密議の終わりを受けて、赤騎士団副長は退出のため立ち上がった。片や、青の同位階者は腰を落ち付けたままでいる。先んじて取り決めが為されていたように、両者は軽い礼を払い合い、赤騎士団副長のみが部屋を出て行った。
残った副官を凝視してマイクロトフは目を細める。
「他にも何かあるのか」
事態解明に関する件なら、赤騎士団副長も留まる筈だ。となると、青の団内における問題だろうと気持ちの切り替えを図ろうとしたが、副長は静かに頭を垂れた。
「……実は、個人的にお詫び申し上げねばならないことがございまして」
「おれに?」
心底怪訝そうな声が問う。隣に座していたゲオルグが、「個人的に」のくだりに配慮して腰を浮かし掛けた。
「暫く外に出ていよう」
「いえ……、ゲオルグ殿にも、お聞きいただけたらと」
思い詰めた顔に引き止められ、困惑を浮かべたまま座り直すゲオルグだ。青騎士団副長は口述の内容を整理するように少し間を置いてから重く語り始めた。
「先程の、赤・青両団内にはゴルドーの手のものは居ないとの話ですが……カミュー殿がそう断言したのは、おそらくゴルドー本人から聞いたからではないかとわたしは考えております」
「何だと?」
マイクロトフは知らず半身を浮かせて問い返した。
ゴルドーは、カミューを「盟友」から送られた手駒と信じていた筈だ。抱えた他の駒を通じて何らかの指示を出していても不思議ではない。その中で知り得た情報だったのだろうと、彼は考えていたのである。
「だが、カミューはおれと行動を共にしていて───」
呆然と洩らした皇子に小さく頷き、副官は続ける。
「マイクロトフ様が我々騎士に御声を掛けてくださったときより、彼には自由に動く時間が生じました。覚えておられましょうか、初めてカミュー殿がゴルドーと顔を合わせた日を? マイクロトフ様も御一緒でおられましたな、わたしは後から人伝に聞いただけでしたが……何でもゴルドーが、衆目の中で彼を貶める発言をしたとか」
「あ……ああ」
必死に記憶を弄り、呻くように応じる。
「そうだ、カミューを侮辱されて……抑えが効かず、おれは初めて不敬罪を口に昇らせた……」
美しく優しげな姿に誑かされるな、あのときゴルドーはそう言った。カミューの華やいだ容色は自らも感嘆するところであったのに、それを武器に伸し上がる毒婦か何かのように蔑まれた気がして、我慢ならなかったのだ。
いま思えば、あれほど一気に怒りが噴出したのには、別の一面があったかもしれない。同性でありながら、カミューに魅了されている自身を見透かされたようで、怯んだ末の逆襲だったのかもしれなかった。
思案に沈む皇子を見詰め、青騎士団副長は言を重ねた。
「……あの日は実に立て込んでおりました。査察の任が決まり、マイクロトフ様の居室を西棟へとお移しし、エミリア殿がお越しになって……殿下はグランマイヤー様と共に彼女を持て成す夕食の席に付かれました。その間、カミュー殿は一人で新しい部屋に篭っておいでだった」
「そう───そうだった。誘ったのに、同席する理由はないと突っ跳ねられて……」
ワイズメルと直接面識があったか否かは、今となっては分からない。だが、カミューがグリンヒル関係の人間を避けようとしていたのは事実だろう。苦さを噛み殺しながら首肯する。
「わたしはカミュー殿の若さに似ぬ才知に頼り切っておりました。彼の柔軟な思考は、騎士団という枠の中に生きてきた身にはないものだったからです。あの日も、一人で部屋にいると聞いて、幾つか助言を求めようと訪ねて行ったのですが……」
そこで彼は一度言葉を切った。言い出しづらそうな小声が絞られる。
「魂が抜けるほど驚きました。彼は……泣いていたのです」
どくり、とマイクロトフの胸は波打った。息が詰まり、見開かれた闇色の瞳には沈痛が浮かんだ。
「しかも彼は、自らが涙を流しているのに気付いておらず、わたしが驚いたのを見て、初めてそれを知ったようでした。「うたた寝して夢を見たようだ」と彼は言い、そんなこともあろうかと納得したわたしは、他言無用と求められ、深く考えぬまま了承しました。カミュー殿が最も知られたくないのはマイクロトフ様であろう、と……」
確かにそうだ、とマイクロトフは思った。
あの頃から既にカミューは大きな意味を持つ存在だった。泣いていたなどと聞けば、心穏やかではいられない。おそらくカミューに、煩わしがられるほど追求を試みてしまっただろう。
「涙するほど苦しい夢に苛まれる境遇なのだと───彼が徒ならぬ心の傷を負っていると、あのときのわたしはまるで思い至らなかったのです」
「……自分の落ち度だとでも考えているなら、行き過ぎだ」
ゲオルグが、マイクロトフの心を代弁する。小さく一礼して副長は強張った笑みを見せた。
「けれど、忘れられませぬ。本人も知らぬまま流れる涙、あのように痛ましき涙が他にございましょうか」
「おまえの言いたいこと、おれには分かる」
ポツと呟くマイクロトフの胸には、別れ際の静かな姿が去来していた。
真実などなかった、そう言いながらカミューが流した一筋の雫。一切の感情を失ったかのような虚ろな笑顔と涙が、今も焼き付いて離れない。
感情の昂ぶりがもたらすものでなく、自らを痛み、救うためのものでもないなら、あれはカミューの声なき悲鳴だ。
心の傷から溢れる行き場のない血が、涙となって伝い落ちた───いつも彼はそうだったのだろう。殺戮の悪夢、失われた幸福の夢、どちらに漂っていても、そうして独り血を吐いてきたのだ。
青騎士団副長は更に表情を歪めた。
「その直後、ゴルドーがカミュー殿に対面を求めて使者を遣わしてきたのです」
はっと二人は目を瞠って続きを待った。
「侮辱した非礼を詫びるため食事に招く、との申し出でした」
「……カミューは行ったのか」
「はい。何と申しましても相手が相手、止めたのですが、ゴルドーを探る良き機会だと言って……」
ゲオルグは腕を組んで眉を寄せる。それが「雇い主」と「刺客」の密談の場になるとは誰が思うだろう。これも副長の非では有り得ない。
どんな話が繰り広げられたのかも想像がつく。その時点でカミューは皇子側の助言者として、着実に存在感を増していた。それもすべて、すんなりと暗殺を遂行するための策の一環だとゴルドーに言い含めたのだろう。
カミューが皇子の側で力を振るえば振るうほど、ゴルドーとの繋がりは露見しづらくなる。事実、皇子の周囲の誰もが両者の接点など考えもしなかった。カミューに真の目的さえなければ、正しくゴルドーにとっての決定的な勝札であったのだ。
そんな中で、カミューは巧みに誘導を試み、騎士団の是正の手段をも探っていた。
赤・青両騎士団副長以下、誠実で誇り高き騎士たちには、団内部にゴルドーの間諜が居るか否かは死活問題だ。身のうちに敵を抱えては、戦いに支障を来す。
だからカミューはそれを聞き出した。そして、最後の最後に言い置いて行ったのだ。
「気にはなっていたのです。詫びと言っても、あのゴルドーのこと、再度カミュー殿に不快をはたらくのではないかと。しかしながら、その後カミュー殿に特に変わった様子は見受けられず、結局わたしは胸に納めてしまいました。お知らせしようと考えなかった訳ではないのですが……」
口篭りながら俯き、終には深く頭を垂れたまま動かなくなった副長に、マイクロトフはそっと首を振った。
「頭を上げてくれ。ゴルドーと諍いを起こしたばかりのおれを気遣って、だから胸に納めてくれたのだろう? 良いのだ、知ったところでおれには何も出来なかった。何を話したのかと聞いたところで、はぐらかされて終わっただろう。カミューは正しき騎士団の信義を認めてくれていた。そのために助言まで残してくれたのだ。、それで充分ではないか」
「マイクロトフ様……」
救われたような面持ちで副長は呻いた。それから自身を見詰める熱の篭った瞳に見入り、最後に唇を綻ばせる。
「漸く胸のつかえが下りました。いけませんな、あのときこうすれば、ああしておけば、と……悔やんだところで、何が変わる訳でもないと分かっておりますのに」
「赤い方の副長もだが、おまえさんも堅いな。生真面目なのも良いが、「抜く」ことも覚えないと潰れてしまうぞ」
揶揄気味にゲオルグが言い、副長は苦笑を零した。ふと思いついたように瞬き、改めてマイクロトフへと視線を当てる。
「わたし如きが今更口にするのも憚られますが……一つ、宜しいでしょうか」
「何でも言ってくれ」
彼は、軽い会釈の後、重々しく語り始めた。
「卑劣な策謀がカミュー殿を惑わせ、皇王家に対する憎しみを植え付けました。然れど、みなが信じた通り、御父君は潔白でおられた。これを知れば、彼の心は変じましょう」
「……そうあって欲しい」
「それでも騎士が───たとえ偽りの命に従わされただけだとしても、我らの同朋がカミュー殿から多くを奪った事実は消せませぬ。彼の故郷も、村の人間も戻りませぬ。すべてを水に流して元通り、という訳には……」
「そうだな、充分承知しているつもりだ」
頷いて、だがマイクロトフは穏やかに笑んだ。
「会った日から、カミューに頼り続けていた。あいつが居てくれれば何でも出来るような気になって……何とかマチルダに留まってくれるよう、望んだ。あっさり断られてきたが」
そして上着の内に納められた一枚の紙片に手を当てる。
「支えられるばかりだった。だが今は、支えたい。まだまだ未熟で、道は遠いが……許されるなら、おれはカミューの故郷になりたい」
微笑みの絶えぬ、優しい場所。
心を憩わせ、明日を夢見る静かな大地。
豊かに彼を包み込む、そんな存在になれたら良い。
「失われたものには遠く及びもつかないだろうが、それでもおれは───」
「良く分かります、マイクロトフ様」
堅かった面持ちを消し去り、副長は切なげに目を細めた。
「ならば我らが彼の「家族」となりましょう。マチルダ騎士が村人に捧げるせめてもの陳謝と誠心として……、亡き人々に代わって、カミュー殿を護り、支え、その人生を見届けましょう」
二人の遣り取りを見守っていたゲオルグがポツと言った。
「……おまえさんたちは本気であいつを騎士団に迎え入れるつもりなのだな」
「ゲオルグ殿は反対なさいますか?」
すると彼は、いや、と小さく首を振った。
「そこまで本気なら、心に留めておこうと思っただけだ。あいつは、この一点に関してのみ、とにかく融通が利かない頑固者に徹しているからな」
その頑なさが問題なのだ───ゲオルグ・プライムは心中でそっと付け加えた。
← BEFORE
NEXT →