最後の王・86


湯気の立つ鍋を睨んでいた厳しい顔が、階段に響いた音に気付いて振り返る。足音の主を認めるなり、それは驚きと戸惑いの綯い交ぜになった表情となった。
「あれ、起きてきて良いのかい?」
手擦りを頼りに、ゆっくりと段を下り切ったカミューは、乱れた呼吸を強固な意思をもって整え、微笑んだ。
「横になってばかりいると、本物の病人になってしまいそうで……」
「別に偽物って訳でもないだろ。ちょいと前まで意識不明だったんだしさ」
はあ、と困ったように頷きながら、彼はロウエンの立つ厨房脇まで進む。そのまま瞳を巡らせ、何気ない素振りで建物内部の検分を開始した。
高い卓によって厨房部分と分けられた店内に並ぶ椅子の数は、女二人で賄うには少なくない。昨夜、階下から洩れ聞こえた賑やかしい声に鑑みても、営業中の二人はさぞ忙しく立ち働いていると思われる。
昨日、昼食時に聞いたところに拠れば、夕方、店を開けると同時に早めの食事を取るものが押し掛け、その波が引いた後、酒目当ての客に入れ替わるらしい。
女たちの生活は、昼前に目覚めて、店を開けるまでに雑事や料理の下拵えを済ませ、客の切れ目を見ながら食事を取り、夜中過ぎまで店で過ごすといったものだ。
なかなかの重労働だろうに、そんな暮らしを楽しんでいるらしく、二人の口からは不満めいた言葉は一切出なかった。余程この仕事が性に合っているのだろう。
カミューの思案も知らず、ロウエンは握っていた杓子を置いた。彼の全身をくまなく検分するように視線を走らせ、にっこりする。
「……うん、悪くない。色男は特だな、何を着ても華があるぜ」
そんな賛美に、カミューは気恥ずかしげに唇を綻ばせた。
「迷ったのですが、御言葉に甘えさせていただきました」
「迷う必要ないだろ、あんたが着なきゃ誰が着るんだよ? あとさあ……、それって性分? やたら畏まってて落ち着かないんだけど。何て言うかなあ、もうちょっと砕けられない? 何処かの貴族様でも相手にしてる気分になるぜ」
あの男も親密で砕けた口調を望んだな───期せず過った感慨に戸惑い、カミューは慌てて思考を捩じ伏せた。苦笑を浮かべ、小さく首肯する。
「申し訳ありません、心掛けます」
「……性分かい」
ロウエンは嘆息し、次いで破顔した。
「ま、いいか。この区じゃ、男が大きな顔をするのが普通だからな。あんたみたいに馬鹿丁寧なのも、新鮮と言えば新鮮か」
独言のように呟くのを待って、カミューは尋ねてみた。
「レオナ殿はお出掛けですか?」
うん、と軽く認めて扉口を見遣るロウエンだ。
「けど、そろそろ戻ってくるんじゃないかな」
東七区内の店主たちの間には定期的な寄り合いが設けられているが、稀に緊急の懸案を沙汰する臨時の召集が掛けられる。今回は、昨日区長が通達を受けた旨──皇太子の婚儀中止──を各店主に伝えるための会合だろうと彼女は語った。
他の居住区はいざ知らず、歓楽街に暮らす人間にとっては然程至急を要する問題ではない。故に一日ほどの間が空いたのだろう。カミューは納得し、それから女が掻き回していた鍋を見遣って、控え目に提案してみた。
「……何か御手伝い出来ることはありませんか」
ロウエンは虚を衝かれたように瞬き、急いで首を振った。
「何を言ってるんだか。病み上がりの人間に手伝いなんかさせたら、おれが姐貴に怒られちまうよ」
「動いていた方が調子が良いのです。たいしたことは出来ないかもしれませんが、わたしにやれそうな作業があれば仰ってください」
それに、とやや躊躇しつつ弱く言い添える。
「食べさせていただいて、こうして着るものまで与えていただいて……何もお返しせぬままでは、身の置き所がありません」
「囲いものにでもなった気がする、って?」
カラカラと笑い出し、ロウエンは大仰に首を振った。
「あんたくらい見てくれが良けりゃ、おれたちでなくても世話したい人間は山程いるだろうさ。なのにあんたは甘えないんだね、見上げたもんだ。だけど……本当に何もないよ、少なくとも今はね。掃除は店を空ける直前にやることになってるし、薪割りも水汲みもおれが済ませちゃったから」
「……毎日のように巡回の騎士が立ち寄られるのでは? 持て成しの仕度をなさっていたのではないのですか」
注意深く切り出したところ、ロウエンは破顔した。
「騎士を持て成す? ないない、そんなことしないって。巡回は日に三度の交替制だけど、顔を出すのは決まって夕方、店を開ける直前だね。それも、特に用がなければ挨拶を交わす程度さ。この区じゃ赤騎士は好かれてる方だけど、長々と居座ったりしないよ。おれたちや客が気詰まりしないように、ちゃんと配慮してくれてる」
「ああ……そうなのですか」
カミューの知る騎士たちなら然も有りなん、細やかな気遣いは徹底しているだろう。ならばその時間帯に留意していれば存在を知られる恐れはなさそうだ。苦さを呑み込み、そう考えた。
「料理を作っていらしたようなので、てっきり騎士向けかと思いました」
「ああ、これ? 食べてみるかい?」
鍋に目を戻したロウエンは、小皿にスープを取り分けた。無言で皿を差し出され、素直に口をつけたカミューだったが、刹那、表情が強張った。
「感想は?」
「……刺激的な味ですね」
彼女は堪らずといった勢いで吹き出した。
「いいよ、気を遣わなくて。自分でも、あまりの不味さに感心してるんだから」
言いながら、隅に置かれた小椅子に腰を落とし、やれやれといった面持ちで語り出した。
「おれ、レオナ姐貴が好きだし、この店も気に入っているけど、やっぱり将来は自分で店を持ちたいんだよね。小料理屋、っていうのかなあ……他じゃ出ないような独特の料理が売りの店。姐貴もそれを知ってるから、こうやって昼飯作りを兼ねて料理の練習をさせてくれるんだけど、なかなか巧くいかなくてさ。今日も失敗。味にメリハリがないから色々入れていったら、収集がつかなくなっちゃった。参ったよ、これじゃ昼飯がパアだ。結構な材料費を注ぎ込んじまったのになあ」
そうして忌ま忌ましそうに鍋を見据える。
「良いのが出来たら「ロウエン様特製の何々」ってメニューに加えて貰おうと思ってるのに……現実は厳しいぜ。こいつは捨てるしかないよな、ああ勿体無い」
カミューは調理台に小皿を置いて鍋を覗き込んだ。渋い顔をしている女に目を向け、穏やかに言う。
「味を付け直してみたらどうでしょう?」
「手遅れだよ、散々弄り尽くしたもの」
即座に言い返し、だがロウエンは表情を改めた。
「……何か手があるかな」
「分かりませんが……」
カミューは両袖を捲り上げ、杓子を取って、鍋から汁分を掬って捨て始めた。興味を引かれたように立ち上がったロウエンが横に並ぶ。完全に汁がなくなってから真水を足し入れた青年に、彼女は首を振った。
「肉や野菜に前の味が染みちゃってるから、無理だと思うけどなあ」
「ええ、でも……試すだけ試してみましょう。これだけの具材、無駄にしてしまうのは惜しいですし」
幼い日を過ごした草原の村は、水は豊富で、作物もそこそこ採れ、飢えや乾きに喘ぐことはなかった。けれど人々は何時訪れるか分からぬ自然の厄災を恐れていた。
最も近い集落へも相応の距離がある孤立した村であったから、天災に見舞われれば即座に窮地に立つ。そのため村人たちは採れた食材は絶対に無駄にせず、尚且つ備蓄に励むという暮らしに徹していたのである。
カミューは調理場に並んだ調味料を確かめながら慎重に鍋に加えていった。その手際を見て、不思議そうに目を丸くするロウエンだ。
「……意外だね。あんた、料理なんかするんだ」
「見様見真似ですし、たいしたものが作れる訳ではありませんが。あの……これを使っても構いませんか?」
取り上げたのは香草の一種である。ロウエンは苦笑した。
「昨日交易所で見つけて買ってきたんだ。試してみようとしたら癖があり過ぎて、どう使ったものかさっぱりでさ。初めて見る草だし、綺麗だと思ったんだけど」
「これはグラスランドの奥地に生える香草で、煮込み料理などに使います。デュナン各国で使われている香草よりも少し刺激が強いけれど、代わりに日持ちが良くなりますね」
へえ、とロウエンは感嘆の溜め息を洩らした。
「詳しいんだねえ」
「……グラスランドの出なので。子供の頃はこの味が苦手だったけれど、慣れるうちに好むようになりました」
デュナンでは「蛮族」と嘲られる草原の民。けれどロウエンの反応は、カミューが予期した通りのものであった。
「そうなんだ。あんた、グラスランドの人間だったんだ……。ふぅん、やっぱり巷の定説なんてアテにならないよなあ」
彼女は房髪を弄び、興味津々といった面持ちでカミューを窺い見ている。初めて身上を語った青年が、先を続けないかと期待するような眼差しだった。
そうするうちに鍋からこれまでとは違った香りが昇り始めた。ロウエンは鼻先を湯気に近付け、「いい匂いだ」と呟く。一度は廃棄を覚悟した料理の復活を予感してか、瞳が輝やいていた。
やがてカミューは小皿に料理を掬い上げた。一口含んで考え込むのを見たロウエンもまた、味見に乗り出す。豪快に野菜を頬張った彼女は、すぐに目を瞠ってスープをも飲み干し、最後に狐につままれたような顔になった。
「こりゃあ何の魔法だい? 驚いた、まるで別物になってる。しかも美味いよ、初めて食べる味だけど……うん、凄く良い」
「さっきの香草の癖の強さの御陰ですね、お役に立てたなら良かった」
微笑むカミューの横、ロウエンは二度、三度と小皿に料理を盛っては咀嚼に忙しい。確かこれは昼食になる筈だったのではなかったか、とカミューは小首を傾げる。この勢いで味見を重ねていては、食卓の席に着く前に腹が膨れてしまうのではないかと案じながら。
そのとき、往来側の扉の外に人の立つ気配がした。はっとして、物影に身を潜め掛けたカミューだったが、入ってきたのはレオナだった。
「ただいま。ああ、お腹が空いたよ。ロウエン、何か出来たかい?」
「お帰り、姐貴。たった今、凄いのが完成したところさ」
胸を張る妹分へと愉快そうな視線を向けたレオナは、腕捲り姿の青年に気付いて目を瞠った。
「起きていて大丈夫なのかい? まさかロウエンに「手伝え」って駆り出されたんじゃないだろうね」
カミューは首を振ろうと、片やロウエンは弁明しようと口を開き掛ける。先んじて、彼女は続けた。
「……冗談だよ。どうせ「是非にも手伝わせてくれ」とか言われたんだろう?」
そうそう、とすかさずロウエンが手を打つ。
「若いのに義理固いんだよ。タダ飯食らうのは気が退けるんだってさ。おれより少食なのに」
「あんたはちょっと食べ過ぎ」
間髪入れず揶揄を入れ、レオナは小さく息を吐いた。カミューへと目を戻し、うっすらと笑んだ。
「したいようにすれば良いさ。でもね、気を張れば身体は動くかもしれないけど、病み上がりなのを忘れるんじゃないよ。いいね?」
見掛けを裏切る青年の頑固さを認め、もはや窘るのを諦めたような口調である。カミューもまた苦笑を零し、軽く首肯したのだった。
一応の決着を見て、レオナは涼やかに手を打ち鳴らした。
「じゃあ、完成したばかりの凄い料理でも御馳走になろうかね」
「食べてみて驚いてよ、姐貴」
ね、とカミューに目配せしたロウエンは、洗ってザルに上げてあった葉野菜を千切り始める。
「寄り合いはどうだった?」
「予想通りだね、皇太子の結婚中止の知らせと……後は、即位式が近付いて他国からの客が増えてきているから、諍い事が起きないように今まで以上に気をつけろ、ってさ。用心棒の数や質に不安がある店は、申請すれば重点的に騎士が廻るそうだよ」
ふうん、とロウエンは相槌混じりの感嘆を洩らした。
「飽く迄も店側主体の方針は曲げないでくれるんだ。赤騎士団ってのは、本当にこの区を分かっているよなあ」
首府都の中で最も治安的に問題がある区画。だが、無闇に警戒の目を光らせれば、歓楽街としての特質が失われる。区内の人間の手で極力問題を片付けたい心情を、騎士は理解し、尊重しているのである。
ロウエンの感慨は、カミューのものでもあった。騎士団と歓楽街、あるいは相容れぬ立ち場に属する筈の両者の間にも、ほんの僅かな配慮から良好な関係が築き上がる。正に理想的な統治と言えるだろう。
「カミュー、そこのパンをテーブルに運んでくれよ」
ロウエンの視線の先では、店の卓の一つでレオナが茶器の準備をしている。請われたようにパンを運ぶ間に、ロウエンは煮込みを皿に盛り付け終えた。珍しい香りに気付いたレオナが目を細める。
「……変わった匂いだね。昨日の香草を使ったのかい?」
「まあね。とにかく、感想は食べてみてからにしてよ」
慎ましやかな昼食の仕度が整った。早速煮込みを口にしたレオナは、へえ、と目を瞠る。
「良い味だねえ。独特の風味だけど、これは酒にも合いそうだ」
「だろ?」
ロウエンは得意げに笑み、次いで苦笑した。
「実はさ、味付けに失敗しちゃったんだよね」
「またかい?」
「……うん。そいつをカミューが直してくれたんだ」
「カミューが?」
これにはレオナも驚きを隠さず、静かに生野菜を啄んでいる青年を凝視する。
「元のスープを捨てて、あれこれ調味料入れて、あの草を使ったらこの通り。こういうのを「瓢箪からコマ」って言うのかな」
「ちょっと違うと思うねえ」
さらりと一蹴し、更に彼女は数口を飲み込んで、カミューに微笑み掛けた。
「意外な特技があったんだね、料理が出来るなんて思わなかったよ」
「出来る……という程のものではありません」
「謙遜するなって。けど、やっぱ意外だよな。料理はお袋さんに教わったのかい?」
ロウエンの開けっ広げな関心は、カミューの胸に妙に甘く響いた。粗末な厨房に立つ、幾人もの「母」の懐かしい姿が脳裏を過ったからかもしれない。
「教わった……と言うか、見て、手伝っているうちに何となく覚えただけです」
「お袋さんの手伝いかあ。あんた、見掛けに寄らず家庭的なんだね」
ほとほと感心した口調でロウエンは青年を小突く。それから彼女はレオナへと視線を戻した。
「カミューはグラスランド人なんだって」
「そうなのかい?」
やはりレオナも、出自について含みある反応は示さない。ただ純粋な興味があるだけだった。
「うん、あの香草はグラスランド産だったんだ。ってことは、この味付けはあっち風な訳だよね。こういう、デュナンじゃ食べられないような料理を店で出してみたらどうかな?」
「そうだねえ、あたしは良いと思うけど……」
そこでカミューは、二人の眼差しが自らに向けられているのに漸く気付いた。慌てて咀嚼を止めて背を正すと、ロウエンはにこやかに言った。
「まだ他にもあるんだろう?」
「……と仰いますと?」
「決まってるだろ、メニューだよ。グラスランドの料理を教えておくれよ、店で出すんだ。客が注文すれば儲けになる。売上に貢献したあんたは、タダ飯だの何だのって引け目を感じなくなる───どう?」
いきなりの展開に、束の間カミューの思考ははたらかなかった。取り敢えず分かったのは、女たちが自分に、自責を感じず留まっていられるよう、手段を捻り出したということだけだ。彼は慌てて首を振った。
「わたしが知っているのは、片田舎の家庭料理に過ぎません。店の品書きに加えるようなものでは……」
「それは姐貴が決めるよ。ね、姐貴?」
「まあ、そうだね」
「それに……御厚情はありがたいけれど、長々と居座るつもりは、決して───」
「元気になるまででも良いじゃないか。立ち動いてる方が治りが早いんだろ? それとも何かい、おれに教えても無駄だとか思ってる?」
「と、とんでもない。お役に立てればとは思いますが」
「じゃあ決まりだ。明日からでも頼むぜ」
ロウエンはレオナに片目を瞑り、くすくすと笑い出す。
「これから昼はグラスランドの家庭料理だよ」
「料理のレシピが増えるより、食べる方が楽しみなんだろう、あんたは」
どうやら女たちの間では、この件は決定してしまったようだ。特に料理が得意分野という訳ではないカミューとしては複雑な心地だが、文無しに近く、二人の厚情に応える手立てがない身なのも事実なので、これは受けるしかないだろうという諦念が勝った。
「本当にたいしたものは出来ないと思いますが……」
「まあ、そんなに気張って考えなくて良いよ。この料理だけでもたいしたものさ、これもレシピが欲しいね」
「あ、姐貴、それは無理。元になった変な味はおれの作品だから。まるっきり同じものは作れないと思うぜ」
そう言って、ロウエンは皿の煮込みを立て続けに流し込むのだった。
他愛ない遣り取り、温かな料理、笑い声。
二度と戻らない故郷での日々が蘇り、カミューの胸を詰まらせる。穏やかな安らぎが身を苛む。
一刻も早く目的を遂げよと、体躯を流れる血が囁く。
騎士たちに「蛮族」と謗られた、あの日流しそびれた草原の民の血が───
霞み掛けたカミューの意識は、再び戸外に響いた足音に引き戻された。コツコツと叩かれた扉が躊躇いがちに開く瞬間、彼は反射的に俯いて顔を隠そうとした。
「こんにちは、レオナ姐さん」
だが、扉口に立っていたのは騎士ではなく、若い娘であった。青年の、隠し切れなかった安堵をレオナは横目で一瞥する。それからすぐに娘へと向き直った。
「あ、……ごめんなさい、お食事中だったのね。出直すわ」
「良いよ、どうしたんだい?」
入るよう促したが、娘は見慣れぬ青年の存在に遠慮するように、その場に立ったまま動かない。色白な頬には微かに朱が上っていた。
「ちょっと報告に来ただけなの。前に話を聞いて貰った件で」
ああ、とロウエンが頷く。
「あの碌でなしの白騎士か。あれからどうした?」
娘はちらちらとカミューを窺い見ては唇を開け閉めしている。察したようにレオナが言った。
「遠縁の子だよ、久しぶりに訪ねてくれたの」
カミューは驚いたが、表情には出さなかった。代わりにゆっくりと立ち上がる。
「わたしは外しますので……」
「ああ、待って」
娘は急いで首を振った。
「お食事中なのに」
「もう済みましたから」
「いいえ、いいの。すぐ終わります、どうぞそのままで」
必死の様相で言い募られ、迷った挙げ句、腰を下ろす。相変わらず戸口に立ち尽くしたまま、娘は語り出した。
「さっきね、あいつが来たの」
「……って、昼間っから? 「仕事しろ」って言ってやりたいぜ、まったくもう」
たちまちロウエンが口を尖らせる。娘もまた、苦笑した。
「でね、旦那さんに例の話を持ち掛けてきたんだけど……姐さんに言われたように旦那さんに頼んでおいたの、そうしたらあの男、何も言わずに帰っちゃったわ」
へえ、とレオナは微笑んだ。
「旦那は味方してくれたんだね」
「言うのはタダだ、って……一桁も多く言ってくれちゃった。いつも威張りくさっている白騎士隊長「様」が、ぐうの音も出なかったのよ。姐さんたちにも見て貰いたかったくらい」
「悔しかったら金と権威で解決してみろ、ってところだよな」
豪快に笑みを零す妹分を軽く窘め、レオナはふと表情を引き締めた。
「あんまり油断するんじゃないよ。まだまだそいつの立場が強いんだし」
それを聞くと、娘は笑みを納めた。やや不安をちらつかせながら俯く。
「……そうよね。でも、あの男の負け姿なんて、ちょっと気分が良かったから、つい……」
「気持ちは分かるけど……これで諦めれば良いねえ」
「いっそ店に来なくなってくれたらと心から思うわ」
そこまで言って、娘ははたとカミューに目を止めた。部外者の若い男に自らの生業をあからさまにしてしまったことに狼狽えたのか、表情に泣きそうなものが浮かぶ。
そんな娘に、カミューは穏やかな笑みを返した。薄紅かった娘の頬は、みるみる真っ赤に染まった。
「ご、ごめんなさいね、変な話を聞かせて……。それだけなの。お昼時に訪ねちゃって、ごめんなさい。本当にありがとう」
レオナは緩やかに首を振り、優しく微笑んだ。
「構わないさ。そろそろ寒くなってきたから、身体には気をつけるんだよ。また御飯でも食べにおいで」
すかさずロウエンが言い添える。
「そのうち珍しい料理が増えるからさ、楽しみにしててよ」
何度も礼を言いながら娘が去ると、女たちは目線を交わし合い、独り蚊帳の外だったカミューに短く説き始めた。
「前に話したろ? あんたを拾った日に店で泣いてた女の子。あの娘、嫌な客に捕まっちゃってるんだよね」
今更彼女の「商い」は隠せまいといった諦め混じりの口調だった。
「白騎士隊長、とか言っていましたが……」
うん、とロウエンは溜め息をつく。
「あんたもあそこまで話を聞いちゃったし、言っても良いよな。騎士が女の子と遊びに来たってどうとも思わないけど、そいつは別。花街の女だからって馬鹿にして……そりゃあ酷いらしいんだ」
「……騎士にも色々いるでしょうからね」
「まったくだよ。そいつが最近あの娘の身請けを考えてるらしくてさ。絶対に嫌だ、って泣きに来たわけ。それで姐貴が入れ知恵して、置き屋の主人に身請けの金を上乗せして貰ったんだ。払えないような大金なら諦めるだろう、って」
成程、とカミューは納得した。
この街で娼婦が大切にされているのは本当らしい。娼館の主人なら、細々と返される貸し金よりも、一時に入る身請け金を望ましく思うものだろうに。
「でも……大丈夫なのですか? 相手が逆上しないとは限りませんし……」
「それなんだよねえ」
レオナが複雑そうに頷いた。
「提案したは良いけど、あたしも気になってね、今日も寄り合いで少し話を聞いてみたんだよ。その白騎士隊長、血の気が多くて、結構腕も立つんで知られているらしい。一言も言わずに引き下がった、っていうのは何だか嫌な感じだと思ってさ」
「でも姐貴、確かあの娘の店には用心棒が三人も居るんじゃなかったっけ?」
「……まあね。騎士隊長ともあろう男が、そうそう馬鹿はやらかさないだろうけど……」
そうは言いながらも、レオナは気が晴れぬ面持ちだ。流れた重い空気を振り払うようにロウエンが声を張った。
「あーあ、皇王様。早いところ質の悪い連中を切ってくれないかなあ。いっそのこと白騎士団と、赤や青の序列を入れ替えちゃう、とかさ」
伸びをしながらの言いように、カミューは低く問い掛ける。
「新しい王にはそれが出来ると思われますか?」
「して貰わなきゃならないんだよ。上に立つ人が高潔なら、下も自然と倣うものさ。赤騎士とか青騎士を見ていれば分かるよ。白騎士団だって昔は違ったそうだからね、ゴルドーって団長が体質を変えちまったんだ。白騎士団長の解任権は皇王にしかないって話だし、早いところ即位してゴルドーを何とかして貰わないと、白騎士の横行は納まらないよ」
カミューは俯き、冷えた茶の残りを干した。
「新王は、マチルダの希望といったところですか……」
小さく掠れた独言は、皿を片付け始める音に掻き消された。ロウエンが洗い場に水を張る一方、階段の方へと向かったレオナがカミューを手招く。彼女は奥まった場所にある扉を開けて、先へと誘った。
「この廊下の突き当たりがお風呂だよ。熱が引いたなら、お湯に浸かった方が身体も解れるだろうから、お使い」
案内された浴室は良く見る設えで、使用について改めて講義の必要はなかった。
「いつもは店を閉めてから入るんだけど、昨夜は二人とも何だか眠くてねえ。朝になってから入ったから、少し沸かし直せばすぐ入れるよ。明日からの入浴時間は……まあ、適当に考えよう」
同居人が増え、しかもそれが病人だったため、看病だ、世話だと立ち回り、女たちは寝不足気味なのだ。それが分かるだけに、カミューは丁寧に頭を下げずにはいられなかった。
「それとね、カミュー」
レオナは、何時の間にか小さな容器を手にしていた。それを差し出しながら小声で言う。
「入るついでに使っておきな」
「これは?」
「髪染めだよ」
ぎくりとするカミューの眼前で、女は優雅に腕を組む。
「寄り合いの帰りに買ってきたの。昨日、話をしていて思いついてね。さっきあの娘が来たときも、あんた、慌てて顔を隠そうとしていただろう」
「…………」
「店を開けてる間は階段の前に衝立を立てるし、さっきの扉は店の方から見えなくなる。だから、あんたの部屋と浴室は気にせず行き来が出来るけど、念のため。それで髪色を変えておけば、ぱっと見ただけじゃ分からなくなる。ロウエンじゃないけど、扉が鳴るたびにビクつく色男ってのはいただけないからねえ」
ロックアックスの街では珍しい髪色───女たちに指摘されたときから気になってはいた。この店を出るにしても、何とかせねばすぐに騎士の目についてしまうだろう、と。
けれど、そんな希望を切り出せる筈もない。どうしたものかと思案するうち、さながら心を読んだかのように先んじた女に、感謝以上の不安が沸き上がる。
「レオナ、殿……」
強張ったまま艶やかな女主人を凝視する。何か気付いているのではないか、けれど気付いているなら巡回の騎士なり何なりに話を持ち掛けるのが自然であって、こうして身を隠すのに手を貸すような真似はすまい───彼は混乱の境地にあった。
「あなたはいったい……何故わたしにここまで……?」
さあ、とレオナは首を傾げる。
「そうしたい気がするからさ」
気楽な物言いに激情を煽られ、カミューはきつく首を振った。
「追われていると、そこまで気付いておられるなら、どうして匿うような真似をなさるのです? わたしには分からない、何故面倒を背負い込もうとなさるのか」
「実はね、あたしにも分からないんだよ、カミュー」
ひどく真面目な顔で返し、彼女は弱い溜め息をついた。
「あんたの懐具合からして、追っ手は借金取りかと考えたけど……タダ飯を気にするような人間が、借りた金を踏み倒して逃げる訳もないしねえ。悪事をはたらいて追われているとは、どうしても思えなくて」
「───人を手に掛けたとしたら?」
半ば自虐的にカミューは吐き出した。
「人を殺めて追われているのだとしたら、それでも同じように仰いますか」
白騎士団・第二隊長を斬った感触が今も残っている。相手の瞳から光が失われる様、亡骸を塵に返したときに森に漂った異臭が。
そうして今ひとり、殺意の先に佇んでいた男も。裏切りを認められず、無防備に身を晒していた最後の「敵」の、呆然とした姿が───
レオナは笑みを消し、やや気配に緊張を増して、だが目を逸らそうとしなかった。
「……あたしは傭兵相手に商いをしてきた。戦いを生活の糧にしてる連中を山程ね。人を殺すのが良いとは思わないよ、悲しいことだ。でもね、その人間が選んだ道を否定する資格なんて、あたしにはないからね。遊びで殺す、ってのは論外だけど……もしもあんたが本当に人を殺したのなら、止むに止まれぬ事情があったんだろう。そういう目をしてるもの」
「……目?」
「苦しくって堪らない、って目さ。この街じゃ良く見るよ。好きでもない仕事に就いてる女の子たちは、たいがい皆、そんな目をしている。割り切ろうとして、こうするしかないんだと自分に言い聞かせて……だけど、心の中じゃ悲鳴を上げてる。抜け出したくて苦しんでいる」
勿論、手っ取り早く大金を稼ぎたい、っていう女の子もいるけどね───そう付け加えてレオナは微笑む。
「まだ若いんだ、時間は幾らでもあるだろう? 何を背負っているのか知らないけど、ゆっくり考えたら良いよ。それまでの間、身を隠すなら、手助けくらいはしてやるからさ」
言うだけ言うと、レオナはくるりと踵を返し、扉の向こうへと足早に去って行った。残されたカミューは戦慄きながら声を絞る。
「……考える時間などありません」
渡された容器を、持てる精一杯の力で握り締めて。
「必要も、ない」
そのまま壁伝いに崩れ落ちた。
「あいつは敵だ」
縋った冷たい壁に額を押し当て、身を縮めて呻く。
「わたしからすべてを奪った敵の、最後の一人だ───」
けれど小さな呟きは、今や彼自身の耳にも暗示めいて聞こえた。

 

← BEFORE             NEXT →


次回からの赤パートは
「傭兵赤のクッキングスクール編」が
始まり……ません。

 

TOPへ戻る / 寛容の間に戻る