最後の王・84


宮殿を出たときには、既に日も落ちようとしていた。
正門番の面々は、来たときとは総入れ替えになっている。前任たちの「不始末」を聞かされたのか、二人を送り出す態度は王侯貴族に対するそれで、フリード・Yは言いようもない居心地の悪さを覚えた。
街門へと戻る路を暫し進んだところで、彼は周囲を確かめながら思い切って問うてみた。
「これで良かったのでしょうか」
「……?」
「予想に違わず、テレーズ様は強い衝撃を受けておられるようです。この先、ワイズメル公とゴルドーが通じていた証を立てようものなら、今以上に傷ついてしまわれるでしょう」
そうだな、と赤騎士隊長は手綱を握り直す。
「だが、我々には如何んともし難い。こればかりは耐えていただくしかあるまいな」
「直接お会いするのは難しいかもしれないとロックアックスを出る前から思ってはおりましたが……わたくし、ちゃんと御役目を果たせたのでしょうか。殿下の御心はテレーズ様に伝わるでしょうか」
それを聞いた騎士はゆっくりと目を細めた。
「憂いても詮無きだ、フリード殿。君は最善を尽くした。あの侍女と公女殿は、君とマイクロトフ殿下に等しい信頼で結ばれているように思う。殿下が望まれた通りを公女に伝え、先々の支えとなる筈だ」
フリード・Yもエミリアと会ったのは三度目に過ぎない。けれど騎士隊長が言うように、彼女の主君への忠節には、自らと同じ、あるいはそれ以上の深く一途なものを感じている。
きっと伝わる、何ひとつ欠けず、真っ直ぐに。フリード・Yはそう自らに言い聞かせた。
赤騎士隊長がふと、首を傾げる。
「それにしても、幾ら大臣連中が無能でも、公女の侍女に国主の葬儀手配まで委ねるとは常軌を逸しているな」
「前に伺った話では、エミリア殿はテレーズ様と御一緒に政治学を学ばれたそうですよ。ワイズメル公も、昔はテレーズ様を他国に嫁がせたりせず、グリンヒル公主の位を譲るつもりだったのでしょう」
成程、と騎士は頷く。
「国主側近としての下地はある訳か、ならば大丈夫だろう。公女を手放してまでマチルダと結ぶ……ワイズメルが何を狙っていたにしろ、これが天の意思といったものか。グリンヒルは、聡明な女国主と誠実なる側近の許に、在るべきかたちへと立ち戻る」
───そして、いずれ王を失うマチルダとも親交は続くだろう。両国の頂に、互いを認め、信じる心を持つものが立つ限り。
騎士の言葉に心からの同意を示し、フリード・Yは改めて問うた。
「わたくし、アルバートなる人物と会った後はすぐにマチルダに戻るつもりでしたが……隊長殿は、「数日滞在する」とエミリア殿に仰っておいででしたね、そうした方が良いのでしょうか」
「ああ、あれか」
男は少し複雑そうに眉を寄せて若者を一瞥する。
「君は感じなかったかね?」
「何をです?」
「彼女の様子だ。それまでは歯に衣着せぬ物言いだったものが、あの一瞬だけは違った。何事かを秘めたような……言いたいのに言えずにいるような、そんなふうに見えた。だから咄嗟に猶予はあると口にしてしまったのだ。わたしも君には一刻も早く殿下の御傍に戻って貰う心積もりでいたのだが」
言われてみれば、とフリード・Yは考え込んだ。
エミリアは、不可解なほど真っ直ぐに彼を見詰めていた。そこには言葉にされた以上の何かがあるようにも思われた。
「ともあれ、程なくワイズメルの葬儀が行われる。マチルダからの列席者が誰になったにしろ、君は我ら騎士とは比較にならないほど顔を知られているし、一団と鉢合わせるのは芳しくない。葬儀の最中、こっそりとグリンヒルを出るのが望ましいと思う。テレーズ殿との対面が叶わずとも、エミリア殿に伝えた「数日」という言葉はあながち嘘でなかったことになるしな」
葬儀に紛れて公都を出るなら、結局テレーズとは会えないまま終わりそうだ。父公を送り終えるまではテレーズの心の整理はつかないだろう。実際、会って何と言えば良いのか分からぬフリード・Yは、そんなふうに結論付けて気持ちを切り替えた。
「アルバート殿の家は遠いのでしょうか」
騎士は懐から覚書を出して位置を確認しながら応じる。
「いま少し行ったところだ。御母上の話では、宿屋の離れを友人と借りて住んでいるらしい」
そこでフリード・Yはもじもじと打ち明けた。
「あのう……実はわたくし、アルバート殿を訪ねる意図が今一つ分からないのですが……。細工職人を探した当初は、印影から偽造印章を作れるかどうかを質すのが目的でしたよね? でも、職人は殺されていた。それは、偽造印を作ったことを口止めされたため……そのように皆様は考えておいでなのですよね」
正直に吐露すると、男は微かに笑んだ。
「その通りだ。しかしな、フリード殿。確証を得るまでは、すべて仮定に過ぎぬ。まったくの第三者が書類上の印影から偽造皇王印を作った可能性も消えた訳ではない。爪の先ほどであっても、可能性があるうちは追い続ける、それが「狩り」の極意だ」
とは言え、と嘆息しながら言い添える。
「気ままに各地を旅して回っていた御仁という話だからな。公都を離れていてはお手上げだ、何とか留まってくれていると良いのだが」
覚書に記された宿を目指す二人の頭上に、静かな闇が迫っていた。

 

 

 

祈りにも近い思いは叶ったようだ。漸く辿り着いた宿屋の女将は、愛想良く訪問者を迎え、帳場の窓から見える離れを指した。
ただ、目指す人物は帰宅していなかった。このところニューリーフ学院でオルガンを習っているとの話だ。そんな訳で、二人は夕食を取りながら待つことにした。
昼に街の外で休息したときには疲労のあまり食べ物を目にする気にもならなかったフリード・Yだが、「皇子の伝言」を伝え終えた解放感もあって、女将の運ぶ料理に片端から手をつけては舌鼓を打った。
長居を詫びる騎士に、女将は鷹揚に笑う。
「また揉めているのかもしれない。そのうち帰ってくるから、遅くなっても構わないなら気長にお待ちよ」
「揉めている?」
瞬く二人に女将は語った。
「同居人のピコが──ああ、音楽仲間だけどね──若い娘と見れば良い顔をするもんだから、しょっちゅう揉め事になるんだよ。それでアルバートは、仲裁に入ったり、相手の娘を慰めたり……。それでも音楽の感性とやらが合うんだろうね、合奏してるときは楽しそうさ。最近じゃ、歌を唄う仲間を欲しがっていたけど、あんたたち、もしかして候補かい?」
身上に興味を向けられてフリード・Yはどぎまぎしたが、そこは騎士が、自身らはアルバートの母の知り合いで、グリンヒルに来たついでに様子を見に立ち寄ったのだと説いた。
そうなの、と女将は表情を曇らせた。
「まさか、具合が悪くなったとか言うんじゃないだろうね?」
「いいえ、御健勝です」
「なら良いんだけど。同じ年頃の女としては複雑だよねえ。息子と一緒に暮らしたいんじゃないかと、お気の毒に思うときもあるよ」
沈んでしまった女将の気を引き立てるように赤騎士隊長は首を振る。
「彼女はアルバート君が好きな音楽を続けるように願っていますよ。様子を見ようというのは、わたしたちの勝手な行動ですから、彼女が知ったら寧ろ怒るかもしれません」
「そう……その気持ちも分かる気がする。母親ってそうなんだよね、自分のことより子供の望みを叶えてやりたいのさ。アルバートもそれが分かったから、ここに戻って音楽の勉強を続けているんだろうけど……いつも気に掛けているよ、手紙もマメに送っているし」
家業を嫌って飛び出した息子と、独り暮らしになった母親。アルバートが以前のような旅暮らしに戻らずにいるのは、ニューリーフ学院で音楽を学ぶという理由だけではなさそうだ。何かあればすぐに連絡が取れる地に留まりたいという孝心も一因しているのだろう。
そんな会話を重ねるうちに、扉から一人の男が顔を覗かせた。
「遅くなりました、女将さん。今日は食事を済ませてきましたので……」
「アルバート! 待っていたんだよ。ちょっとお入り、お客さんだから」
「お客? ぼくに、ですか?」
男は怪訝そうに目を瞠り、半開きだった扉を大きく開け放った。卓について食後の茶を啜っていた二人が立ち上がって一礼すると、「誰だっけ」と言いたげな面持ちで小首を傾げる。
「お母さんのお知り合いだそうだよ。あんたが戻ってくるまではと思って、こっちで待っていて貰ったの」
「母の?」
眼鏡を掛けた温厚そうな瞳が思案に揺れる。が、疑いらしきものが過ることもなく、すぐに丁寧な会釈が応じた。
「そうでしたか、お待たせしてすみませんでした。何もお構い出来ないけれど、良かったら部屋の方へどうぞ」
「しかし……友人がおいでとか。迷惑では?」
同居の友人にも内密で話したかったので、女将に宿の空きを問おうかと考えていた騎士隊長だが、アルバートは苦笑を噛んだ。
「当分戻りません。戻るとしても相当遅くなると思います」
「何だい、やっぱり修羅場の真っ最中かい」
女将が大仰な溜め息をつく。
「今度はどの娘に責められているの」
「どの娘……どころじゃないよ、女将さん。四人がかりで「誰に対しての言葉が本気か」と大騒ぎだ。早々に逃げてきたんです、一晩掛かっても終わらなそうだったから」
赤騎士隊長は吹き出しそうになるのを堪えながらフリード・Yに目配せした。
「そういう事情なら、御友人に気兼ねなく、ゆっくり話せそうだ。申し出に甘えさせていただこう」

 

 

 

宿屋を出て、庭地に建てられた離れに踏み込んだフリード・Yと騎士は、居間のあちこちに並べられた楽器に圧倒された。中には見たこともない品もある。知らず感嘆の息を洩らして、フリード・Yは触れぬようにそれらを眺め回した。
「すごいですねえ……こんなにたくさん……」
「色々試してみたけれど、人並みに奏でられるのは一握りだよ。一番性に合っているのは、あれかな」
女将に貰った蝋燭の火で部屋中の燭台を灯したアルバートが指したのは、大きな弦楽器だ。フリード・Yの知識の中では、あまり独奏に向く楽器ではない。表情に出たのだろう、アルバートはにっこりした。
「友人がチターを使うんだ。あとは歌を唄う仲間でも居れば、小さな楽団としてやっていけそうなんだけどね」
二人に椅子を勧め、向かいに座るなり、穏やかな表情が引き締まった。二人のうち、年長者である赤騎士隊長を見詰めて切り出す。
「母のお知り合いとの話でしたが……母に何かあったのでしょうか」
騎士は首を振り、静かに答えた。
「先ずは母上の知己と騙ったことを詫びる。彼はフリード・ヤマモト、マチルダの皇太子マイクロトフ殿下の従者だ。わたしは赤騎士団の第一隊長、共に殿下の代理として君を訪ねてきた」
アルバートはぽかんとした。語られた素性が今一つ理解出来なかったように口中で繰り返している。騎士は母親直筆の覚書を卓に乗せた。馴染み深い筆跡が、アルバートの疑念を払拭したようだった。
「この通り、君がこちらで暮らしているのは母君に伺った。わたしは直接お会いした訳ではないが、御元気そうだったと聞いている。音楽に打ち込む君を心から応援しておられる、と」
そうですか、と呟いて彼は表情を緩めた。
「良かった。好き勝手をしていながら、と思われるでしょうが……母には元気でいて欲しいのです。本当に良かった」
「案じさせてしまったな、すまない」
アルバートは首を振り、改めて姿勢を正した。
「それより、皇太子殿下の御遣いとは……?」
「マチルダ皇王印について、幾つか意見を聞きたいのだ。母君は、君があの印章を作るための技術を会得していると言っておられたが」
彼は懐かしげな気配を漂わせ、束の間の沈黙の後、ポツリポツリと語り始めた。
「ぼく……いえ、わたしが家業に気が乗らず、音楽に魅了されていたことは、父も早くから気付いていました。でも、先祖から伝えられてきた技術を子に伝えるのは義務だと思ったんでしょうね、十五歳になったときに作り方を教えられたんです」
ふと俯いて、小声で呟く。
「思えば、あんなに長く父と過ごしたのは最初で最後だったかもしれない。家業を継げと煩く言われた訳でもなかったのに、勝手にそう思い込んで父を避けていましたから。挙げ句、家を飛び出して……本当に親不孝な息子です」
ひとしきり悔いるように瞑目して、彼は慌てて顔を上げた。
「すみません、話を逸らしてしまいましたね。それで、何をお話しすれば……?」
赤騎士隊長は一呼吸置いて答える。
「かの印は特殊な技法を用いて作ると聞くが、それは如何ほどのものだろう。例えば押印済の印影を参考にするなどして、第三者が同じ品を作り出せるものだろうか」
アルバートは質問の意図を探るかのように幾度も瞬いた。考え考え、ゆっくりと返す。
「型だけなら……出来るでしょうね。かなり複雑な文様を刻みますが、熟練の職人の腕があれば不可能ではないと思います」
「型だけ、と限定するからには他に何かあると?」
慎重に騎士が追求すると、彼はこくりと頷いた。
「巷で使われる印章の殆どは一つの石から削り出しますが、あの皇王印は違います。ええと、つまり……」
卓の隅に積んであった音符を書き殴った紙片を取り上げ、その裏に図を描き始める。正方形の輪郭のうちに円を、更に再度、小さな正方形を記してアルバートは説いた。
「こんなふうに、三つの素材を貼り合わせて一つに見せているんですね。それぞれの成分が印肉と反応し合う───押した印を良く見ると、微妙に異なる三つの色から成っているのが分かると思いますよ。うちの先祖の作った印章が皇王印に採用されたのは、印色の変化を評価されたからです。組み合わせを秘匿し、子孫にのみ伝えよと命じられたと聞きました」
ふむ、と騎士は考え込む。
「石の組み合わせは容易に考え付くものではない……?」
「順当に考えれば難しいでしょう。洛帝山でのみ取れる石が入っている上、一つは石ですらありませんから」
悪戯っぽい口調で言ったアルバートに二人は虚を衝かれた。
「石ではない?」
「紙面用の印章と言えば、石……そんな一般的な常識を覆したのも評価されたみたいですね。真ん中の素材は革の一種です。わたしも初めて聞いたときには半信半疑だったし、なかなか思い付く職人はいないんじゃないかな」
口調を崩して笑う職人の末裔。これで、第三の人物が偽造を果たしたという線は考慮から削除しても良さそうだと二人は考えた。
「こんなことを言ったら、皇王家ゆかりの方々には不快でしょうが……」
そんなふうに前置いてアルバートは言う。
「家を出たとき、わたしは皇王印のことなんてこれっぽちも考えませんでした。でも、父は違った。先々、製作を求められる日が来たら……そう思ったんでしょう、覚書を残していたんです。それも必要なくなって、胸を撫で下ろした父の気持ちを知ったときには、申し訳ないことをしたと心底から悔みました」
ぴくり、と赤騎士隊長が眉を寄せる。何気ないアルバートの述懐の中には、聞き捨てならない一言が含まれていたのだ。
「必要がなくなった、……と言ったかね?」
「はい。例えば年老いて、自分が印章を作れなくなったときに誰かが代わりを勤められるよう、製作技法と材料を記した覚書です。「作り方は書面に記さず、口頭で伝えよ」との祖先の教えに背いたのを、父はたいそう気に病んでいたようで」
アルバートは丁寧に答えたが、望む説明とは微妙に食い違っていたため、騎士はもどかしさに息を詰めた。
「そうではなく……覚書が不要になったのは何故だね? 君の他にも、技術を伝える人物が居たと……?」
そこでアルバートは幾度か瞬いて騎士隊長を凝視した。一言一言を慎重に、彼は問い返した。
「皇王印は使用されなくなったのでしょう?」
「何ですって?」
騎士のみならずフリード・Yにも目を瞠られて、大急ぎで付け加える。
「最後に印章を作ったとき、父は、近い将来に使用されなくなる旨を伺った、と……違うんですか?」
衝撃的な証言であった。赤騎士隊長は息をする間も惜しんで口を開いた。
「君、これはとても重大事だ、斯様に弁えて答えてくれ。父君は皇王印を作ったのかね? それは、いつ頃だった?」
アルバートが騎士の声音に緊張を増したのを、フリード・Yも感じ取った。得も言われぬ厳しい追求。その意味するところも量れぬまま、真っ直ぐに背を正した細工職人の息子は言い切った。
「およそ五年前です。亡くなる直前でしたから、間違いありません」
仮定の現実化───望んで止まぬ証言が、あまりにも唐突に零れ出た。呆然とした次には、逸る心が声を遮る。絶句したフリード・Yの代わりに騎士は確認を急いだ。
「その発注、母君は何も御存知なかった。君は当時、ロックアックスに不在で、連絡が取れたのも父君が亡くなられた後だと聞いたが……何ゆえに印章を作ったと知っているのかね」
「手紙です」
アルバートはあっさりと言って立ち上がった。部屋の小棚に置いてあった両掌に乗るほどの大きさの箱を持ってきて差し出す。受け取ったフリード・Yが感嘆の息を洩らした。
「……綺麗ですねえ」
色に濃淡のある幾つかの木片から作られた飾り箱。浮かび上がる花模様は驚くほど繊細で、主君同様、装飾品や工芸品にあまり興味のないフリード・Yでさえ欲しい──遠くラダトに住む想い人への贈り物として、であるが──と思う品だ。
年下の若者による無意識の称賛がアルバートを微笑ませた。
「父は生まれついての細工職人だったよ。商いの品以外にも、色々なものを拵えていて……これはね、その中の一つなんだ。子供の頃、ぼくはこの箱がとても好きで、父もそれを知っていたから、「死んだら形見にやる」なんて冗談を言っていた。結局、冗談でなくなってしまったけれどね。葬儀の後、母に頼んで貰ってきたんだ」
「そうだったのですか……」
その父親を、マチルダ騎士が死に至らしめたかもしれないのだと思うと、穏やかではいられなかった。悟られぬよう、箱を矯めつ眇めつし始める。
「あれ、でもこの箱……蓋がありませんよ?」
「普通に開けようとしても駄目なんだ」
貸してごらん、と伸ばされた手に箱を渡すと、不思議な光景が展開した。
アルバートの長い指先が横板の一枚を押すと、ずれた隙間に別の板がはまり込み、箱は上下に割れて回転するようになった。幾度かそれを繰り返していくうちに、思わぬところにぽっかりと穴が空いた。アルバートはその穴を覗き込みながらにっこりする。
「一枚板じゃないから出来る、作り細工の妙技だね。大事なものを隠しておくには良い箱なんだ」
指先が取り出したのは数枚の紙片。愛おしげに両手に包んでアルバートは目を閉じた。
「遺言……のつもりではなかったのかもしれない。けれど、いずれこの箱がわたしの手に渡ると見越していたのでしょう。安心させるために書き残してくれたんです。もう、うちの家に皇王印作製の注文は来ない。だからおまえは心置きなく音楽に打ち込め、と。家業を放り出すほど望んだ道なら一生を懸けてまっとうしろ、半端に投げ出したら、そのときこそ許さない、と……そう書いてありました」
「そ、その手紙……いや、その───」
故人が息子に宛てた最後の文を読ませろとは流石に求められず、赤騎士隊長は口篭る。代わりとばかりにフリード・Yが背を伸ばした。
「アルバート殿、もしも内容的に差し支えないようでしたら、そのお手紙を拝見させていただけないでしょうか。不躾なお願いなのは承知しております。ですが、どうか……」
皇太子付き従者という職務は今ひとつ耳慣れず、フリード・Yに対しては些か気安い調子で接してきたアルバートだった。
だが、この発言によって、彼は若者の必死を感じ取った。二人の訪問は、自らの想像など及ばぬ事態によるものなのだと改めて実感したのである。
卓に付きそうなほど低く頭を下げたフリード・Yの前に紙片が置かれた。
「どうぞ。でも本当に、今お話しした以上のことは書かれていないんですが……」
書状の概要はこうだった。
代々、マチルダ皇王陛下の御しるし──職人夫妻は皇王印をそう呼んでいたらしい──の製作技法を伝えてきたが、次代、その役目を負う筈だったアルバートが家業を捨てて岐路に立たされた。いつ、製作を請われるか分からぬ品ゆえ、悩んだ挙げ句、祖先の意に反して技法を書面に記した。将来的には別の職人、別の技法を用いるにしろ、間に合わせにはなるだろうと考えたからだ。
けれど本日、思いがけず朗報を得た。少しの後、御しるしの使用が廃止されるという。いま作っている品を最後に、家は役目から解かれる。技法書も要らなくなった。祖先に背いた慙悸、子孫に役目を譲れなかった自責も消え、今は心安らかに息子の夢の大成を願うことが出来る───
先を争うように紙面を覗き込んだ二人が目にしたのは、無愛想な文面で綴られた、我が子へと贈る職人の愛情である。
ただ、注目すべき点もあった。文面の末尾に書かれた日付が、職人の死の数日前になっている。
「朗報」を得たのが「本日」である点や、「いま作っている品」といったあたりから、最後の皇王印を注文した相手が、近々マチルダから王が失われ、やがては血脈すべてが絶たれると予見していたのは間違いなさそうだ。つまり、陰謀に加担する人物である。
騎士は眼差しを険しくしてアルバートを見詰めた。
「父君が印章を作られた経緯は? この文には何も記されていないが」
それは、とやや顔つきを堅くして彼は片手を握り込む。小さく折り畳まれた別の紙の端が覗いていた。目敏く見付けた赤騎士隊長は、声が震えそうになるのを堪えて問い質す。
「発注書、……かね?」
たちまちアルバートは緊張を煽られたらしい。息を呑みつつ、首を振る。
「そんな大層なものではありません、単なる覚書です」
二人は相次ぐ驚きに放心した。先に我に返ったのは、本人にも意外ながら、フリード・Yの方だった。
「そ、それを見せてください、是非!」
「お見せしたいとは思うけれど……」
アルバートは二人の反応に逐一呆気に取られていたが、この、二度目の懇願には即答を避けた。戸惑う様子で両者を交互に眺め、更には手元の紙片を眺め、最後に小声で言った。
「そうして良いものか、わたしには判断がつきません。だから先に伺わせてください。父が印章を作ったことが問題になっているんでしょうか」
どう答えたものかと迷ううちにも彼は言い募る。
「母が言ったのは本当です。父は注文された品を頭の中で管理していた。細工には頑固なこだわりを持っていて、一度に複数の注文を受けなかったから、それが出来たんです。でも、あの印章は特別だった。だから父は覚書を残したんです」
大きな栄誉と報酬を与えられる皇王印の製作依頼は、生涯にあるか否かの僥倖だ。職人が特別視しても不思議はない───そんな二人の考えを読んだようにアルバートは首を振った。
「そうではなく、……母とわたしの身を守りたい一心で、文面に書き残してくれたんです」
「守る?」
「……はい。お咎めを受けたときに」
「待ちたまえ」
そこまできて、騎士は性急に割り込んだ。
「つまり父君は……咎となりかねぬと理解した上で依頼を受けたということかね?」
それはまあ、とアルバートはひどく口篭りながら答える。
「壊れた印章を作り直した品と摩り替えるとなれば……、公になったら、父も罪に問われますよね」
───損壊。確か宰相グランマイヤーは、そのような事を口にしていなかったか。
「すみません、これ以上は……。人様の過去を暴き立てるような真似はしたくありません。どうか、御容赦ください」
アルバートは深々と頭を下げ、それきり口を閉ざした。
閉じた貝さながらの姿。フリード・Yは居間を見回して息をついた。
あちこちに散った楽器の数々、それはアルバートの意思の強さを物語る。音楽を愛し、若くして家を捨ててもその道を選んだ、温厚そうな男に潜む強さを。
一切を隠したまま口を割らせることは出来ない、そう考えたフリード・Yは、赤騎士隊長の堅い横顔を見上げた。押し黙っていた男が、ややあって静かに切り出した。
「……これは暫し君の胸ひとつに納めておいてくれたまえ。君を信じて仔細を明かそう。我らは今、過去に行われた忌まわしき企てを究明するために動いている」
「忌まわしき……企て?」
きょとんとしたアルバートは、続いた言葉に硬直した。
「然様。五年前、亡き皇王陛下の御名を騙った一枚の命令書によって騎士が動いた。企ては頓挫したが、今なお首謀者を突き止められずにいる」
賢しげな男は、それだけですべてを理解した。
「その命令書に、父が作った印章が使われた、と……そう仰るのですね」
「君には言うに忍びなく、成ろうものなら告げずに済ませたかった。父君は何も知らず、騙され、利用されたのだろう。全貌が明らかとなっても、罪に問われることはない。父君の名を汚すは我らの本意ではないのだ。ただ、卑劣な企てを目論んだ人物に罪を贖わせたいのみ」
シン、と沈黙が広がった。
アルバートは俯き、長いこと掌の中の紙片を見詰めていたが、最後に上げた顔には徒ならぬ熱が灯っていた。
「父は……父が死んだのは、まさか───」
騎士は答えなかった。何より雄弁な回答がアルバートを打ちのめしたようだった。
無言のまま、すっと卓に滑らされた紙切れを、騎士は押し戴くように取り上げる。丁寧に広げ、素早く視線を走らせた後、呻きにも似た息を吐いてフリード・Yへと突き出し、そのまま顔を覆った。
「帳簿をつける習慣はなかったと奥方は言っておられた。故に半ば諦めていたが……これぞ天の救い、我らは漸く切れる前の尾を掴んだようだ」
珍しく興奮した騎士の口調に圧倒されたフリード・Yだが、渡された紙面を追ううちに震えが止まらなくなった。
紙面には、さっきアルバートが語った通り、「破損を伏せるための代替品」であると記されていた。
内密に摩り替える行為が罪に当たるのは承知している。
けれど不注意は誰にでもあること、程無く使用しなくなる品であるし、何とか急場を凌ぎたいと考えた依頼者の切羽詰まった苦悩を捨て置けない。
だから咎を覚悟で製作に当たる。あらゆる記録を残さず、沈黙を守るよう命じられたが、事が事だ。万が一にも発覚したとき、妻子にまでは咎めが及ばぬよう、自らの一存で依頼を受けた旨を記し残す───
妻子を思う職人の心にも打たれたが、更にフリード・Yを戦慄させたのは、重なる記述だ。文面には依頼に訪れた人物の名までもが書かれていたのである。
しかも、その名には覚えがあった。フリード・Yは狼狽えて騎士を見遣った。
「隊長殿、これは……!」
「……分かっている」
記載された名は、職人殺害事件の調査を行い、その打ち切りを妻に伝えに来た人物と同じもの。あのときは個人を特定出来なかったが、今は違う。紙面には名のみならず、当時の位階が記されていたからだ。良く見る名だが、ここへ来ての偶然は有り得まい。
その人物の現在は───

 

「白騎士団、第三隊長……」
自失気味に騎士は呟けば、フリード・Yもまた、歓喜にも近しい喘ぎを零して、知らず溢れた涙で滲んだ文字を睨み続けたのだった。

 

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初書きアルバートさん。
覚悟はしてたけど、異様に難しかった……。

プリンスへのお土産をゲットしたジミーズ(←笑)、
お土産第二弾もマップ内。

あ、そうだ。今更ですが……
会話文の中で「娘」ときたら、
大部分では「こ」、
それ以外はニュアンスで「むすめ」と
読み分けていただきたく……。
ルビが振れない、オン作の弱み。とほほ。

 

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