりも苦痛が勝り、いつしか男の逞しい背に縋らねばならなかった。抉じ開けられる衝撃に戦く身を、宥めるように慈しむ男の手や唇が、様々なものを伝えようとしていた。
彼はすべてを晒け出し、だがカミューは頑に拒んだ。心の最奥に宿した志を隠し通そうとした。あの交合には、だから真実などなかったのだ。
───でも。
混じり合い、絡み合わせた肌の熱は幻ではない。
いずれ止めるつもりの男の鼓動が強く耳を打ったこと、羞恥に耐えぬ行為に憤るたび「すまない」と律儀に詫びて、照れ臭げに笑んだ男の眼差しも。
あの短夜の間だけは、仇の息子でも報復者でもなく、互いを焼き尽くそうと吼え猛る獣であったのだ。
カミューは立ち上がって、さっき女がしたように窓の外を眺め遣った。
切り売り、とロウエンは言う。
ならば自分はどうだろう。あの男に抱かれ、何を失ったのか。
もはや失うものなどない身と信じてきたが、あの男の許に何かを残してきてしまったから、だからこんなにも心が乾くのだろうか。
水気を帯びて冷えた硝子に頬を寄せる。
烟るように舞い散る細雨の彼方、石の城は果てしなく遠く、置いてきたものを取り返そうにも、もはや辿り着けそうにない。
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